その自由は本当に自由ですか? ~Ave Mujica 3rd LIVE『Veritas』感想~
怪奇!ペンライト禁止レギュレーション
もう本公演の最大の特徴はこれでしょう。このレギュレーションが公開された時、僕のTLもかなりざわついたのを鮮明に記憶しています。
まさかのペンライト全面禁止令。ペンライトがブレードと呼称されることもあることを思えば事実上の刀狩りでした。
元々MyGO!!!!!でも公式に専用ペンライトを販売していない事情もあったため、バンドリ全体としてもペンライト脱却の流れは確かにありました。ただ、ブシロードの普段の行いが悪すぎることもあり、専用バングルを売りつける新手の悪徳商法なのではないかという憶測も当然生まれます。お前ブシロのこと好きなん嫌いなん?
とはいえ、僕自身は少ないライブ参戦経験からもペンライトを使わない方がライブをより楽しめるという感覚に至っていたため、このレギュレーションには全面的に賛成の立場でした。
ペンライトの何が面倒かと言えば、色変えに追われるんですよね。バンドリが公式に販売しているペンライトは18色ものカラーバリエーションがあるのですが、ぶっちゃけ持て余すんですよこれ。18色ある中からカチカチボタン操作して目当ての色を探すの、音楽を楽しむ上ではノイズです。
前日のMorfonicaのライブでも基本はバングル装備で臨んでおり、こちらは5色程度なので手軽に望みの色に変更できます。とはいえ上記の記事を読んでいただければ分かるようにペンライトには助けられた側面も多く、flame of hopeで推しカプカラーのペンライトぶん回したり、金色へのプレリュードでは会場を金色に染める一体感を味わえるなど、ペンライトが無ければ出来なかった楽しみ方は間違いなくありました。
その意味ではこの制御式バングル、拳orバングル派とペンライト派のいいとこ取りをしている非常にクレバーなアイテムです。自分で色を変える手間は無線制御が勝手にやってくれますし、その上でライブ会場を自分たちで演出できる喜びも享受できるというわけです。自分で色を変えるにしても、12色ならまあギリギリ許容範囲かなと思えます。
ところで、アナウンス中のこの文言をどう解釈するかが、既にAve Mujicaからの挑戦状でした。
僕はこの文言、基本はカラーバリエーション随意に変えられるけど特定の楽曲だけは色彩を固定されるものだと考えていました。Symbolsシリーズがそれぞれ赤黄青緑に対応していたので、これらの楽曲ではその色に固定されるんだろうなあと。ちょうど、前日のMorfonicaのライブで自分でペンライトを金色にしたのを、運営側が固定してくるようなイメージでした。逆に、それ以外の楽曲は色変え自由になるだろうとも考えていました。推しキャラの色で応援したい欲望ってのはやはりオタクたるもの持っていますからね。
その考えが如何に浅はかであったかを、ライブが始まってからすぐに思い知ることになる……。
今日のお前たちは舞台装置だ
挨拶代わりに披露されたのは素晴らしき世界でもどこにもない場所(Utopia)。そこからSymbol I : Fire、Symbol II : Airと続きますが、まあここはセトリ的にはシンプルに前回のあらすじです。
2nd LIVE『Querere Lumina』でもUtopiaは先頭を飾っており、FireとAirは当該ライブのキー楽曲でした。日本語に訳すと光を探してという意味のラテン語を題した2nd LIVEでしたが、結局光は見つからずに今回の3rd LIVEを迎えました。モニカの原点もムジカの光も眠ってる河口湖すげーなと思う収束っぷりです。河口湖には全てがある。
なので文脈上は2ndで見つからんかった光探しに来たよ!以上の意味合いは持たないパートなのですが、それだけに今回のライブがどういうライブかを見せつける役目を担いました。制御式バングルがいきなり猛威を振るうことによって……。
オタクたちの手首に装着された制御式バングル、会場を一色に染める……かと思えば照明に合わせてめっちゃ点滅するんですよ。手首に向かってお前そんな暴れんの!?と語りかけたくなるくらい最初は驚愕しきりでした。ミギーを宿したシンイチは当初こんな心情だったのかもしれない。
ちなみに申し込みが遅れたこともあって、この日僕は会場の最後列にいました。横には俯瞰アングル用のカメラ機材まである席です。なのでまあ会場全体がよく見えたのですが、本当に会場全体で一つの世界を作り上げているのが肌で感じられました。完全に観客全員を舞台装置にしていたと言えます。Ave Mujicaのコンセプト的には操り人形と表現すべきでしょうか。
