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若者たちによるインドネシア紀行文集【2024年】
まえがき(半分、ヒト)
私はポスト・コロナを生きる大学生である(2022年入学。現在3回生)。
大学生といえば、古来から、国内外を問わずあちこちに旅をしたい生き物であると相場が決まっている。私もそのうちの一人である。
まえがきでは、私が何故この紀行文集を企画・編集し発表するに至ったかについて少しお話しよう。
インターネットの普及、Twitterやインスタグラムという即時性の強いSNSの台頭によって、誰でも情報を発信し受信できる世の中が到来し、旅行情報にアクセスしやすくなったかに見えた。
しかし、その流れが止まったのが2020年。新型コロナウイルスの大流行である。グローバル化とともに自由に世界各国を飛び回ることができていた時代もつかの間、閉鎖的なロックダウン政策が各国でとられた。あれから数年が経ち、徐々に元の様相を取り戻しつつあるが、その一方で深刻な問題が起きている。
日本語でアクセスできる海外情報が少ないことである。国によってはインターネットの海を漁ってみてもコロナ禍以前、2019年以前の情報が大半を占めている。特に途上国においてはその国の成長・変化スピードに日本語の情報更新が追い付いていないのだ。これでは、海外に行く前に情報を得ようとしても、既に古くなった情報しかない。
今回、寄稿してくれた著者のうち数人は今回のインドネシア旅が初海外であったという。
「英語で検索すれば良い」というのはもちろんそうなのだが、英語を読むにはそれなりに腰を据えて構えないといけないし、なんとなく外国人よりも日本人が書いたものの方が安心できるだろう?
とにもかくにも日本語で書かれたコロナ以後の情報がインターネット上に欠如しているというのが私が抱えた問題点であった。
しかしたまたま今年、自分の身の回りの人間がそれぞれ別個にインドネシアを訪れていた。これ幸いと声を掛け、企画をスタートさせたのが2024年11月上旬。2024年内に公開するに至った。
読み物としても非常に面白い、読み応えのあるものが集まったと自負している。切り口・語り口も多彩で、インドネシアという国を多面的な観点から眺めることができる紀行文集である。
また、この文集の最後に関連リンクとして、我々がインドネシアで訪れた場所を示すGoogleマップを提示してある。訪問場所の参考となれば幸いである。
今回、こうして文集を編むにあたって、執筆者の多くは締切ギリギリ(もしくは締切後)まで原稿を提出しなかった。編集者からすれば心臓に悪かったのだが、結果としてあがってきた文章は「目安2000字」と伝えていたにも関わらず5000字や1万字に迫る力作ばかりであった。
当初は私も一執筆者として寄稿しようと考えていたが、あまりに分量が爆増してしまうため取りやめた。私の旅についてはまたの機会に別で文章を出そうと考えている。
その圧倒的分量がゆえ、一息に読むのはかなり骨が折れるかもしれない。執筆者ごとに章分けしているので好きなところから読んで頂ければ幸いである。
今回の執筆者のうち数名はインドネシアが初海外渡航であった。その興奮冷めやらぬ文章を現地の熱気に思いを馳せながら堪能してほしい。
怠惰・逆張り・不運(ねぎとろとろり)
「17%」
これは日本人のパスポート所持率である。当然パスポートが無いと海外に行けないわけだが日本人の約8割にとっては馴染みのないものというのが現状だ。斯く言う自分もインドネシアに行く前は「8割」であった。ぎこちなくもリアルな「生」の感触をこの体験記で追体験していただければ幸いである。主に
① 海外旅行初心者の
② 日本で得た知見と絡めたインドネシア紀行
としてお楽しみあれ。
(1)出発前編
自分にとっての今回のインドネシア旅行の最大の僥倖は、身近なアドバイザーがいたことに尽きるだろう。最も大きかったのは同行者兼同居人の存在だ。
言ってしまうと「ほぼフリーライド」である。旅程とホテルの相談をしただけで、殆どの手続きを海外旅行慣れしている彼に委ねてしまった(※現在自分はひっそりとシェアハウスをしている)。自分はといえば所謂“京大生クオリティ"(こういう時に京大の名前を借りて自分を下げるのは本当は良くない。良い子はこの表現をマネしないように)の準備をしてしまったので反省点と共に体験を綴ろうと思う。
「鉄道の予約は早めに取ろう」
まずはこれ。我々は
関空→バンコク→(マレーシア鉄道)→クアラルンプール→ジャカルタ
という経路での東南アジア周遊を計画していた。
「まぁ行けるだろう。」
行けないのである。どこでこの完璧な計画が崩れたか。そう、憎きマレーシア鉄道である。出発の2週間前、満を時してマレーシア鉄道の専用サイトを見たのだが、
無い。席が。
おいおい、これじゃタイに取り残されちまうぜ。ということで我々は大幅に旅程を修正し
関空→バンコク→ジャカルタ
という旅程に落ち着いたというわけである。
必ず乗ってやるからな!!!マレーシア鉄道!!!
余生の目標ができて嬉しい限りだ(※人生というのはほぼ大学で終わるのである)。
「保険とモバイルデータを配備せよ!」
次、これ。どうせ海外旅行初心者向けのサイトに書いてあることだが、自分はそれをちゃんと見ておくことも、先を見越して早めに登録しておくこともできない罰当たりな人種であることをご留意いただきたい(※自慢だが、書類が必要な手続きは高確率で失敗しかけている。そんな仲間がいれば励みにしてほしい)。
紀行文のどこかを探せば見つかる話だが、同行した同居人は最後自分と別れた後のフィリピンで事故って入院している。
つまり海外保険入っとこうね!!!
クレジットカードに備え付けの場合が多い(三井住友カードなら、確か海外に行く前の国内移動のどこかでクレカを使っていれば発動する。←信用せずに自分で調べたほうが良い。)のだが、自分は細かいことを考えられなかったので損保ジャパンの3000円ほどのプランを前日飛び入りで申し込んだ。これは前日同行者に指摘されたから気づいたことである。ありがとう!!!
そしてモバイル通信。これも前日同行者に指摘された。話によると海外で数分スマホを使っただけで1万円請求が来るなど閻魔様も肝を冷やす事例があった。めっちゃ罠じゃねぇか。au・UQモバイルの海外スマホ利用のアプリをインストールし滑り込みで申し込んだ。スマホは海外でも満足に使えるわけではない。文明人の欺瞞に気づけというイソップ童話にも載っている教訓である。
(※タクシーを呼べるアプリも必須である。私は同行者にすべて頼った。あと薬も持っていくとよい。これは後で理由がわかる。)
そんなこんなでバタバタの初海外渡航が始まるのだった。
(2)インドネシア編
道中3日間のタイのバンコク滞在を挟んだのだが、これは本題とズレるので割愛しよう。強いて伝えたいことがあるなら、ちゃんと東南アジアの雨季は調べてから行こうねということくらいだ(同行者と2人して『ショーシャンクの空に』ごっこをするハメになった)。
さて、我々のインドネシアにおけるスタート地点はジャカルタではなく、ジョグジャカルタというジャワ島中東部の都市であった。マーケットに行き(服が多い。逆張りで買わなかった)、料理に舌鼓を打ち(だいたい甘いか辛い。「Ayam」、鶏という意味だがイスラム圏故これを使った料理が多い)、画商に裏路地に拉致され、アナーキズムの研究をされている日本人の方に会った。
(※インドネシアの首都はジャカルタで、今回我々もジョグジャを去ってのち夜行列車で立ち寄ったわけだが、ジャカルタについての感想はそう多くはない。所謂政治の首都、日本でいう東京であり、都市としては「大阪・京都」的なジョグジャの魅力には劣るのである)
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海外初心者の自分であったが、同じ境遇の人も安心してほしい。日本での経験や知見が何も活きないわけではない。ではそれが活きて楽しめた場面をいくつか紹介しよう。
① ボロブドゥール遺跡
高校で世界史を履修した方にとってはお馴染みのインドネシアが誇る仏教遺跡である。ジョグジャの郊外の西の彼方に存在するのだが、ジョグジャ中心部のホテルから「トランスジョグジャ」などのローカルバスを2つ(料金がめっぽう安い)、さらに地域のコミュニティバスを捕まえてやっとたどり着ける。コミュニティバスを降りた時に大雨に襲われ一時間ほどおばちゃんやおじちゃんと雨宿りをしていたがこれも醍醐味である。おばちゃんは天候の変化に聡く、おばちゃんが「もう行っていいよ」みたいなサインを出してくれて、恐る恐るボロブドゥールに向かったらどんどん晴れてきた。…おばちゃん!!!
