【エッセイ】馬券購入~結果を自ら受け入れる人にのみ許されるオトナの嗜みちゃうんか?~
なぜわざわざこんなことを書くのか。さすがに書かずにいられないからだ。
それこそBullshit Jobs「くそどうでもいい仕事」を承知で書く。
というのも、そもそもの発端は菊花賞のダノンデサイアについての安田翔伍師の以下のポスト(@shogo_y_stable)。こんなポストをせざるを得ないほどに酷いこと言われているんだろうね。
しかし、ひどい話だよね。馬をたたいてどうなるってんだよ。競馬民の辞書的には、「たたく」というのは陣営が目標達成にむけて特定のレースを使うことだ。たとえ自分の意のとおりにならなかった結果だったとしても、お馬さんへの「評価の範囲を超えた非難」のことを「たたく」というのではない。断じてそうあってはならない。
安田翔伍師のポストは、このnote的には競馬を知性的にとらえてほしいという願いだと受け止めたんだ。これってこのnoteの開示をはじめて一貫して伝えていることなんだ。競馬を知性的にとらえるってのは、競馬の本質である複雑性を理解できない奴は黙っていればいいし、黙っていられないんだったら競馬なんてやるなよってことだ。
もちろん反知性のもっともたる自分にもあらためて言い聞かせている。これを自戒という。競馬は、このようにうざい人間を生み出す人を哲学っぽい世界に誘う。
その昔、なんでも思いのとおりになるポジションを得た白河法皇はこんなことを言ったそうだ。(先日亡くなった西田敏行さんが「鎌倉殿の13人」で演じたのは後白河法皇だから違う人だ)
鴨川の水は先人の知見と尽力で治水が完璧になり(鴨川の情景だけに感嘆するのでなく、川底を掘り下げた水路を作り、潤いのある護岸を作ったセンスにも思いをやってほしい)、山法師はいなくなった。
現代においても相変わらず残る自分の思いのとおりにならないものは、サイコロの出目であり、同じように結果を支配できないのが競馬のレース結果だ。もし、思うような結果を求めるならばなおのこと競馬を止めた方がよろしい。競馬の本質は、だれもその結果を支配できない複雑性にこそあるからね。
ちなみに私は菊花賞のレビューではこんなことを書いた。
罵詈雑言を書き散らかす暇があったら、ちゃんとレビューしてリベンジの機会を待てばいい。それが競馬をやるオトナの作法だろうし、今日の負けを倍返しして(実際は倍返し以上だ)もらえる機会を見つけるのが競馬の楽しみだし、レビューの醍醐味だ。
レビューについてはこんなことも書いている。
デサイルは無事だったようで何より。一緒に有馬記念を待ちましょう。デサイルが有馬に出るかどうか。出たとして勝てるかどうか。
しらんけど。
繰り返す。結果責任は自分で負え。ノリさんを買うならなおさらだ。
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