でも、この統一感で拳を振り上げるのがまた何とも気持ちいいのです。眼前に広がるのは一色で染まった壮観な光景、それに呼応しながら自分自身も光る拳を振り上げたり、或いはゆったりとたゆたわせたりする。他では味わえない感覚を味わわせてくれるライブでした。
創造主の責任と後悔
ライブパートの合間には、Ave Mujicaのライブではもはやお馴染みとなった朗読劇パートが展開していきます。今回は特別に役者さんも呼んでおり、人形が光を渇望して彷徨する姿が視覚的にも分かるように仕掛けられていました。つくづく、演劇の力を積極的に組み込むバンドだなと感じます。
1st LIVE『Perdere Omnia』では一度このつまらない世界を破壊して新たに創造。しかしその世界も結局は偽りで、2nd LIVE『Quaerere Lumina』ではどこかにあるはずの光を求めて人形たちはあちこちを彷徨います。1stについては記事を上げているので参考までにどうぞ。
今回もその流れを受けた物語となっているのですが、2ndと明確に違うのは世界を創ってしまった責任を痛感しているところでした。僕は毎回Ave Mujicaの朗読劇パートはアーカイブ配信を利用して書き起こしているのですが(暇なの?)、2ndの朗読劇では創り出した世界に対して「何か思ってたんと違ったね」くらいの、言ってしまえば子供じみた態度でした。粘土遊びしたけど上手くいかずに不貞腐れてるあの感じ。
それが今回は「きちんと創ってあげられなくてごめんね」と、母親目線になっています。
そこから演奏されたのは神さま、バカ。2ndからの対比を思うとこれもオオッと唸ります。無論、神さまというのは、創造主である自分たち自身のこと。そんな自分たちに対しての自責の念をまず最初に歌っています。
これが2nd LIVEだとどうだったかというと、当該の朗読劇パートの後、まず暗黒天国でとりあえずはこの壊れた世界で遊んで、そこからMas?uerade Rhapsody Re?uestで「ならもうどうだっていい~」と自暴自棄に。最後に神さま、バカで責任転嫁をするセトリとなっています。勘違いすんな創造主はお前らだ。
朗読劇とセトリの構成によって同じ楽曲でも響きが全く変わるという、ライブを通して物語を紡ぐAve Mujicaの真骨頂を味わった思いでした。
そこから続くのはふたつの月。大変意味深ですねぇ。双子説とか関係するんじゃない? 1番の間、モーティスがセンターに立っているのも深読みを誘う仕掛けとなっていました。
それはそれとして、この楽曲だとキーボードは暇なのかオブリビオニスやりたい放題でしたね。1番では機材上に立って観客を煽りますし、2番ではドロリスにボディタッチしに行きます。サービス精神が旺盛すぎる。
続いては、2ndの際には世界を壊した直後に演奏した暗黒天国。神さま、バカと前後が逆転したので、その意味でも創造主としての責任感が前面に出たと解釈すべきところです。
ただ、錯覚でなければなのですが、1番Aメロの済世(さいせい)しましょうが今回非常にクリアに聞こえるような歌い方になっていた気がします。“再生”の同音異義語も含意して、今回のライブで達成すべき使命が強く歌われていた……んじゃないかなあ。流石に断言は無理ですが
このパートの最後を飾ったのはChoir's'Choir。相変わらずバングルライトで演出されているのですが、この曲のライティングは本公演において最も意外だったと言っていいかもしれません。何しろ、全編を通して一面のグリーンなんですよ。コールで盛り上がれる曲なのですが、同時に困惑の念が個人的には強かったですね。この楽曲に緑の印象なんて全く持っていませんでしたので。
さて、緑といえば……モーティス。ふたつの月と近い位置でのセトリになったことからも、双子説論者としては気になってしまうところです。朗読劇の内容的にも、今回のChoir(合唱)は産声を想起させます。
そして、この辺りになると「Symbols楽曲以外は色変えできる」という僕の予想が完全に的外れだったことに気づきます。ここまで全曲フル制御です。もうこのライブはAve Mujicaの操り人形になることを受け入れて楽しむものなんだということを、操られる楽しさも含めて身体に叩き込まれました。