ボロブドゥールの入り口は意外と(Googleマップ上では)西にあることに注意である。めっちゃ歩いた。
さてそんなこんなでさらに乗り物に乗るなど紆余曲折を経て遺跡とご挨拶だ。第一印象は、
「世界史の教科書であることだなぁ」
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仏教思想に馴染みがあるといろいろ理解できる部分が多かった。夕暮れと相まっていい景色を拝めて南無阿弥陀仏である。
ガイドのおっちゃんがチャーミングな英語でエスコートしてくれた。そんなガイドのおっちゃんに憧れて売店でおっちゃんとお揃いの民族衣装っぽい帽子を買ったことは、後悔していない。
② 『ラーマーヤナ』鑑賞
ジョグジャカルタ滞在最終日に、どうやら叙事詩『ラーマーヤナ』が上演されるということで、「舞踊」がメインであったが、大学では演劇活動もしている我々2人は行かないわけにはいかなかった。
『ラーマーヤナ』は『マハーバーラタ』とよくセットで覚えさせられるやつである。この文章の文脈的に「教養が大事」的文章になることを予想して辟易している方もいると思うが、そんなことはないからどうか楽しく読んでほしい。
なぜなら我々2人とも『ラーマーヤナ』の内容まではガチで知らずに、劇場の近くの裏路地にあるコーヒーショップで急遽2人して緊急予習をしていたからだ。少年心を存分に持っているので、主人公の味方キャラである「ハヌマーンって猿、こいつ属性過多でぶっ壊れキャラじゃね!?」「ジャターユっていう鳥、めっちゃ咬ませやんけ。猿の下位互換過ぎる」など不遜な会話をしながら順調に履修を進めた。
さて、準備は万端。日本でいうところのヒーローショーやイルカショーをするような開放的なステージに入り、ホテルをチェックアウトしていたので客席にクソでか荷物たちを並べた。あとは開始時刻を待つだけ………だと思いきや我々は見つけてしまった。
シャワールームを。
…インパクトがない。しかし、このあとジャカルタへの夜行列車を控えていた我々にとって天の恵み(シャワー)であった。劇場の近くの飲食ブースの近くにシャワールームが設置されており、おそらく!従業員用だと思われる!その個室を!ありがたく利用させていただいた。誰用のシャワールームであろうがQOLは爆上がりした。是非とも京都にもテルマエを!
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本編の感想?
ああ、爆竹とかめっちゃ使ってて火が凄かったですよ。今度うちの劇団でもやりたい。
終わり!!
③ 大学の授業から
自分は普段は文学部で真面目に学生をしているわけだが、その苦労が報われる時が来た。
「インドネシア語」
全くインドネシアに行くことを予期せずに履修をしていた。なぜなら「アルファベットで、文法や発音も難しくない」というお手軽言語であるからだ。単位取得率も高い。流石に短期の履修なので、数字がわかるだとか、簡単なフレーズがわかるだとか言語的には今回の旅行にその程度の寄与しかしなかった。(それでも何も言葉を知らないよりは快適な旅を過ごせたと実感している)
ではインドネシア語の授業をとっていて何がそんなに良かったか。それは先生が時折解説してくれるインドネシアの人々や文化のきめ細かい情報の数々である。ホテルの情報、街並みに関わる情報、インドネシア人のパーソナルな部分に関わる情報、文字数を圧迫するので記せないが興味本位で手に入れた情報は思わぬところで活きるよ!というこれまたイソップ童話にも載っている教訓である。年56万学費を払っている甲斐があるというものである。(全員学費無料にしろ!!)
ので、初めての海外旅行にしては予備知識が多かったわけであまりギャップはなかったのである。
その先生は重度のヘビースモーカーであるので(喫煙所の常連である。よく見る)、インドネシアは明るい国だと確信を持てたが、その直感は正解であった。
(3)畳みかけるアクシデント
自分にとっての2大アクシデントを紹介していく。これは普遍的な海外でのアクシデントなので参考にされたし。
① スマホ放置事件
インドネシア5日間の旅を終え、タクシーに乗り、我々はスカルノハッタ空港を目指した。
相方はシンガポール経由でフィリピンに、私は上海経由で関空へと向かう予定であった。
ここで事件は起こる。
タクシーの運ちゃんにバイバイし空港に入った我々。私はだいぶ時間に余裕があったためとりあえず出発の早い相方を見送ろうとした。しかし、振り返ると奴は言ったのであった、
「スマホタクシーに忘れたかもしれん」
Oh My God! 私がいてよかった。私のスマホが一番活躍したのはこの日だったかもしれない。まずは共通の友人にWhooで彼のスマホの位置を探ってもらった。そしてタクシー会社への電話のためにスマホを貸し、チャットで係の人とやりとりをした。
しかしもうすぐシンガポール行きのチェックインの時間だ!時間がない!何度かのやり取りののち、パソコンはもっていた相方はスマホの回収を私に託し、チェックインのゲートをくぐってしまった。その後何度か私がタクシー会社の人とやりとりをしていたが埒が明かない。
「いったん降ろしてもらった場所に行ってみよう」
行ってみると、なんとそのタクシーがいたのであった。
私はmont-bellのクソでか青リュックを背負っていたため見た目はわかりやすかったのだろう、向こうから声をかけてきた。そして私は相方のスマホを無事回収することに成功した。
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しかし、相方はもうゲートの向こう。出発はもうすぐだ。我々はTwitterで連絡を取り(普段はゴミのようなツールだが、こういう時に効果を発揮する)両側から接触を試みることになった。
職員さん!!俺を中に入れてくれーーーーーー!!!
片言の英語で特攻する私、ラインを逆走してくる相方。空港のラブロマンスのようなわちゃわちゃを繰り広げたのちスマホを持ち主に帰して送り出すことに成功した。ここで忘れてはならないのは、インドネシアの人々の温かさである。無機質な日本社会が持っていないものを摂取できてこそ、国を超える価値があったというものである。
② 体調、わるくね?
遠征を伴う戦争で最も戦士が苦しむのは、遠征先の環境への適応である。東南アジアも例にもれず、猛暑、食料事情、衛生などの面から第二次世界大戦以来日本人を苦しめてきた。
現地で観光をアドバイズしてくれた学部同期曰く
「水道水と唐辛子には気をつけろ」
最終日にこれを言われたのだが、この時自分は「まずい」と思いながら「そうなんや」とコメントしていた。なぜ「まずい」のか。
実はそれまでにガブガブ水道水を飲んでしまっていた。
水が危ないというのは知識として知っていたが、なぜかインドネシアに入ってから忘れてしまっていた。忘れていたのには十分な理由がある。
熱っぽかったのである。
10月末のインドネシアは酷暑。今思えば、夜行列車、インドネシア料理を急激に摂取したことによる食道炎などを経て自分は少しだけ免疫が落ちていたはずだ。それによりインドネシア旅行後半戦の自分はちょっぴり弱っており思い返すと恐らく熱も出ていた(日本で昔熱を出した時の感覚に似ていた気がする)。それに伴い、身体が少しでも多くの水分を必要とし、意識的および無意識的(就寝時)にホテルなどの水道水をそれはもう美味しそうにガブガブ飲んでいた。
という経緯があり、初心者にとってはおそらく禁忌とされている水道水に手を染めていたのである。ジャカルタを離れ、空港でのアクシデント中も、半日以上にわたるフライト中も、京都に帰って活動している間も、その「時限式水道水爆弾」の恐怖にさいなまれながら生きる羽目になったのであった。しかし
「個人差がある」
らしく、結果的に水道水による症状は自分には現れず、ただ現地で熱病に苦しんでいた人間になってしまった(自覚がないまま楽しく観光していたが)。普段の行いがよかったのであろう。こういうこともあって、海外に行くときは先述の通り薬を持っていくとよいのである。
(4)気づいたこといろいろ
その他言いたいことだけを殴り書きして本稿を終えたい。
・イスラム圏故、酒の文化が少なく、インドネシアの夜は静かだ。朝の活動開始も早かったように感じられた。夜行列車で明け方目覚め車窓から見える農夫や町の人々が眩しく見えた。
・インドネシアの人々は結構日本人に対して好意的である。たまに日本語の挨拶をもらったり、日本製の車を褒められたりした。やはり道行く車を見ると日本車が多く、日本の海外におけるプレゼンスは自動車産業のおかげだと実感した。
・インドネシアの道路には車も大量のバイクも、歩行者も、馬車もひしめき合っている。よく交通渋滞が社会問題として取り沙汰されているが、特に歩行者が隙を見つけて各々の判断で移動する様は「人間の活動」として非常に楽しいものであり、信じるべきなのは「合理的な」信号機ではなく自分の直感なのだと目を覚ますことができた。ありがとうインドネシア。
最後にこれを言いたい。
初めて海外に行き、初めてインドネシアに行ったが、この土地は「住みたい」と本気で思える土地であった。パスポートを持っていない方も、住みたいと思える土地を探しに海を越えてみると、意外と見つかるのではないだろうか。
こんな臭いことを言っているが、ただ初めての海外でテンションが上がっているだけなので、私は日本で平和に暮らすだろう。
この駄文を乗り越え、最後までたどり着いた方には感謝を。裏切者には死を。
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仏僧、イスラム教国に降り立つ(ねぎま)
こんにちは、ねぎまです。
今年の8/27から9/6まで11日間、インドネシアに行っていました。簡潔ながらインドネシアでの日々を振り返っていきたいと思います。
