『Enjoy Football !』
マネージャーの安瀬晴香から紹介を与りました、「半月板ニキ」こと玉井啓太です。
この呼び名が定着しているかはわかりませんが、そう呼んでくれているのでこれからは「半月板ニキ」として活動していきたいと思います。
はるかとは同じブラザーで、パスタ好きすぎてブラザーでもイタリアンに行く案がでたり、渋谷のシュラスコを予約してはキャンセルするのを2回繰り返したりすることもありました。
スーパーなモチベーションビデオから、何度「力」(ややこしいな)をもらったことか。部員を代表して申し上げます。ありがとうございました。
そして、玉井&安瀬ブラザーの後輩たちの活躍を期待しております。もちろん、後輩全員期待していますよ。
柳原くんから引退ブログが始まり、徐々にいいねの数が減ってきていることに私は気づいています。
それは柳原くんのスタートダッシュが完璧だったのか、それとも最後に控える幹部や主将までの給水所になっているのか。
その両方ではあると思いますが、引退ブログの駅伝に給水所はありません。
というのも、今年は練習や試合を終えて引退しきってからの引退ブログになるので、後輩からの感想や生の声が聞けないことに若干の寂しさを感じています。
感想といいね、どしどしお待ちしております。
「困ったときはおれの引退ブログを読んで」と言われ続けた3年間。読もうとは思っていたものの(がちで)、一度も読まずに書く側になってしまいました。
書く側になってやっと先輩方の引退ブログへの思いや気持ちの大きさを実感しています。いや、遅いって。
今からでも、これからの人生に活かせるプラスなことが絶対にあるので全員分読み直します。
とは言いつつも「あれ、引退ブログってどんなこと書けばいいんだっけ。」となったのである先輩の引退ブログを見返しました。
人生の先輩(仮)新井大都のを見ました。
彼からの言葉にアンサーすると、「後悔」は残さないでできたと思います。と見栄張って言ってますが、振り返ってみると「悔しさ」はたくさんあります。特にラストシーズン。
ラストシーズンにおいて、私と同じような経験をしている人はそう多くないと思うので(そして多くならないでほしい)、そんな貴重な経験から感じたことをメインに書きました。
それが学習院サッカー部の後輩になにか刺さればいいなと思います。そんな引退ブログです。
その前に、私がなぜ学習院でサッカーをやるに至ったのかを軽く触れてきます。
では、いきます。
日藤。
高校はほんとに恵まれた環境だったなと今振り返って思う。それを当時実感できていなかったことは本当にもったいないことしてた。まじでレベル高くて、プロになる先輩や同期、これからプロになるであろう後輩らがいた。
高校時代を端的にいうと「不完全燃焼」な3年間。1年でK2の玉井とは今でも言われるけど、トップトップの試合に絡めたわけでもなかったし。そんな3年間だったことと、漠然とサッカーをしていない自分を想像できなかったから大学でもサッカーやるんだろうなとは思っていた。
ただ桐光との最終節、決定機でヘディングを決めきれなかったことで大学でもやる覚悟ができた。これを決めれるよう、後悔のないようやろうと思った。
最高な仲間と出会えて、じゃんけんしたりアイコンタクトしたりで本当に最高な3年間だった。飲み行きましょう。
大学入学。サッカー部入部。
まず恒例の「学生主体」に驚くフェーズがあった。「すげぇ」と。今では当たり前になっているけど、学生だけで練習、試合を作り上げる環境は良い意味でも悪い意味でもとてつもない可能性があると感じたし、今でもそう思ってる。
1年の夏に、國學院戦で都リーグスタメン出場を果たした。それ以降は土曜日のリーグメンバーに入っては何分か出場して、翌日のジュニアやサタデーの試合に出る、みたいにたくさんの試合に出れた。特に平久JAPANの一員として試合に出さしてもらった際には、学生主体のサッカー、学生コーチによるサッカーとしての成功例を一緒に体験することができたと感じている。非常に良い経験を1年のうちからできていた。しかし、新チームになりオフシーズンに入る1週間前の練習試合で右膝半月板損傷、そして手術。他の人よりも半月板が大きいらしい。