生誕の苦しみ、生誕の歓び
再び朗読劇。人形と共に聞こえるのは水音。次の曲が何になるかを一瞬で悟らせてくる確定演出です。
さて、そのSymbol III : Waterが描いているテーマは受胎です。朗読劇ではそれぞれの生誕についての思いが語られます。
アモーリスは光を渇望していながらもどうせ待つのは死だけという虚無感、モーティスからは逆に死ぬからこそ生きていけるという前向きな死生観。この2人は共にニヒリズムの両極を語っていたように感じます。
オブリビオニスは「弱いわたくしは死にましたわ」というアニメでの印象的なセリフからの強い人形としての新たな生が……語られるものの、縫い目から赤黒いものがこぼれ落ちてくるグロテスク。その汚れを薄めてくれるものとして水を必要としていました。本来、人形に水は大敵のはずなのに。
ドロリスは悲しみを知らない自分に生まれ変わりたいと、5人の中で最も強い性生への渇望を語りました。
注目すべきはティモリスだったかと思います。他の4人は胎児目線だったのですが、ティモリスだけは「私を泳ぐ大事な水の精たち」「全てを与えましょう」と、1人だけ母胎目線でした。流石に八幡海鈴に妊娠経験はないと思うのですが、彼女だけが「恐れることを恐れるなかれ」という矛盾を孕んだ名乗り口上をしていることからも、腹に一物を抱えていることは押さえておいた方が良さそうです。水の精は裏切るらしいですしね。
ティモリスの母性に思いを馳せずにはいられなかったのですが、Symbol III : Waterはドロリスとオブリビオニスの御両人のためだけの曲。
いやもう本当に、バングルライトだけで作り上げる景色に最高にドハマリする曲で、ほぼほぼ今回の制御式バングルはこの曲のためにあったと言っても過言ではありません。ステージ上に展開されるのは2人の世界、それを見守る我々は彼女らの逢瀬を演出するだけ。バングルがもたらした、舞台装置になれる歓びはこの楽曲で最高潮に達していました。
ところで、このWaterなのですが、『Quaerere Lumina』名古屋公演のトリで初披露された以外には演奏されたことはありません。つまりこの曲から繋がれた試しがなかったわけなのですが、まさかのピアノソロで場を繋いでWaterにパートのアタマとしての役割を十全に担わせてきました。その間に、袖に伏していた3人を迎え入れて場を整えます。流石はオブリビオニス、この仮面の軍勢の首魁として応分の支配力です。
朗読劇の方は現実と向き合うことになるから再誕なんてしたくないという内容でもありました。Water以降の楽曲も破れかぶれのMas?uerade Rhapsody Re?uestから文字通り堕天へと繋がり、歌詞上は反出生主義のような色彩を帯びるのですが、音楽的にはバカ盛り上がりなわけですよ。人形の皆さんはどうあれ楽曲を浴びる我々は思いっきり生誕の歓びを感じられる矛盾まみれのセトリでした。もう重みを感じてオギャってましたよ我々。
それはそれとして堕天の2Aでほぼほぼキスする距離感まで近づいてたドロオブ何なん??? 間奏でドロモーが対決姿勢を見せていたのもかなり意味深でした。ライブ中に女女三角関係が味わえるバンドというのもなかなかないのではないでしょうか。
さて、堕天でまさに有頂天な中、Ave Mujicaを代表するあの曲、Ave Mujicaがやって来て、オギャりという名の高まりはこの日のピークを迎えます。ブチ上げ曲が3連続という単純にぶっ壊れたセトリだったのですが、その最中、とある異変が起きていました。
人形たちの自由 ~Ave Mujica~
前述したとおり、僕はこのライブでは現地の最後列にいました。そのため、非常に会場全体を見渡せる環境にあったと言えます。演者の顔までは全然見えない、普段のライブならばあまり恵まれているとは言えない鑑賞条件だったと思うのですが、今回に限っては特別なアドバンテージがありました。
堕天のステージングは黄色を主体とした照明で、バングルライトもそれに呼応して黄色と白の明滅を繰り返す騒々しさになっていました。それが一転、Ave Mujicaが始まった瞬間、会場全体がやけにカラフルになったのです。
無論、すぐにはこの異変には気づきませんでした。RMM→堕天から続いてAve Mujicaが来た興奮の方が遥かに勝っていたので。ただ、1番Bメロくらいになると、席の悪さもあって気づくわけです。
この曲の間だけ、バングルの制御が解除されている……!?