趣旨としてはバックパッカー系の安旅行で、ジャワ島の各都市を巡りました。お金をかけずにインドネシアを楽しみたい方は是非読んでいってください。
また、現地に行くまで分からなかったことなどは情報まとめの欄に書きました。適宜参照して頂ければ幸いです。
出発まで
五月。
三月に晴れて僧侶になり、惰眠を貪っていた私のもとに突然LINEが飛んできた。
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彼は私の高校同期であり、高校の卒業旅行では中央本線・信濃境駅で寝袋に包まって夜をともにした仲でもある。もちろん行けると返事をし、LINEグループを作って宿や飛行機の予約をした。そして迎えた旅行2日前――
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危なかった。当初の予定では28日発だったのでその腹積もりでいたが、旅程は27日、翌日からに変わっていた。
しかも27日には昼からバイトの面接を入れてしまっていた。友人紹介の。
面接先と友人に相当頭を下げ、なんとか日程変更させてもらった。
とはいえ明後日に出発する気でいたので、まだまだタスクが残っている。
この時点で夜6時、荷造りはまだ始まってもいない。
まずは
・旅行用の現金引き出し
・変圧器、プラグ変換器の調達
・旅券の印刷
などを済ませた。すると親戚が遊びに来たので一緒に晩ごはんを食べ談笑した。20時。しまった、バイト先のシフトを提出していない。
もはや歩く気力が生まれなかったので車でバイト先に行き、シフトを提出。21時。
バイト先からの帰り道、電話がかかってきた。麻雀の誘いだ。
もちろん二つ返事をし、とりあえず1半荘打つ。23時。
一旦帰宅して荷造りをした。午前2時に荷造りを終え、麻雀へ戻る。
朝6時、麻雀を打ち終わり、急いで帰宅。
荷物を持って南海難波駅から関空へ。
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何とか友人と合流し、飛行機に乗れた。爆睡した。
飛行機・トランジット
情報まとめ(現地到着まで)
往路:AirAsiaで関空→クアラルンプール→ジャカルタ。10時頃出発し、ジャカルタ到着は23:30頃。値段は23000円ほど。
復路:Vietjet Airでジャカルタ→ハノイ→関空。14時発、翌朝8時着。値段は約27000円。
機内で食べられる謎のカレーやチキンがめちゃくちゃ美味かった。日本円で払うと現地通貨のお釣りが返ってくるという謎システムも含め、満足度は高かった。
モニターは当然なく暇なのでストリーミングの何かをダウンロードしておくことを勧める。
地球の歩き方を買って、機内で行くところを探すのもよい。
以下、ダイジェスト(飛ばしてよい)
往路、クアラルンプールでのトランジットはかなり暇だった。
空港の店員がめっちゃスマホいじってた。良かった。
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1日目:空港泊
ということで関西国際空港からシンガポールを経由してジャカルタ・スカルノハッタ空港へ到着した。
ここで自己紹介と同行者の人物紹介をしておく。
ねぎま:執筆者。阪大2回生で、昆布を干したりコタツに包まったりしている。
Tくん:高校同期。山岳部であり、限界旅行者寄り。海外旅行経験は無いに等しい。
Sくん:おなじく高校同期。普通の旅行者寄りだが、私とTくんに振り回されることとなる。東南アジアには何回か行ったことがあるらしい。
以上3人。
空港に着いたのが23時30分だったので初日は空港泊となった。
スカルノハッタ空港はコンセントも多くあり、我々以外にも空港泊をしている人はちらほら居た。防犯上の不安はそこまで感じず。
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情報まとめ(現地空港)
インドネシアの通貨はルピア(IDR)。値段の末尾の0を2つ取ると、日本円での大体の値段になる(100,000ルピア→1,000円)。
ビザは事前にe-VISA(VoA)を申請しておくとよい。値段は50万ルピア。私は誕生日が間違っていて申請し直しになったので、トラブル時のため行きの空港で現地通貨を両替しておくことを強くすすめる。
税関はゆるい。最低限の英語が出来れば大丈夫。
空港泊は出来る。駅も24時間開いており明るいので駅寝が出来るが、改札内に入れるのは電車が来る2時間前からだったので注意。
コンビニが多くあり、サークルKやファミマ、ローソンもある。利便性は高い。
国際線で税関を抜けたところの両替商は手数料めっちゃ取られた。客引きもうるさいので即刻別の場所に移動しましょう。
現地での両替はコンビニATMでの海外キャッシングが楽だが、Googleマップの口コミを参考に良い両替商を探せば手数料ほぼ0円で両替できるのでそちらの方が安上がり。
2日目:大都市ジャカルタ
ジャカルタ都市部へ
空港で目覚めた二日目、ターミナル間を走る鉄道に乗って国鉄の空港駅へ向かう。インドネシアの鉄道会社は国鉄であるKAIが主で、他にジャカルターバンドン間を結ぶ高速鉄道なども走っている。
また、ジャカルタ首都圏など大都市近郊区間における通勤列車(日本でいう省電、国電)はKAI Commuterという子会社が扱っている。長距離列車と通勤列車では改札が異なるため注意が必要。
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空港線の終点、Manggarai駅に着。空港線とコミューターも会社が異なるのでここで一度改札を通るのだが、その手前の券売機でICカード(Suica, ICOCAに近い)を買っておくと便利。
ICカードの購入には少し手間取ったが、駅職員の方に助けてもらい何とかなった。ジャカルタは英語が割と通じるので、分からない時は気軽に尋ねるとよいだろう。
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お昼ご飯
さて、コミューターに乗ってJuanda駅へ。この近くに世界最大級のモスクがあるので、駅から歩いて向かう。
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しかし、問題が発生した。道路が横断できない。車はもとより、バイクが多すぎる。しかも横断歩道がない。
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お腹も空いていたので、一旦あきらめてお昼ご飯を食べた。
Nasi GorengとSoto Ayamを注文。
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なぜか付け合わせのピクルス?が死ぬほど辛く、Tくんの味蕾を機能不全にした。
Nasi Gorengはほぼ炒飯なので日本人の口に合うし、店によって割と味付けが違うので食べ比べると楽しい。
東南・中央アジアやアフリカに行くときは生水・貝・生野菜に気を付けろと言われる。特に忘れやすいのが氷で、インドに行った人間の多くは水道水にばかり気を取られて氷に腹を破壊されると聞いたことがある。
しかし、11日間の旅で氷を原因として腹を下すようなことはなかった。生存バイアスかもしれないが、(これはインドネシア旅行全体を通して)気を遣い過ぎるほどではなさそうという感想である。
情報まとめ(ジャカルタ)
空港からManggarai駅までは7万ルピア。長距離列車の搭乗時はパスポート提示を求められる。
Manggarai駅ではSuica, ICOCAのようなICカードが買える。持っておくと便利。
道路の横断はかなり難易度が高い。現地の人が渡るところに着いていくか、横断歩道を探そう。
BRT(バス)には女性専用ゾーンがある。注意されたい。
ご飯を頼むときは辛いか尋ねた方がいい。よく使う言葉として、Nasiは飯、Mieは麺、Gorengは炒め物、Sotoはスープ。
英語の通じない店で値段を尋ねる場合、"Berapa?"(ブラパ:「いくら?」)と言いながらスマホの電卓を見せるとよい。
持って行って良かったもの
思いつくままに書きます。
ウエストポーチ:一番便利だった。パスポートや財布を入れて服を上から被せればスリの心配がなくなる。パスポートの使用頻度も結構高いので是非とも持って行って欲しい。
プラグ変換:プラグが違うので、挿し口の変換器が必要。変圧器は最近の充電器なら要らないと思われる(220Vに対応していればOK)。(詳しくは調べて)
脱ぎ着のしやすい上着:基本は30℃以上あり暑いが、高山部の地域などは肌寒いので。
小さいリュック、サンダル:宿からの気軽な外出に便利。
ウエットティッシュ:ご飯食べる前など。
登山できる靴や装備:インドネシアには山がたくさんある。朝日を見るツアーもあるので、余裕があれば準備しておくと◎。
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終わりに
すみません、文字数がめちゃくちゃオーバーしてしまったのでここまでです。
この後、クソデカいモスクに行ったり、出店で現地民と仲良くなって写真を撮ったり、予約していた宿がスラム街にあって怯え切ったりしました。あとショッピングモールに行ったら照明が点いてなくてエスカレーターも動いてなかったりとか。楽しかったのでみんなにも行って欲しい。
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続きはまたいつか書きます。
バンドン・ジョグジャカルタ記(tny)
文学部三回生(休学中)のtnyといいます。インドネシアには何回か行っていて、自分は今年ジョグジャカルタとバンドンに行ったので、いくつか立ち寄ったスポットと注意点を書こうと思う。
