美術史第96章『桃山文化の概要と城-日本美術10-』
尾張国から勢力を拡大した大名 織田信長は足利義昭の将軍就任を支援して政権を掌握し「織田政権」が樹立され、信長は天皇や幕府の威信を借りて畿内や東海を制圧、兵農分離や弓矢から銃への転換などを行い軍備を強化し、市場の規制緩和(楽市楽座)や関所の廃止、自治都市の併合、粗悪だからといって通貨の受け取りを拒否することの禁止(撰銭令)などによる経済成長もおこなった。
信長は「信長包囲網」などで対立した義昭を京都から追放、「室町時代」は終了し「戦国時代」も終了、「安土桃山時代」が開始し、名実ともに室町幕府は消滅し、勢力を拡大して安土城を中心に近畿、北陸、東海などを統治、その後も勢力を拡大し、日本の再統一、いわゆる「天下統一」は目前と思われたが家臣の明智光秀のクーデターである「本能寺の変」で死亡した。
本能寺の変を聞いた信長の家臣、羽柴秀吉は迅速に戦地から戻って明智光秀を破り、その後光秀は死亡、信長の葬儀も取り仕切り、信長の後継者としての地位を固め、信長の子信忠やその子の秀信の後見人として政治の実権を掌握、秀吉は領土再編を行ない、反発する柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで討伐、1583年には新たな首都機能を果たす場所として大阪城が建設され、三年後に正式に政権を掌握して豊臣に改名し「豊臣政権」を樹立、その数年後には天下統一を達成した。
豊臣政権は刀狩りや税を取る量を決める太閤検地、度量衡(単位)の全国統一、百姓を武士が支配する郷村制度の確立、日本独自の通貨の発行などを行い、海賊やアジアの植民地化や奴隷売買を行っていたキリスト教宣教師を禁止、また、外交上の揉め事から明王朝とその属国の李氏朝鮮に対し「朝鮮出兵」を行うがその最中に秀吉が死亡して撤退、その後に豊臣政権は徳川政権に取って代わられることになる。
この安土桃山時代の新しく支配者となった大名達や、京都・大阪・堺・博多などの商業都市で莫大な富を築く豪商の出現、盛んな海外との交流を背景に生まれた豪華絢爛な文化を「桃山文化」と呼び、この頃には寺院勢力が戦国時代の中で弱体化したため中世の日本美術で主流だった仏教美術が衰退し、世俗美術が繁栄、文化は今までの神仏中心の美術から人間中心の美術に転換したとされる。
ポルトガル人の来航を機に当時大航海時代を迎えていた西欧世界との交流が始まって西洋からの「南蛮文化」が誕生、従来の日本の世界観は打ち壊され、また、中国や東南アジアで活動した倭寇の密貿易や略奪のような日本人の海外への進出もあったことで、桃山文化は異国趣味的な要素を持つようになり、また、桃山文化には西欧や中国だけでなく楽器や焼き物などで朝鮮文化や琉球文化からの影響も受けていた。
さらに神仏美術が薄れていったとはいえ禅宗の僧侶や公家も一定の発言力を持っており、禅僧が大名の文化顧問として重宝されるなどしていたため、旧来の「東山文化」などの要素も受け継がれて融合されていったとされる。
桃山文化の傾向としては石垣や天守閣のように実用的であることが新たな美術を生んでいる、この時期に生まれた回遊式庭園などのように静的な鑑賞の対象ではなく、行動することで生まれる美を追求している、個人空間ではなく社交・儀礼・対話などの集団活動の場所で美が求められていることなどが挙げられている。
桃山文化の建築では最も象徴的なものとして石垣を積み、多重の堀を入れ、重層構造や天守閣、櫓のある独自の城郭があり、特に高い天守を持つ本丸の外側に土塁や濠で囲まれた複数の曲輪を持つという感じになっており、石垣や濠は防衛機能であると同時にその巨大さから美も追求されるようになり、また、地域住民の象徴や権威としての役割を果たしたとされる。
桃山文化で生まれた城は基本的に軍事施設でありながら日本固有の建築様式ともなっていくこととなり、この時代には中世の山城から平山城や平城に発展したものがさらに、重層構造の天守や櫓、本丸の外側にいくつもの曲輪を置きそこに各郭を置く、城の内部に書院造を取り入れた邸宅が作られるなど全体的に多層・重層的な構造に変化していったものと言える。
この桃山の城の様式は織田信長の「安土城」を元としており、「安土城」では琵琶湖の東岸に京都や奈良、堺などの近畿の大都市の職人達を招集して作らせた地上6階と地下1階に楼閣を作られせてそれを「天守」と呼び始め、その後、秀吉は「石山本願寺」の跡地に「大阪城」という外観五層と内部八〜十階の大天守、そして4つの郭から成る広大な城郭を持つ安土城を遥かに上回る巨大な城を作った。
その後、秀吉は「伏見城」「八幡山城」「郡山城」「聚楽第」などを築き、一方で関東の大大名だった徳川家康も「二条城」「駿府城」「名古屋城」、そしてその後数百年を徳川将軍の城、近代には皇居となる「江戸城」などを建設、後に家康が天下を取る「関ヶ原の戦い」の後には本格的な城が全国に建てられ、防火のために漆喰が塗られるようになった。
他にも池田輝政の「姫路城」は地上6階・地下1階の大天守と3つの小天守の連立式天守の構造と全体を漆喰で白く塗った総塗籠造の非常に美しい外観を持つ美術面ではこの様式の最高傑作と見做されている城で、世界的にも最も著名な建造物達の一つに入っているといえ、他にも桃山時代周辺には「犬山城」「松本城」「彦根城」「丸岡城」「松江城」「二条城」なども建てられ、その頃に望楼型と層塔型の二つの天守の形状が生まれた。ただ、これらの城は一部で、明治維新の廃城令、太平洋戦争の爆撃で多くの城は失われているという点は考慮すべきである。