まさかと思いながら、恐る恐るバングルのスイッチを操作してみました。
色が変わります。
オイオイ嘘だろ!? これまで散々バングルで縛って人形の不自由を体感させておいて、ユニット名を冠したこの曲で、束の間の自由を体験させてくるってのかよ!? Ave Mujica=人形たちの自由を、ここまでラディカルに表現してくることがあるか!?
正直なところ、この演出に気づいた瞬間、愕然として立ち竦みました。そして、最後列にいたからこそ思います。この自由に、この場にいる人間のうち何人が気づいているというのだろうと。少なくとも、僕が前方の列にいたとしたら、絶対にこの仕掛けには気付けなかったと思います。
本公演のAve Mujica、11曲目なんですよ。つまりは、10曲続けてバングルが制御されることに慣らされている。10曲も操り人形をやらされて、たった1曲だけその糸が外されていたことに気づける人間がいるとしたら、よほど観察力が卓越しているかよほど席が悪いかだけだと思います。
こんな、誰にも気づかれないかもしれない演出に、本気の賭けをしている。その壮絶なまでの覚悟の決まり方に、背筋が凍る思いさえしました。
自由という名の不自由
バングルの制御解除に気づけた僕は、紛れもなくこのライブの中で非常に幸運な立場にいたと言えます。ただ、本当にそれが自由と言えるのかは甚だ疑問です。
バングルが操作できるようになったからと言って、Ave Mujicaほどのブチ上げ曲を前にスイッチカチカチするかっていうと明確にNOなんですよ。ていうか僕自身も気づけたは良いものの早々にバングル操作は諦めて、ドロリスカラーにして「ドロリスー!!」って叫ぶだけにとどめました。
それ以上の自由は実質的になかった。自由に気づけた人間からしても、それが実情でした。
極めて逆説的な話なのですが、バングルを制御されている方が自由だったんですよね。楽曲に乗せられて、拳を突き上げているだけでいいので。それが、バングル制御を解除された途端、「は!? マジ!? うわこれどうしよくぁwせdrftgyふじこlpドロリスー!!」になりました。もうパニック状態です。
自由と混乱は本来背中合わせだということを、このライブを通して肌で体感させられました。人形にとっては操られている方が自由なんじゃないかということまで考えさせられます。
とはいえ、まやかしであろうと自由は自由でした。そうなると、少しは期待しますよね。Ave Mujicaで制御が解除されたんならもう1曲ぐらい”自由曲”が来るんじゃないかと。前日のMorfonicaがDaylightをおかわりしたという事情もそれを後押ししたところがあります。つくしちゃんのせいだよ、あの時も今も(そんな……)。
11曲演奏されている現状、残っているカードはもう少なかったので、その絞り込みすら可能でした。具体的には黒のバースデイとEtherを有力候補と目していました。
Water以降のセトリは生誕をテーマにしており、バースデイと題されている黒のバースデイとは明確にテーマが共通しています。とはいえ、タイトルに“黒”と色が冠されていることからも、やはり制御バングルの得意領域。こちらはあくまで対抗と見ていました。同様の理由で、緑というイメージカラーの存在するSymbol IV : Earthは根本的に候補外としています。
となると、やはり本命はEtherでしょう。このライブ最大の重要曲であり、それぞれの色を持ったSymbolsシリーズを統合して無色のイメージを帯びているこの楽曲こそ、制御を外されるに値する格があります。
来るならこの曲だ……来るなら来い! 思考を整理し、受けて立つべく態勢を整えて、次こそは対応してやると心に決めていました。
まあ、来ないんですけどね、次の“自由曲”なんて。
扉の向こうにある扉 ~Veritas~
Waterパート前の朗読劇は生誕によって辛い現実と向き合ってしまうことへの拒絶だった一方、Earthパート前はめいめいに過去や理想などの夢を見ているという体裁になっていました。