Bandung(バンドン)
ジャワ島の山に囲まれたインドネシア第二の都市。壁に絵を描く行為が合法的に認められているらしく、町のあちらこちらでアートやグラフィティに触れることができる。まさに文化と自然が融合した町と言った感じで、住人の文化レベルも高い気がする。ジャカルタよりバンドンの方が好きという方も多いのではないだろうか。
・Gunung Tangkuban Parahu(タンクバンプラフ山)
バンドンの北部にある火山。バンドン中心部からバスがあるらしいが本数が少なく筆者はgrabに乗っていった。頂上には有名なKawah Ratuという巨大な火口があり上から眺めることができる。下に降りることはできない。また道中の標高によって景色が住宅街→森へと変わっていく光景も楽しめた。
またKawah Ratu周辺の人気のない道をを歩いてみるとどうやらもう一個Kawah Upasという火口があるらしく、入口に立っていたガイドさんに250,000rpを支払って案内してもらったが、これがすごくよかった。ほかに人がほとんどいない理由は20分くらい歩かなければならないのとガイド料がいるからだそう。しかしおかげで誰もいない神秘的な火口を独り占めすることができた。自分が行った時は乾季だったため火口が砂漠のような景色になっていたが、雨季に行くと水が張り鏡のようになるという。いつか見てみたい。
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・Taman Hutan Raya Ir.H. Djuanda
バンドン北側、レンバンの山の中にある国立自然公園。バンドンの自然を体験しようと期待して行ったが、露店やレジャー施設があったり、道も完全に舗装されていたりとピュアな自然という感じではない。Tシャツ+サンダルで結構カジュアルに散歩に来ている地元民が多かった。また入口から30分ほど歩くと旧日本軍が使用していたという洞窟があり、こちらは結構楽しめた。洞窟内にはライトがないため超暗い。もう少し歩くとオランダ軍が使用していたものもある。
その後最後に何があるかなと思い坂道を3時間歩いたが、あまりきれいではない滝がある他は何もなかった。
・Jl. Braga
バンドンで最も栄える繁華街。周辺には欧風の道路が残っている。昼はまあまあ人がいる程度だったが、夜になると通行人や路上パフォーマンスで埋め尽くされにぎわう。
・Raja Sunda
こちらはバンドン駅からそう遠くないレストラン。スンダ料理が味わえるのだが、筆者の経験上スンダ料理はここが最もおいしい。値段はやや高いがすごく高いというわけでもなく、クオリティを考えると全然安いと思う。是非行ってみてほしい。
Yogyakarta(ジョグジャカルタ)
かつての首都でありジャワ文化の中心地。古都ということもあり素朴な街並みが多く、住人も非常に親切な人が多かった。ジャカルタのGambir駅から約600,000rpの夜行列車に乗っていける。
・Candi Borobudur(ボロブドゥール)
世界史の教科書でもおなじみの超有名世界遺産。しかし最大の注意点は月曜日に行くと入れないということ(後述するがクラトン王宮も同様)。これだけは覚えていただきたい。また月曜以外の日に行くにしても、寺院に登るには公式サイト等で予約が必要である。予約自体は簡単だが当日の予約は人気で枠が取れない可能性があるので注意。筆者は行こうとして初めて予約の存在を思い出し調べたところ、2時間先の予約枠しか空いていなかった。
またジョグジャカルタ=ボロブドゥールというイメージが強いので騙されがちだが、ジョグジャの駅からボロブドゥールまではバスで1~2時間かかるほど遠いので要注意。バス自体はYogyakarta駅のわかりやすいところに券売所、発着所があり、予約なども必要なく簡単に乗れた。1時間おきに出ている。朝行くと定員、気温、道路状況的な意味でもいいと思う。筆者は朝8時に乗り込み1時間で着いたが、13時の便に乗った帰りには実に2時間半を要した。
ボロブドゥールに到着すると即怪しげなおっちゃんが話しかけてきて、「ほいじゃそろそろツアー行こか」みたいな感じでバイクに乗せようとしてくる。断ってもいいと思うが、ボロブドゥール以外の場所も見せてくれるのも悪くないと思い、現地人にできるだけお金を落としたい主義でもあったため2ケツで案内してもらった。周辺の小規模な寺院など面白いところに連れてってくれた。4,5時間のツアーが終わったところでいくら要求されるのだろうと思っていると、たったの50,000rpだったため驚いた。たまたまそのおっちゃんがいい人だっただけかも。利用してみるのもいいと思う(結局150,000rp)を渡した。
・Bukit Rhema Gereja Merpati Putih(ニワトリ教会)
ボロブドゥールから程近い森の中にぽつんと立つ礼拝所。5つの宗教のための礼拝所がすべて一つの建物の中にあるという珍しい建物。その奇怪なビジュアルから最初は「ガイドのおっちゃん変なとこ連れて来るなよ…💢」と思ったが、かなり良かった。地元の人からはニワトリ教会と呼ばれているが、実際には鳩らしく、なんなら教会でもない。無料でキャッサバの天ぷらがもらえるのだがこれが非常に美味しかった。屋上からはボロブドゥールとその一帯を一望できる。
・Candi Prambanan(プランバナン寺院群)
こちらも有名な世界遺産で、同じくYogyakarta駅からは離れているが、ボロブドゥールとは異なり駅があるので行きやすいだろう。国立公園の中にあり、他にも2つの寺院や博物館が併設されているためそちらにもいくことをお勧めする。予約は必要ない。
・Jl.Malioboro(マリオボロ通り)
ジョグジャで最も栄える繁華街。おそらくホテルは多くの人がここで取ると思う。お土産屋や服屋、お菓子屋さんが並ぶ。ちなみにジョグジャはNasi Gudegという煮込み料理が非常に有名で、マリオボロともなれば周辺にあるだろうと思ったがほぼなかった。そもそも予想に反して飲食店が非常に少なかった(屋台は多い)ので、旅行計画をお立ての際はそこを考慮にいれるといいかもしれない。
・Hamza batik
マリオボロ通りの端に位置する、インドネシアの伝統衣装であるバティックの専門店。バティック自体は周辺の市場でも売っているのだが種類が多く、素材や柄がワンランク上のものが多かった。1,000,000rpを超える高級なバティックも売っている。2階はお土産屋となっておりこちらも品揃えが豊富で一見の価値あり。さらにはジャワの飲み物や、バティックの柄作りの実演や体験スペース、少しながらジャワ文化の展示品もある。店内の装飾もジャワ文化を意識したものとなっており、何時間でも入り浸れるくらいには楽しかった。絶対行ったほうがいい。
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・クラトン王宮
ジョグジャのスルタンが実際にお住まいになっている王宮。15時まで開放されており見学できる。こちらもボロブドゥール同様、月曜には入れないので注意。予約は必要ない。中に入るとジャワの伝統衣装を着たスタッフが出迎えてくれる。午前には日替わりでワヤンやガムラン演奏などのジャワ文化に関係したパフォーマンスが開かれ、博物館もある。
また周辺にはTaman Sari(タマンサリ)などの史跡が多くついでに寄るのもおすすめ。全て徒歩圏内にある。中でもSitus Gedbong Madranという王族の屋敷跡がよかった。
渡洋見聞録(Wasserfeld)
2024.9.1-9.5の旅程でインドネシアにいたため、現地の文物の紹介と感想を添える。
● 経路
8.31関西国際空港→高崎国際空港(中国)→9.1スカルノハッタ国際空港→9.2ジョグジャカルタ国際空港→9.3デンパサール国際空港→9.5スカルノハッタ国際空港→9.5クアラルンプール国際空港(マレーシア)→9.6桃園国際空港(台湾)→関西国際空港
● 訪問場所と現地の文物(主題に合わせてインドネシア国内に限る)
1. スカルノハッタ国際空港〜ジャカルタ市街
インドネシアの玄関口。日本から直行便がないため何ヶ所かトランジットして到着。直行便で行くなら、素直にバリ島から入って乗り継ぎした方が良いだろう。入国に際し有料のビザが必要。2024年8月末現在で500,000,Rp(=5000円)。入国時、日本円の手持ちしかなくて焦ったが、カウンターの職員さんが1万円札を受け取って500,000,Rpに該当するぶんを引いてお釣りの50万Rpを渡してくれた。ターミナル内部ではインドネシア語、英語、アラビア語、中国語、日本語などの国際色豊かな表記が見られ、1日に数回クルアーンを詠唱するアザーンの声が南国の温暖で湿っぽい空気に乗って響き渡っているのが印象的だ。入国審査はImigrasi/Immigrationのゲートで係官に渡航目的を告げて、パスポートをスキャンして顔認証して通る。USJのゲートに似たシステム。空港内でTelekomの店を見つけてSim装備を図るも日本の携帯電話の契約会社によるSim交換を受け付けないクソ仕様から断念。空港内のWi-fiを乞食しながら西口を出てバス乗り場を目指す。帰路で同空港に取り残される不運に見舞われるが、第2ターミナル内やWi-Fi spot付近に差し込み口がたくさん生えているので、廉価で現地購入可能な日本製充電変換器があれば充電と通信環境は最低限保障される。
