「〈文字〉の生存可能性」榛見あきる(遠野よあけ『十二所じあみ全集』感想)
東京に向かうバスの中で遠野さんの『十二所じあみ全集』を読んだ。
難しかった。読み手にとても高度な知性を要求する小説な気がする。
それは作品内で読み手の視点となる人物がとても希薄だから。
『視点人物』と物語の構造について
そもそもアピール文に書いてある通り、その視点人物の存在を登場させるかどうかを悩まれていたようだ。
結論としては『登場』が選ばれた。のだが、この人物の役割は、作品を通して二つしかなかったと思う。『小説として、形式的な時間軸をつくる』ことと『十二所じあみの〝再帰性〟を小説内世界に接続させる』こと。いやもうこの文章の時点で超絶分かりにくいのだが、遠野さんの仕組んだと思われるメタな構造のせいである。
その構造の再帰性(重層化されたメタ世界)をなんとか表現すると
『[{(〈十二所じあみ〉批評家達)白石ヤス}視点人物]十二所じあみ全集』読者(僕ら)
となる、しかも読者(僕ら)以外のカッコは、厳密には揺らいでいて、すべて『十二所じあみ全集』というタイトルの中でかろうじて構造化されているだけなのである。つまり1番大きいカッコは『十二所じあみ全集』という作品であり、かの『視点人物』さえも全集の中に〝再帰的〟に包摂されてしまう。
ここまで文章化して、ようやくその面白さが見えて来るのだが、講座にでも通ってなきゃふつうここまでやらない。Twitterでもこんな作品の前提の話を長々と呟けない。なので、このゲンロンSF創作講座の参加者層に対する、遠野さんからの信頼が込められた文章ではある。愛かもしれないが重すぎる。
で、その『十二所じあみ全集』のなかで視点人物がしていることが、『十二所じあみ全集内の「十二所じあみ全集(の中の数冊)」を収集することで、小説としての物語性(時間軸)を生成している』というわけである
……なんだこの文章は、わかりやすく構造化しようとすればするほど文章的にわかりにくくなる。
もはやこの榛見あきるの感想文さえ、十二所じあみ全集の内に囚われつつあるのかもしれない。
閑話休題。
ようするに、この視点人物が存在することで、小説の中に『時間』が生まれ、『十二所じあみ全集』が複雑な作りをしていることのマイルストーンとなっているのである。
で、その役割はわかったが、その役割しかない。ここまでが『視点人物』と物語の構造についての榛見あきるとしての考察。
この考察が正しいとして、次にその『視点人物』の役割の希薄さの問題と理由を述べる。
『視点人物』の問題点
簡単に言えば、読者の感情移入の対象にならない。読者は、この視点人物を『この小説内世界の基準』として読むのだが、そもそも存在がシステム的でしかないのだから視点を重ねられない(感情移入できない)。なので、読者が作品に入り込むための手掛かりにならない。
わかりにくい例えをすると、主人公が不在のまま進む『Doki Doki Literature Club!』とか『君と彼女と彼女の恋。』みたいな感じ。
構造としては面白くても、面白さを理解させるところまで読者を誘導できてない。ましてやこの視点人物は本当に『この小説内世界の基準』なのかという疑いさえ出てくる。
なぜか、
この視点人物が身を置く社会との関係性の描写が希薄すぎるからである。
文章上で、古書店を渡り歩いていることやライター業をしていること、京都の古書店に依頼したことが語られるが、すべて当人の口から語られる過去の話だ。
その問題点が二つあって、
・一人称の過去で語られているので『視点人物=読者』が、いまどこにいるのかがわからない。なので、読者の視点獲得=感情移入の手助けにならない。
・『当たり前』の事しか書かれてないので、目新しい物(優位性・新規性=面白さ)がない。なので、読者が話を読み続ける動機に結びつかない。
何が言いたいかというと、誰でも書ける文章にしかなってないということである。だが、逆を言えば、誰でも書ける文書にならざるをえなかった。
そう、誰でも──たとえば〝近所の人に見せて、この続きを自由に書いてくれと頼んだ〟としても、この文書が出てくるだろう。
この『視点人物』を小説のシステムとして書いた場合〝やはりみんな同じ言葉を書いてくれた〟はずだ。
つまりはそういう理由があったのかもしれない。
『十二所じあみ全集』の〈文字〉が震えている。今は、東京へ向かうバスの中なのだから振動くらいする。
『十二所じあみ全集』は面白い。とても面白い。
が、普通に読んだ場合、その面白さはめちゃくちゃに見えづらい。というか見えない。難しい。
たとえば、アクションフィギュアを求めている人間に、フルスクラッチのガレージキットを差し出すようなものである。
なので、僕の感想文が、この作品を読み解くための接着剤くらいにでもなれれば幸いである。
『十二所じあみ』という作家は、だれも見たことがないだろうから。