この夢が覚めなければいいのにと願うものの、現実がそれを許してはくれず、叩き起こされるようにAnglesの演奏が始まります。1st LIVEで創造を担った楽曲が、創造主を叩き起こすという強烈な皮肉です。
さて、このパートの内容はかなりキャラクターの芯を食っていると思しきものでしたので、ちょっと深めに触れておこうと思います。
オブリビオニスは在りし日の思い出を懐かしそうに述懐し、アモーリスは役者志望であったことを匂わせる舞台への憧憬を見せます。祐天寺にゃむの素性は已然謎が多く、彼女の経歴が垣間見えるところです。
ドロリスが語るのは偽りの仮面を外してくれたことへの感謝。その言葉を向けている相手は言わずもがなでしょう。
モーティスは人形たちと歌い踊ったことで「私」が見つかったと、彼女にしては楽しそうな口ぶりで人形と談笑していました。この際の「踊る」の表現として、舞台上の人形役がギター演奏の動きをしていたのが印象的でしたね。親から習わされているバレエではなく、彼女にとっての自己表現の舞はきっと7弦を弾くことなのでしょう。
注目すべきはここでもやはりティモリスでした。他の4人が内省している中、彼女だけが全ては皆のおかげですと、共に光を探して歩んできた仲間たちを労います。やはりティモリスだけは、5人の中でもとりわけメタな視点を持っているのが気になります。
なお、彼女によれば光は人形たちが心の扉を開き合った先にあったと言います。いや俺らは君たちが心開き合う物語見せられてないけど? ただ、このキズナ=鍵というモチーフには非常に既視感がありますね。キラキラだとか夢だとか ~Sing Girls~です。このパートが人形たち見ている夢の中の出来事であることを思うと、尚更に深みを帯びます。
この後演奏されるSymbol IV : Earthが不遜にも星の鼓動という歌詞を含んでいることからも、明確にPoppin'Partyへの意識が感じられます。星の鼓動=みんなであり、扉を開く鍵=キズナミュージックを手にするには、みんなが心を一つにする必要があることはこれまでもPoppin'Partyの歩みが証明しています。大切なことは全てPoppin'Partyが教えてくれる。
しかもこのキラキラだとか夢だとか ~Sing Girls~、翌日のDay3の1曲目でした。流石はポピパさん、見事に後輩バンドの挑戦を受けきってくれます。
ただ、ティモリスの朗読内容にはもう一つ気になる点がありました。ポピパさんがそう語るようにキズナで開かれる扉は最後のとびらなのですが、ティモリスはその先にもう1つ、開けてはいけない扉を見つけたと言います。そしてまた、目を逸らせなくなる魔力を持ったものだとも。
そういえば、本ライブのタイトルであるVeritasは真実、あるいは真理を意味するラテン語です。
まさかね、ハハハ……。
と思ったんですがEtherの歌詞の「一葉の銀河系」はセフィロトをイメージしたと誰あろうDiggy-MO'さんが明言していました。符合しちゃったよ。
自由という概念も無くなるわ ~Ether~
Anglesで叩き起こされてからの黒のバースデイとSymbol IV : Earthは、不本意だろうともう一度生誕の瞬間を噛みしめるような、生まれ直しを感じさせる構成でした。先程はオギャっていた我々も、今度はきちんと重厚な生誕の瞬間を追体験させられます。受胎のWaterと胎動のEarthという類似したテーマの楽曲でありながら、浮遊感と重厚感で’生’の表現を変えてくるのだから凄いです。
さて、先述のように“自由曲”を期待していた僕がこの会場にはいました。そして、Etherをその大本命と目していた。そして大トリを迎えるべく、最後の朗読劇パートが開始します。
結局、大いなる光は見つけられなかった人形たちでしたが、暗闇の中で微かに輝く光を発見。それは小さくても大いなるものであり、その光に近づけば自他の境界線すらなくなり、人間と人形の区別も、虚構と現実の区別も、あらゆる概念すらも統合されただ一つの存在に人類補完計画だコレ!!!