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市街地に向かうバス停では入り口で行き先をタッチパネルで指定してCashlessで予約するのが原則。トランジットに滞在した諸国に比べるとインドネシアの通貨の電子化は普及途上で、空港内のCash不可な売店やバス便が出てきたばかり。バスの運転手に告げれば88,000,Rpを手渡し可能。今ならまだ通用する解決策であろう。現地語で運賃をtarifというが、現代欧語にも同根の語(独;der Tarif,英;tariff etc.)がある。古代以来貨幣経済揺籃の地たるアラビア語圏の舶来語がユーラシアの東西に跨って存在するのは興味深い。道中は車の往来が激しく、信号機もあってないような状態であり、人々は空いた道路か車の間を縫うように渡っている。20世紀後半の開発独裁時代、主に日本を中心に外資の進出が盛んになったため、右ハンドルの自動車や充電器といった工業製品は日本メーカーのものを目にする。急速な工業化に伴って地方農村からPush型の人口移動が惹起され、歪な都市の肥大化の落とし子たるスラムがいくつもある。人口過多による都市機能麻痺解消を目指し現在、「世界最大の都市移転計画」が進行中。もしかしたら経済発展にひたむきだった数十年前の日本を想起させるジャカルタの風景もやがて見られなくなるのかもしれない。
2. Sans Hotel Kelapa Gading Jakarta
現地の友人の実家付近のホテル。空港のバス停から同乗した帰省中のインドネシアニキに車で送ってもらった。インドネシア人には親切な人が多く、若年層は英語教育が根付いているので積極的に現地で不慣れなことも色々訊いて教えを乞うと良いが、野良の相乗りはリスクがあるので相手が信頼に足るか見極めた上、自ら責任を負う覚悟が必要。郊外の華僑コミュニティのお膝元なので英語の他に民族語教育から多少普通話が話せる人がいる。2人3~40,000,Rp程度で宿泊可能。室内は簡素で窓がなく、薬品のような匂いが漂う。金銭的余裕があればもっと格上のホテルでもよかろう。一足先に着いた同行者が体調不良で病臥していた。聞くに屋台の衛生確保が怪しいかき氷や激辛の食べ物を摂取していたとか。ここで現地の風土を述べると、8~9月の乾季には蚊の群が跋扈し、炙るような陽射しを和らげるべく建物や車の窓には遮光フィルムが貼付される。日本製薬品では話にならないので、現地に即した薬事法で絶大な効力を備える諸薬品を薬局/apothekで買うが吉。防虫剤/penolak nyamuk、解熱薬/obat turun panas、胃腸薬/obat sakit perut、塗り薬/obat gosokなどがあれば安心であろう。
3. Taman Fatahillah〜Stasiun Jakarta Kota
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まず行ったのはオランダ統治時代に建設された建物と広場。オランダ語が記されたポストや記念碑が散見される。当時、音楽イベントが行われており、広いスペースを人々が思い思いに座って寛いでいた。周囲には屋台が立ち並び、米料理やかき氷が安い値段で売っている。相場は一品5,000,Rpほど。倍以上の値段はぼったくりである。業者が円筒形に成形した氷を使わずに作るかき氷などはそこらの水道水を適当に汲んだものでお腹を下しかねないので注意。餅をバナナの皮に包んで蒸したものを辛いソースなどに合わせて食べた。納豆のように豆を醗酵させた上で揚げ物にしたものなども餅によくあう。立ち食いをしたら友人たちと川沿いの道をぶらぶら歩く(jalanjalan)。日本人は歩みがやたら早いのでもっとjalanjalanすればいいのにと言われた。彼の地では時間の流れ方が日本と異なるようだ。オランダ人が作った橋などがモニュメントとして残る。道端には猫がたくさんおり、インドネシアの人々は可愛がっている。
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Stasiun Kota Jakartaというこちらもオランダ人が造った駅の構内を案内される。どこか空間の間取りが欧風の趣に日本と似たような改札があるのが不思議だった。
4. Masjid Istiqlal〜National Gallery of Indonesia
翌日も友人が伏していたため、近くのコンビニのIndo Maretで朝餉を食んだ。プリペイドカードが作れるので、リスク分散に少額入れておくのもいいだろう。物価は体感日本の7割ほどで、水は自販機と大差ない値段。値札の下2桁を切り下げると円換算ができる。(12,600,Rp/500ml)おにぎりは13,000,Rp。円安もあってか圧倒的物価の差はないよう。ホテルのWi-Fiを使って、行き先を指定すると付近を走行中の車やバイクを呼び出して金額が表示されるアプリ、Gojekを使って市街地の中心に向かった。緑の制服を着たお兄さんのバイクで二人乗りした。6~70,000,Rpが相場。ジャカルタの交通混雑具合を考えると、車列を素通りできるバイクで行くのがいいだろう。Grabというサービスもある。とりあえず目につく駅のStasiunGambirに着いた。
通りを歩くと国軍の施設があり、フランスのAMX-13戦車が展示してあった。そうこうするうちにアラビア語で「独立のモスク」の名を冠する、東南アジア最大のモスクが見えてきた。本家アラビア半島の二大巨楼に次いで世界3位のモスクは遠目からもその威容を湛えている。「Harmoni/融和」と名付けられた通りを挟んで対面にはカトリック教会のThe Church of Our Lady Assumptionが屹立する。こちらは残念ながら曜日の関係で入れなかった。諸般の宗教施設は、建国の父・スカルノがインドネシアという国家を多様な属性の集団から構成される国民が民族・宗教を超越し融和・紐帯する兄弟として住まう家に表象する国民国家統合の舞台装置として建立したものである。
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30分毎に無料でモスクの見学が可能。観光客は境内での布の着用が求められる。1階は祈りの場であるため、非ムスリム観光客は2階から中を拝観することになる。12本のどっしりとした柱に戴く巨大な半球の天蓋は圧巻、5階建ての礼拝場が60mはあるかというほどの外壁に囲繞されている様は荘厳なる回教精神世界を顕現したかのよう。
廊下や階段には石材が張られているのだが、珊瑚の化石を見つけることがある。東南アジア産出であると仮定すると、生物の生育環境推定の手掛かりとなる示相化石の性質から、遥か太古も変わらずこの地域は温暖な浅瀬が広がっていたと推察される。また、ガイドの身長と同程度の直径の大丸太をくり抜いて革を張った大太鼓があった。曰く、今でこそ館内放送をかけるが、昔はこの太鼓の響きで日々5回の祈りの刻を人々に知らせたとか。太鼓を吊るす木の枠にはクルアーンの章句や現地の植物と思しき意匠が散りばめられている。中東圏にもないインドネシア固有の太鼓である。ちょこんと座る子供達に囲まれて熱心にクルアーンを教える先生の姿を尻目に、人間の生活や文化も所詮、大いなる自然の掌の上に踊っているにすぎないのだな、と感じた。
Gambir駅前に戻り、駅中の飯屋で3万4千Rpのご飯。現地の平均的なレストランの値段はこの程度。空港では8〜10万Rpする。近くのNational Gallery of Indonesiaが気になったので入ってみた。イスラームを基調として汎宗教的融合を唱える政治結社のイベントの模様。クルアーンの各言語訳が目についた。1外で習ったアラビア語で自己紹介したらウケた。ムスリムの共通語はやはりアラビア語なのである。そろそろホテルに臥す同行者の元に帰ろうと思った矢先、駅前に停まる三輪タクシーbajajを見つけた。駅前はGojekやGrab乗りが客を待っているのだが、先述の通り非Wi-Fi環境下では諸般のアプリが使用不能なのでありがたかった。相場の倍以上の15万Rpをふっかけてきたので、そっちがその値段ならGojekやGrabに乗ってもいいんだぞと逆にハッタリと脅しをかけて6万5千Rpに値下げ成功。運チャンはスマホを扱えないおじさんばかり。IT化に追いつけず旧態の三輪バイクを生活のたずきとする他ないのだろう。乗ってみると自分の経験と土地勘だけでお客を運ぶので迷う迷う。途中停車して通行人に行き先を尋ねる。こうなるとRPGのようで、運チャンと協力して目的地を目指す中で連帯感が出てきて逆に面白みがあった。車体が中途半端に大きいので車の渋滞に巻き込まれる。その横をGojekやGrabのバイクが追い抜かしていくのを眺めていると、身動きの取れないbajajが時代に取り残された運チャンたちの姿に重なって少し憐憫の情を覚えた。なんとかホテルに着き、もうまもなく味わえなくなる体験ということを加味して結局10万Rpを弾んであげた。
5. ジョグジャカルタ国際空港〜ボロブドゥール遺跡
同行者が恢復したのでジャカルタの空港に戻ってジョグジャカルタ国際空港まで飛行機で飛んだ。ターミナル内には現地独自の楽器やら陰絵やらが飾られ、ゲートには地方固有のジャワ語表記があった。近代国家成立以前は島々に地方分権が成立し、各々の文化を育んでいたのだろう。独立時、インドネシアが国家として出発するにあたって、人口構成の大宗を占めるジャワ人の言語ではなく、島嶼間の交易語を基盤とするインドネシア語を公用語に定めることで民族間の言語的不平等を抑えようとした苦労が偲ばれる。夜中の空港ゲートはタクシーの勧誘が煩い。腐肉にたかるハエのよう。中国人/cinaか?乗りな。乗りな、と聞かれて鬱陶しかったので、あちらの予想に合わせて我们不要,不要!と中国人の振りをして怒鳴って無視してやった。
