【けいばエッセイ②】レビュー~それは今日勝てなくても次に勝てるようになるための思考過程の記録~
今日の淀は雨模様。
明日の馬場はどうなんだろう?
川田さんは大丈夫だろうか?東京3Rのゴール後に落馬して以後のレースを乗り替わったという。何事もありませんようにと願うしかない。
そんなことを思いながら富士ステークスを待つ。
そのレビューを書いたら明日は菊花賞だ。良い馬場であってほしい。
ところで、昨夜のうちに「24兵庫ゴールドカップ」のレビューを書いた。
眠かったけど、「タラレバ」の記憶が鮮明なうちに書くのも、ひとつの成功のカギなのかもしれないと思っているから書いた。困ったことに、書いてるうちに眠気なんて吹き飛んでしまった。レビューには私の貴重な睡眠時間を返してほしい。
人間の記憶って、どんどん上書きされてせっかくのよいインスピレーションがいつの間にか埋没してしまったりするからね。ほら、よくあるでしょ。「いいこと考えていたのになんだったっけ?ま、いいか」ってこと。できる限り記憶が鮮明なうちに書き残したい。
職場の先輩が口を酸っぱくして言ってたことがある。「記憶より記録」。
たしかにそうで、人間の記憶って都合よくウソをついたりするからね。そんな環境のなかでキャリを積んできたから、こうして「記録」という言語化を怠らずにやってきた。それを「読みたい」というおかしなありがたい人たちの声に対する自分なりの礼儀が、このnoteでの記録の開示なんだ。
これからもどんどんレビューを書く。いつも言ってるとおり、競馬予想というのは結果確認とその後のレビューの言語化までがセットだと思っているので。ってかレビューの方が大切だったりするからね。
勉強だって同じだよね。テストで間違う。それをきちんとレビューして、次には間違えないようにする。同じ問題が出たら、必ずスコアできるようにする。
そんな小さな努力の積み重ねが成績につながり、偏差値やGPAにつながる。その向上の結果として得た次の進路で、人生をゆたかにする出会いをする。チャンスを手に入れる。そんな良質な出会いやチャンスって、やはりそれなりの進路にこそたくさん待っていたりするからね。勉強ってそんな出会いのための手段かもしれないね。勉強を目的にしちゃダメだよ。勉強はあくまでも手段だよ。受験生や学生にはこんなことを言っている。
競馬予想も然り。たまには同じ問題が出たりする。そのときにちゃんと勝てるように準備しておけばいいだけのこと。その準備のことを、ここでは「知性」と言ったりもする。
そんなことを踏まえて、なぜレビューの方が大切なのか?を再確認しておく。ここで使っている「レビュー」について、自分でもちゃんと定義を確認しておきたいのでそれを書く。
そう、ここにあるように「過去の出来事や学習内容を再確認する」ために書くのが私のレビュー。
ただ、そうした辞書的な定義って、ミソもクソも一緒くたにするような何の面白味もないモノになるので、ひと手間加える必要がある。それが次に書く、意味的な定義だ。
それは個人の思いや創造性を含んだ、まさに「著作物」といえるようなもの。辞書的な定義より、定義づけた人の人間性や思いが詰まっていてよほど琴線に触れる。記憶にも残る。
余談だが、「ミソもクソも一緒」と書いて思い出したことがある。今回の衆院選。ウ〇コ味のカレー(攻撃ネタ満載の隙だらけの与党)を選ぶか、カレー味のウ〇コ(リベラルという名前でごまかす反日系野党)を選ぶかの厳しい選択を国民は突き付けられているが、ウ〇コを食べると病気になる(国がおかしくなる)から気をつけるように。そんな意味合いのXのポストがあって、うまいことを言うものだと感心した。
話を戻す。以下は、明日への希望を込めた私なりのレビューの定義。
これからも、こんな思いをもってレビューする。
「今日勝てなくても」と書いた。勝ったらレビューをしないのかって?もちろんするさ。
「不思議な負け」はもちろん、「不思議な勝ち」の中の含意もちゃんと言語化する。
繰り返すが、競馬の本質は複雑性にある。つまり勝っても負けても「もしも」って不思議さが満載ってことでもある。たとえそのレースに勝ったとしても、「もし~でなければ」勝てていなかったという「もし」はたくさんある。それを人は往々に「運がよかった」というけど、そうした「運」につながる「もし」にこそ、明日の勝利のヒントが詰まっている。それは勝ったときだって変わりがないもの。
そんな「運」や「もし」の言語化の過程を、ここでは「知性」と表現する。