会場を一つにするというコンセプトからも、そして1st LIVEで「おめでとう」をやったことからも警戒して然るべきでした。かつて木谷高明会長がバンドリはガンダムと発言したこともありますが(いやマジで)、少なくともAve Mujicaはエヴァンゲリオンやってます。
さっきまで重厚な生の話をやっていたはずなのに急に甘き死が来た衝撃もありますが、こうなるともう二度とあの”自由”は与えてやらない気なのだということが明白に伝わります。バラバラの色彩では人類を一つにすることなんて出来ないので。
朗読劇でも、ティモリスが「劇に出てるのはどちらでしょうね?」と不敵に笑い、操り人形にされたまま終劇を迎えようとしている我々を煽ってきます。そして本性を表した闇ドロリスが「本当の僕たちを知りたいだろう?」と誘惑してEtherに突入。この闇ドロリスがダークショタっぽくて超えっちだったので本当に誘惑みたいでした(※理性を溶かされています)。
人類補完計画を発動された以上、会場にいるオタクは全員LCLです。元より陶酔感を段階的に引き上げていく構成の楽曲で全ての境界を失いながら、溶けていく脳へとドロリスの歌声が響き渡ります。
自由意志を奪われるからこそ味わえる自由を表現し続けてきた壮大なサーガは、最後に自由の概念を消失させて幕を閉じました。
ううん、ペンライトは悪いものなんかじゃないよ! ~Poppin'Partyからの戒め~
Morfonica『ff』の記事にて、その感想の最後をポピパさんに締めくくらせるという無法を働きましたが、今回もやります。
前述の通り、僕自身ペンライトは要所要所でのみ使うスタイルに変わってきているため、『Veritas』がバングルだけで創り出した世界観を見せられるといやもうやっぱペンライトなんか要らないんじゃね!? くらいの気分になっていました。MyGO!!!!!も含めてペンライト脱却の向きにあることも既述の通りで、この流れ自体は加速することを望んでいます。
ただ、今回のライブは流石にやりすぎです。Ave Mujica(楽曲)を除いたほぼ全編で聴衆を雁字搦めにしていたわけで、このライブが良かったことを理由にペンライト廃止を訴えるのは極端が過ぎるというものです。あと、僕だって今後もflame of hopeの時は赤と緑で高まりたいし(我欲)。
後輩が些か急進的すぎる改革を進めているところに、待ったをかけた保守派の重鎮こそが、我らがPoppin'Partyでした。幕間の最中、客席に絵の具を塗ろうと宣言し、観客に呼びかけます。このレーンにいる人はこの色に変えて下さいね~、と。
芸術の秋を題したライブだけあって、客席には美しい一枚の絵画が出来上がっていました。それはAve Mujicaがこのライブで否定した自由意志を最大限に肯定したことによる、人間性に満ちた芸術。悪しざまに言われることの多いペンライトを用いて、それが一体感を作り出す力もあることを、ペンライトと共に歩み続けてもうすぐ十周年を迎えるPoppin'Partyが見事に証明してくれたのです。
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