夜になっていたのでGojekに乗って次の日行く遺跡近くのホテルに向かった。都会と違って、道路が混雑しないので、こういう場所では航続距離の長い車に乗ると良いだろう。電線は通っているものの電灯は少なく、田んぼが広がる様は日本に似た趣が感じられる。夜、雰囲気の良いホテルに着いて食事をとった。地元の伝統的な木造のラウンジである。不思議なことに森の奥深い場所のわりに蚊などの虫はいなかった。一食25,000,Rpだったことから、都市部より物価が安いのだろう。熱帯夜かといえばそうでもなく、夜は涼しく、朝方はやや肌寒いほどであった。インドネシアの暑さより京都の方が蒸し暑いのである。翌日は朝6時ぐらいに起きて同行者と徒歩でボロブドゥールを目指した。思いの外肌寒かった。2〜3kmの道程で小さな朝市のようなものがあって朝餉に餅を買った。遺跡の近くは観光街が形成されており、お土産屋にレストラン、外貨交換機などがある。お土産の購入は、押し売りのものより店舗で売っているものの方が「安牌」であろう。
7:30に遺跡の公園が開くためそれまで待っていると、押し売りや観光客向けバイク乗りがわらわらよってたかってきた。公園が開くまでに時間があるから自分たちに乗り合わせて展望台に行かないかと言ってくる。変なところに拉致され帰りは別料金を払わないと置き去りにされる危険性に鑑みて、往復分の代金を後払いとする確約を結ばせてから乗った。展望台は入場料が外国人向けは50,000,Rpと現地人の3倍以上徴収する。ボロブドゥールでも同様であった。登る途中で土産屋だの水洗式トイレだのが完備されているので、完全に観光地化しているようだ。頂上の景色は非常によかった。ジャングルを開墾した地に広がる田圃を眺望できる。遺跡の方角は霧が掛かっていて視認できなかった。頂上でも売店があり、店員が如何にもInsta映えしそうな構図で写真を撮ってくれるが、見返りの50,000,Rpをきっちり請求してくる。遺跡に戻るとバイク乗りから観光地料金で100,000,Rp請求された。更に相手がお人好しで言い値でぼったくられてくれる歩くドル箱こと平たい顔族とわかると、親近感を引き出すために英語から切り替えて日本語で話しかけてくる。聞くに現地で日本人の会話を耳で聞いて模倣するだけで接客営業の言い回しを覚えたそうだ。彼らにとっては日本語能力如何が売り上げにつながるのだろう。完全なる「書を捨てよ、街に出よ。」の実践である。「ありがとうございます」に付される「どうも」の有無で丁寧さはどう変わるのか、細かいニュアンスまで尋ねてきた。現状に甘んじない向学心を以て弛まぬ外国語の練度向上を絶やさない姿であった。普段自分が京都の街中で外国人に話掛ける手口をまさかそっくりそのまま返されるとは。動機は何であれ、その努力には一目おいた。こういう商魂漲る手合の搾取を望まないのなら、徹底的に無視、原義の「傍若無人」に振る舞おう。
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ボロブドゥール寺院遺跡公園では拝観料が周囲を見物するだけなら385,000,Rp、入塔して中を見学するのであれば450,000,Rpかかる。後者は一日の人数制限があり、遺跡保護の観点から、1回150人までを日に8回、計1,200人までしか入れない。朝からツアーは混むのでネット予約が吉。現地では入塔ツアーを待つのと迫る飛行機の時間が折り合わず見学に甘んじるのみとなった。いつかの再訪に期待したい。入園して歩いていると、遠目からものものしい巨大な石造りの仏塔が見えてくる。8~9世紀シャイレンドラ朝の栄華を今に伝えるボロブドゥール遺跡その場所であった。断続的な建造と増築に約50年の歳月を掛けて、空間に重層する巨大な石段に大乗仏教的世界観を顕現せしめた。石造の各祠内部に石仏が鎮座し、石段の四辺に並び立つ。実はこの並び、看板の見取り図の如く、平面の曼荼羅図絵と構図が相似している。側面の壁画には仏陀の誕生から入滅に至るまでの一生を活写。遥か昔、治国の王が儀典に則り石塔を巡回し輪廻転生の解脱を準えることで、王権の政治的正当性と宗教的道徳性を民草に遍く権威づける祭壇に供されたのであろう。
各四辺の階段を狛犬のような双対の像が挟んでおり、登壇者は王たるに相応しいか品定めするかのように凝視している。すぐ側には補修工事で意図的に残されたオリジナルパーツの煉瓦の層がある。この修繕作業についての詳細が近くの資料館に記されており、当時の復元作業の様子がわかる。19世紀英探検家ラッフルズによる再発見以来、学術的調査はされたものの、大規模な復元作業はなされず荒れ放題だった。20世紀後半にスカルノを失脚させたスハルト政権時代に、ユネスコ主導で大規模修繕が行われ、傷んだ石材を取り替えるなどして往時の姿を取り戻した。知名度の割に残存する文献が少なく、謎多き遺跡の復元考証に苦労したという。その時取り出された石材片が庭に陳列されている。遺跡を取り巻く環境は厳しい。所在地のジャワ島で二つの活火山が大地を揺るがし、大気汚染に因る酸性雨が石像を侵食するなど、遺跡を風化させる因子に事欠かない。この人類の宝を次世代に受け継ぐには、人々の絶えざる努力を要することから危機遺産にも指定されている。
6. バリ島デンパサール国際空港〜デンパサール市街
ボロブドゥールに後ろ髪を引かれつつ空港に戻り、次いでバリのデンパサール国際空港に飛んだ。出迎えのタクシーの勧誘はジョグジャカルタ以上であった。ここでもGojekに乗ったが、被観光地化地域以外はインフラが未整備な上に車や人の往来が多く、場所によってはジャカルタ以上に渋滞しやすい。大通りを脱してやっと路地の民宿のようなホテルに着いた。ホテルを営む夫婦の子供たちが両親の手伝いをしているのは微笑ましい光景であった。
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街中を散策すると、ヒンディー教関連とおぼしき石造りの塔や祠が目につく。本場インドには未渡航なので現地のヒンドゥー教がどんなものなのかは知らないが、7〜8世紀の東南アジアにおけるインド古典文明到来以前の素朴な精霊信仰を起源とするようだ。祠には道ゆく人が花びらとお菓子を乗せた薄い竹皮の皿をお供えしている。聞けば、特定の人格を持つ神だけでなく、日頃使う道や車といった物質的存在の中にも精霊の存在を認め、日頃自分達人間の役に立っていることに感謝するという。写真を撮り忘れたが、内部構造がわかるエレベータの外側天井上にも同じような供物が置いてあったのは驚いた。土着の精霊信仰が外来宗教の影響を被り、今の形式に変質したと思われる。どうも日本の神仏習合のようなもののようだ。宿泊先のホテルの中にも同じような祠があり、よその御仏壇にお邪魔したような気分になり、ご家族に許可をもらって拝ませてもらった。世界史のおさらいになるが、15世紀中葉のマラッカ王国のイスラーム化を端緒として東南アジア一帯の当該宗教の伝播は加速した。バリ島ではこの宗教伝播の波を被らなかったようだ。前日までいたジャワ島ではよく見られたモスクなどはほとんど見当たらなかった。様々な舶来の文物を受容・融合して独自の文化に昇華する東南アジアという奥深い姿の一端が垣間見えた。大阪人の筆者が道端で見つけた郷土のたこ焼きも、この文化の中に姿形を変えながら溶け込んでいくのだろうか。
7. バリ島観光地もろもろ
翌日、同行者の予約したツアーで一日観光地を巡った。場所をいくつも短時間で巡るのは性に合わないので、あまり強い印象に残ったことは少なかったが、まあ書いてみる。まずジャングルの生い茂る中、猿を身近に見れる公演に行った。どこでもそうだが、野生動物を相手するので、餌付けしない、目を合わせない、など当たり前のルールを守って楽しもう。猿に手の指を噛み切られるぞという看板があった。現地の伝統的な田んぼを観光地化したところでなんちゃって「農業体験」として篭を担いでいるが、これがどこまで彼らの伝統的なあり方を反映しているのか疑わしい。
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次に滝を見に行った。遊泳できる場所を期待して予め水着を兼ねる下着を持って行ったのは正解だった。未消毒の河の水が口に入ったりするので、免疫が正常に機能する万全な体調で臨もう。
泳ぎ終わったら珈琲園に行った。インドネシアでは、コーヒーやカカオ、サトウキビがオランダ人によって齎され、プランテーションの中で高単価の商品作物として栽培された。珈琲は現地語でkopiというがオランダ語/koffie由来である。アラビア語圏における嗜好品qafwatunとしての飲料がオスマン帝国のウィーン侵攻を契機に西欧に伝播、さらにオランダ人が珈琲豆やサトウキビといった欧州の冷涼な気候で生育不能の商品作物の自力供給を目指した結果、南米のスリナムで栽培に成功。同じ熱帯気候で大規模な生産が可能なインドネシアに輸入し根付かせた。語彙の遍歴を見るに珈琲はどういうわけかイスラームとともには伝わらず、大航海時代以降のヨーロッパ人とともに地球を半周してやっとインドネシアに伝来したといえる。モスクの化石同様、自然環境が人間の行動に影響した例といえる。別に珈琲豆を食べて腸内で熟成された糞を出すわけでもないのに園内で観光客向けに飼育されているジャコウネコが少しかわいそうだった。
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そそくさと農園を抜けたらヒンドゥー教寺院に行った。布を腰に巻いての着用が義務づけられていた。ジャワ島のモスクにも同様の決まりがあったため、宗教的聖域の進入にはインドネシア共通で一定の礼儀作法があると見える。寺院の建築物は400年ほど前に建立されたものが多いらしい。日本で見る木造の寺社仏閣と異なり、建築部材に石を用いたものが多い。現地の高温多湿な環境を考慮するに、長期間使用する建造物に、腐りやすく食害を受ける木材は不適だったのだろう。同じ石材の話でいえば、市街地で見た赤褐色の煉瓦造りの棟を想起した。熱帯気候の土壌ラトソルは雨があらゆる有機物を流出させ、比重の重いアルミや鉄の酸化イオンが残留しやすいという。故に色彩は赤褐色となる。焼成したレンガの発色も同じになるのだろうか。現地のレストランで80,000,Rpする昼食を食べてデンパサール国際空港に戻り、ジャカルタ経由で帰国した。帰りの空港で取り残されて危うくトム・ハンクス主演の「ターミナル」を地で行きかけたのはまた別の機会にしたいと思う。
愛のためのインドネシア紀行(櫻井京太郎)
元々インドネシアには大学を休学して母親に中華系インドネシア人の母を持つ友人が、現地の高専で日本語を教える為に滞在していた。海外に行った経験はこれまでなかったが、これを良い機会だと思った僕は、好奇心と勢いからインドネシアへ旅行する事を決意したのだ。とはいえ、初めての海外旅行、それも日本人の旅行先としてあまりメジャーではないインドネシアへ行く事は不安で一杯である。という事で、1年浪人する毎に一つの言語を習得した、通称5浪5言語ニキが同行する事になった。
日本から出発する直前、5浪5言語ニキにトラブルが起きた。自転車に乗っている途中、財布を落としたのだ。旅行前から既に暗雲が垂れ込める。
キャッシュカードは再発行まで時間が掛かる。財布は街中を探せど探せど見つからない。
彼の分の飛行機代やホテル代は僕が一旦払う事にして、知り合いから滞在費として5万円を借りる事で事態は収束した。
8月29日、僕は関西国際空港を飛び立った。インドネシアへは、シンガポールを経由して向かった。
トランジットで滞在したシンガポールも、初めて海外の地に降り立つ僕にとっては大きな衝撃であった。行きのトランジットは8時間程の滞在で、帰りのトランジットは16時間程であった。行きのトランジットでは、深夜のシンガポールを闊歩した。マーライオンは水を放出していなかったし、ガーデンズ・バイ・ザ・ベイは中へは入れなかった。しかし、深夜に全く知らない異国を闊歩する事は、とても冒険心を燻らせた。シンガポールの中心部はとても清潔で、進歩的であったが、しばしば見かけたホームレスの人々を見ると、その潔癖な顔面にケチャップをぶっ掛けたくなった。
帰りのトランジットでは、行きとは違い昼から夜の初めのシンガポールを出歩いた。行きのトランジットでの移動はタクシーを使ったが、帰りのトランジットでの移動ではMRTという地下鉄を使った。物価が高いシンガポールだが、地下鉄の料金は一回の移動で1ドルから2ドル程と、その安さに驚いた。
行きのトランジットよりも多くの時間があった為、色々な場所に出歩いた。ゲイラン地区という、国内で唯一売春が許可されている場所では、カエルの鍋を食べた。アラビアンストリートやリトルインディアでは、多文化国家であるシンガポールの多様性に触れた。
インドネシアは6日間の滞在であった。そこで5浪5言語ニキに更なる災難が降りかかる。僕と彼は同日に別の飛行機でインドネシアへ行く予定だったが、彼は広州でのトランジットに失敗した為、2日遅れでインドネシアへ行く事になったのだ。
最初はジャカルタに滞在した。まずジャカルタのスカルノハッタ国際空港で僕は大きなカルチャーショックを受けた。警備員がスマホを見ながら仕事をしたり、お土産店の店員が寝っ転がりながっていたりと、空港職員の勤務態度があまりにもラフすぎるのだ。僕は旧来の日本社会のそれに対抗するかのように自由を尊重してこれまで人生を過ごしてきた自負があるが、やはり僕には日本人の血が流れているのだなと自覚した。
空港からはバスでクラパガデンという街へ移動し、華僑である友人の母親と友人の従兄弟と合流した。クラパガデンはスハルト政権時に迫害された華僑達が集まって形成された街で、住民の多くが華僑系である。インドネシアはイスラーム教の人口が約90%とマジョリティであるが、カルパガデンでは豚肉を提供する飲食店を多く見つけた。友人の母親と従兄弟とは、カルパガデン内にあるモールへ入った。インドネシアはとても暑い為、冷房の効いたモールの中に涼みに行く人がかなり多いらしい。モールの中では色々なものを食べた。果物と辛い食べ物がとても多かった。
翌日は友人と、彼が教えている高校の生徒と、その高校で友人と日本語を教えている生徒と4人で共に行動した。移動はGojekという、タクシーを呼び出すアプリを用いたり、バジャイという乗り物に乗ったりした。バジャイは三輪のタクシーで、値段は交渉によって決められる。幸い、同行者にインドネシア人と日本人のハーフ1人と、純血のインドネシア人二人がいるので、言語面での不安はなく交渉はスムーズにいった。バジャイは運転者を除いて二人乗りであるが、四人で車内に詰め詰めで乗った。
ジャカルタでは最初に東南アジア最大のモスクであるイストゥクラル大モスクと、その向かいにあるカトリック教会のジャカルタ大聖堂に向かった。イスラム教はしばしば排他的な宗教であるかのように語られるが、このようにインドネシアにおけるイスラム教はキリスト教や仏教、ヒンドゥー教などと共存している事に驚いた。
夜はインドネシア独立記念の式典の閉会式をやっているコタ地域へ行った。コタ地域はオランダ植民地時代の名残りがある街並みで、地下鉄もオランダ時代に建てられているものであった。インドネシア独立記念は1ヶ月に跨って開催されているようで、インドネシア人の愛国心を感じられた。
翌日、僕の体に異変が起こる。前日の夕食にサンバルという非常に辛い調味料をケチャップを入れるような感覚で大量に入れてしまい、胃を壊してしまったのだ。そして僕はジャカルタへの観光を中止し、丸一日ホテルで寝込む事になったのだ。
体調が回復した後、遅れてやってきた5浪5言語ニキと共にジョグジャカルタへ飛行機で向かった。ジョグジャカルタではボロブドゥールを見た。時間の都合でボロブドゥールの中へと入る事はできなかったが、外側からその壮大さを感じられた。教科書に載ってあるものが自分の視界の中に入り、世界史の教科書は全くのフェイクではなく、しっかりとした現実なのだと、一見当たり前の事を改めて実感し、少し気分が高揚した。現地のおばちゃんと2ショットを撮らないかと持ちかけられたりもした。
ジョグジャカルタで見た観光地はボロブドゥールのみだった為、もっと色んな場所を見ればよかったと後悔をしている。
インドネシア旅行の締めはバリ島だった。バリ島はイスラム教徒が多く占めるインドネシアで、唯一ヒンドゥー教徒が多くを占める。バリ島は京都に仏教寺院が多くあるように、街中にヒンドゥー教寺院があった。バリ島ではガイド付きの観光ツアーに行き、タナロット寺院、テガラランライステラス、モンキーフォレスト、スバトゥの沐浴場などに行った。どれも非日常的な体験をしたが、僕にとってはあまりにも観光地ナイズされているように感じてしまい、ありのままを味わう観光を求めていた僕にとっては少し物足りなく感じた。
とはいえ、初めての海外旅行は総じてとても刺激的な体験ばかりであった。地球儀を動かしたら確認できる島々には、自分の住む世界とは違う常識、システム、風土の中で暮らしている人々が住んでいて、その日常の中で生を全うしている。私はこの旅行で少し世界に対する愛、人間に対する愛が育まれたと思う。
バリ旅行(榎本)
夏休みに、バリに行った。べつに学生特有の限界旅行でも何でも無く、ただ家族に行くぞと言われたから行った旅行だった。自分の主な役割は誰一人英語ができない家族に代わって事務的な通訳をすることだ。インドネシア本土からも乗り継ぎがあり、トランジットでは父親の予約した食事付きの清潔な休憩スペースでビュッフェを食べた。バリにまで乗り継ぐ機内から見える海がきれいだった。
ホテルまでのタクシーから見える異国の雰囲気は確かに興味深かった。何より驚いたのは信号が無いことで、信号ありきでないと移動もできないような己の感性には初めなかなか慣れなかった。しかし考えてみればあらゆる法と同様に、「人間の簡便」ありきの信号や法なのでありその逆ではなかったのだったと、交差点、空気読みで交通する車内で感じ入る。
ホテルに着くまでは少し大変だった。というのも、系列のホテルが近場に複数あり家族で泊まるホテルそのものになかなかたどり着けなかったからだ。しかしまあそれもたいしたことではなく何度目かのタクシーでホテルに着き、ホテルの敷地内を物色しながら自室へと向かう。この敷地というのも広大で、プールの複数はもちろんジムやらなにやらもあった。このあたりが定かではないのは旅行を通してどこにも行っていないからである。
とにかくどこも清掃の行き届いたホテルで、着いてまず寝たように思う。終始親兄弟が行きたいという方へついて行くのみだった。しかしずっと寝続けることができるわけでもなく、たまに起きてはバリ島内での歓楽街や若者の街を見ていた。
そのような生活リズムだから、夜中に起きては敷地内を散策した。夜間にもロビーに従業員がおり、なんとなく話しかけたりしてみる。このあたりは夜中に出歩いても大丈夫ですか? もちろん、敷地内は安全だよ。
親兄弟が行きたがる先は総じて映える場所だった。あるところでは砂浜で料理を注文しながら日の入りを見た。あるところではコロシアム状の客席に座り民族舞踊を見た。民族舞踊が上演されていた寺院で聞いたガムランの音は美しかったように思う。
ある日のタクシーの移動、この日もホテルにタクシーを呼んでもらい目的の観光地まで向かう。なかなか時間がかかる場所だった上、自分がぎこちない通訳をしなければならない都合上助手席に座った。手持ち無沙汰だったこともありドライバーに話しかける。渋滞の穴の中だった。
初め、バリ島で現地の人が好きな場所を聞いてみたりした。ドライバーの青年が楽しそうに答える。SNSをやってないか聞かれる。帰りもタクシーを呼んでくれとのことである。しかし、その男がやっているSNSはどれもやっていないことを伝えるとこの話はうやむやになった。いつも渋滞は多いのかと尋ねる。そんなことは信号がないから当然なのだが、その男はそうだと答える。
途中、ふと自分がホテルで調べていた若者の街のことが頭をよぎる。この男も若いのだし、現地の若者が休日にどういう所に行くのか気になった。バリの若者は休日に何をしていますか? 自分が調べた歓楽街はクラブやバーが建ち並んでいた。どこが良い店だったなり、この家族旅行で行けるのかは分からないがいずれ参考になるかもしれないと思っていた。自らの表現のつたなさもあり、最初文意があまりうまく伝わらなかった。祝日や記念日に行く場所? いや、もう少し普通の週末に遊びに行くような場所。車内から軽トラの荷台で資材を抑えながら通り過ぎる若者が見える。男はそちらに目を向けた。バリの若者は金がない。休日も次の平日のために働くんだよ。
目的地に着いて、男は名刺を渡してくれた。SNSをやっていないから、もし帰りもタクシーをつかうなら名刺に書いてある電話番号にかけてくれとのことだった。この電話が国際電話になってしまうかもしれない、とか言い訳のようなことを考えて、結局その名刺は捨ててしまった。
インドネシアのアナーキストとの交流を通じて(太田やくーと)
私は10月上旬から11月上旬にかけて約1ヶ月間、インドネシアを旅してきた。訪問したのは、ジャワ島のジャカルタ、バンドン、ジョグジャカルタ、スラバヤ、バリ島のデンパサール、スラウェシ島のマカッサルの6都市である。理由としては、いま在籍している大学院でインドネシアの民主化とアナーキストの実践に関して研究したいと考えており、現地にいるアナーキストとの関係構築とアナーキズム関連の文献を探すためという意味合いが大きい。さて、本稿ではインドネシアのアナーキストたちと交流したことで見つけた気づきや特徴について考えていきたい。
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インドネシアにアナーキズムが「再来」したのは、1980年代後半にインドネシアにもたらされたパンクロック音楽が90年代に入って群島全体的に広まってからであるという見方が一般的である。特に1993年に民放テレビが開局したことは、それまで流通していたテープやCDといった限定的なメディアの幅を押し広げる役割を果たした。そのパンク・ムーブメントによって流行したファッションに含まれるアナーキズムというシンボルは、支持する若者の思想や行動への影響を与えた。
インドネシア・アナーキズム略史
1965年の9.30事件を発端とする共産党員への虐殺と弾圧、翌年のスハルトの大統領就任を経て、インドネシアにおける左派勢力が壊滅的なダメージを負ったのはよく知られている通りである。このときスハルト政権は共産党とマルクス主義、マルクス・レーニン主義に対する法的な弾圧を特に強化しており、アナーキズム自体は「違法」とはならなかった。そのため、90年代に入ってアナーキズム勢力が伸長してくることに関しても、当局はアナーキズムを単なる「混沌」や「暴力」と同義であると理解し、左派勢力の一翼としては認識していなかったと言われている。
90年代になりパンクの影響を受けたアナーキストたちは、自分たちの闘いを反ファシズムと位置づけ、スハルト政権の軍国主義、資本主義、全体主義という側面に対する闘争を開始した。こうした活動には路上における直接的な抗議デモやZINE制作といった文化的な抵抗の他に、各地の工場で労働者を組織してストライキを起こすこと、ラジオ局を占拠して反スハルト的なメッセージを放送することといった闘いが含まれていた。スハルト政権崩壊後は、各地の反ファシスト団体と合流したネットワークが形成され、いままでの国家の規律権力に対抗する形で急進的で破壊的な個人の自律を強調するようなアナーキズム運動が作られたという。
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ローカルな闘いとグローバルな繋がり
各地のアナーキストたちと交流して印象的なのは、それぞれの都市に基盤となる拠点がいくつか存在しているということである。たとえばマカッサルには大学のキャンパス内に学生が占拠している部室や、街の一角にライブイベントやグッズ販売ができる共同スペースを構えており、日々そこに集って音楽を聞いたり酒を飲んだりしながら様々な議論をしているという。このような拠点はアナーキストのいる都市には恐らくどこにでも存在するようで、訪問者や近隣住民はそこに招待されることになる。
交流した友人いわく、そのような拠点は人々の抱えている政治的課題から日常生活の問題まで、様々な議論を公共の場において話しやすくすることで、アナーキズム的なイデオロギーを日常生活に導入するきっかけとなり、また政治意識に対する関心をあつめることに寄与しているという。日々人が集まる場所があれば、なにか問題があったときにすぐに対応を話し合うことができる。また些細な問題や悩みであっても、相談できる人がいることは解決のために役に立つ。
そういった日常的な交流が草の根で政治に対する意識を高め、なにか政治に問題があったときには爆発的な抗議デモと暴動を生み出す土壌となるわけである。すなわち、その地に根差した自治を理念とするオルタナティブな拠点を創出することが、インドネシアにおけるアナーキストが最も大切にしている取り組みであると言える。
クロポトキンは「近代科学とアナーキズム」において、地域的結合のための独立コミューンと社会的機能別に結合した労働組合の広範な連合という理念が、アナーキストが解放された未来社会のありうべき組織を構想するよすがであると書いているが、まさしく具体的で現実的な変革はこのような地域における日常的実践からのみ起こり得るのである。
ローカルな地盤があることは、それぞれの都市で志を同じくするアナーキストとのネットワークを構築することを可能にする。実際私も「ジャカルタで君が会った〇〇は知り合いだ」「次にデンパサールに行くなら〇〇に会うといい」と紹介されることが多かった。アナーキストとしての全国的な組織があるわけではなく、個別の都市同士を繋ぐネットワークがあることは、すぐに情報共有や支援をすることができるようになり、お互いの自律性を維持した状態で各地でアクションを起こすことに繋がる。インドネシアでは大きな政治的問題が起きたときには抗議デモがすぐに全土に広がることが知られているが、これはローカルな闘い同士を接続しているネットワークが機能しているからだと言えるだろう。
またインドネシア国内のネットワークに留まらず、国際的な交流を模索していることも特徴として挙げられる。とりわけインドネシアの人々は、グローバルサウスの労働力や資源が先進国によって搾取されていることによる貧困問題に対する思いが強い。アジアやアフリカの地域において、グローバル企業やそれと癒着する国家に対するプロテストを組織する人々との連携を強化することで、一層強固な抵抗のネットワークを築けるようになる。それは90年代後半から2000年代にかけて盛り上がった反グローバリズム運動の影響を受けているということも考えられるだろう。また各地の政治状況の違いを共有することで、互いを支援し合ったり抗議デモの方法を学んだりすることも可能になる。話を聞いていると、特にタイの反王制運動と香港の民主化デモを参考にしていることが多かった。
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おわりに
本稿ではローカルな規模の自治的な基盤とそれらを繋ぐネットワークについて述べたが、デモの闘い方から酒の飲み方まで、他にもインドネシアのアナーキストから学ぶことは大きかった。こうした日常生活に即したライフスタイル的なレベルから変革を試みる潮流は、現代の世界的なアナーキズムの特徴として考えることができる。ますます状況が悪くなる日本社会において変革を志す人々は、このようなアナーキズム的実践に学んでみてもいいかもしれない。
執筆者紹介
・ねぎとろとろり(京都大学文学部3回生)
・ねぎま(大阪大学法学部2回生):大阪大学なにかする同好会というサークルでなにかしています。なにとぞ。
・tny(文学部3回生)
・Wasserfeld(クスノキ大学第三高等学校学部一回生):棄書上街。2025年2月26日の吉田寮受験生お疲れ様コンパで台湾土産話を持って帰ります、受験生だけでなくいろんな人に話したい。
・櫻井京太郎(京都大学理学部3回生)
・榎本(京都大学文学部3回生):2024年1月10日、文学部自治会主催で「研究紹介」をやります。きてね。
・太田やくーと(大阪公立大学現代システム科学研究科M1):アナーキストのやくーとです!Twitterやってます!フォローしてね!https://x.com/addict_ykt
終わりに(半分、ヒト)
日本語で書かれたコロナ以後の情報がインターネット上に欠如しているというのが私が抱えた問題点であった。
ぶっちゃけこのnoteを無料公開することに一瞬、躊躇を覚えた。熱量・分量ともにお金をとってもいいレベルの読み物だと自負しているからだ。
それでも無料公開に拘ったのは、まえがきでも述べた問題意識がずっと自分の根底に鎮座しているからだ。
私が大学生になって海外に行くようになったとき、頼れる情報がなかなかなくて困り・迷い・失敗してきた。
インターネット上には情報があふれかえっているように見えて”使える情報”というのは意外と少ない。古かったり、出所があやふやだったり。その点、本noteは”2024年に”・”執筆者たちが実際に体験した”出来事をもとにした情報がすべてである。
もちろん数年経てば情報は古くなろう。しかし、ひとつポスト・コロナのインドネシアを見聞した旅行記として読み継がれることをここに願う。
この文集を読んで、海外に行こうと決意する人間が一人でも増えれば僥倖である。
【付録:訪問地図】
企画・編集:半分、ヒト(京都大学文学部3回生)
2024.12.31 年の瀬を迎えた京都の炬燵の中にて