2年では、手術からの復帰が長引いたことやコロナに罹ったこともあって試合には出たり、出なかったり。でも、駒沢でスタメン出場した立教戦と、最終節前に北グラで途中出場した東農戦は特に印象に残っている。
3年では、アミノでやっと公式戦初得点。ヘディング。リーグ始まってからはFWで出場することが増えたけど、前半45分交代&0点だったのであまり多くは語らないでおこう。
ポジション関係なしに徐々に試合でやれることが増えてきている実感はあった。3年の後期、ラストシーズンは「もっとやったろ」と思っていた。
3年のリーグ中断期間に入った。夏に行う成蹊戦を迎えた週の練習で左膝を接触して離脱した。ホスピタルパスとデススラで。
この瞬間から私のラストシーズンが始まったなんて、誰が想像しただろうか。いや、誰も想像しなかっただろう。遊び道具を取り上げられた気分だった。
当時を振り返るとちょっとサッカー楽しみすぎてたなと思う。ご飯食べるのと同じようにサッカーしてた。
当初骨挫傷と診断され、1か月で治ると言われた。でも1年の時の半月板の痛みに似ていた。嫌な予感はしてた。
嫌な予感は当たる。昔からそう決まっている。
結局MRI撮ったら、半月板に小さい傷が入っていた。この時点で1月。
いろんな治療を試したけど蹴る度、トラップする度に膝が外れる恐怖と痛みは消えなかった。練習がまるで生き地獄のようだった。
2,3月のこの時期が1番きつかった。不意に発生する痛みと、手術したとしてラストシーズンサッカーできるかどうかの不安でいっぱいだった。
「やっぱりサッカーできないんだ」「なんでラストシーズンなんだ」って最寄りからの帰り道に泣きそうになった。泣いてはない。
このまま痛み抱えたまま中途半端にやるのは絶対に後悔すると思い、手術を決心。
復帰は早くても中断後の7試合出れるかどうか。
幹太や梶、1年の時にお世話になった平久竜土くんのように”学生コーチ”になる選択肢も考えた。でも、”プレイヤー”として活躍することを目指すのを捨てることはできなかったし、プレーしないっていう選択肢は考えられなかった。やっぱりサッカーがやりたかったから。
4月11日手術。
もうリーグが始まっていて、同期や後輩が戦ってる。
その頃、自分は何をしてるかというと全部家で見てるだけ。
開幕勝利した上智戦も「まじで何してんの」って思った武蔵戦、東大戦も。ぜーんぶ家で見てるだけ。
勝った時は嬉しいけど、そのピッチから1番遠いところで見てるだけの自分に対する失望と、焦りと、「おれもはやくやりたい」のワクワク感、などなどいろんな感情が混ざっていて、複雑な気持ちだった。
引き分けや負けの時には、「やってくれよ」の気持ち3割、「おれなにしてんだろ」7割。いや、逆の日もあったかな。
そんな自宅警備員をそっちのけで、リーグ戦は続いていて、ピッチ内も外もいろんな問題が起きていて。
でもどれも蚊帳の外。自分が所属する組織なのに、どこか他人事だった。
グラウンドに出て来れるようになって、部員のみんなに会えるようになり、動きのつけたリハビリができるようになり、1年生の顔と名前が一致するようになった。
いろいろ変化があったけど、1番はサッカーができる日が近づいていることに実感を持てた。
でも、少し前まで蚊帳の外に感じていた自宅警備員は、グラウンドに来て盛り上げれるほどの勇気は持ち合わせていなかったので、ちょっと立ち振る舞いに困ったのも事実。
正直、「リバビリなんて量こなしてればすぐ復帰できるっしょ」って思ってた。実際に予定より早い8月にはボール蹴れる、走れるようになった。が、本当のリハビリはここからだった。
練習に混じってもそもそも動けない。トラップが怖い。左足で蹴れない。他にも挙げればきりがないが、中断明けに合流してリーグ戦5試合出るという手術後に描いていた目標を達成できるとは到底思えなかった。
ていうか、「そもそも試合出れるのか?このまま終わるかも、やばい」と焦っていた。
そんな焦りと恐怖心の克服を試合は待ってくれないので、もちろん試合に出る時が来る。
不安とワクワクの半分半分。ただやるしかなかった。” Just do it” の精神で。
そんなこんなでアイシングとリハビリを繰り返し、徐々に左膝を恐怖の対象から多少信頼できる奴に仲直りすることができた。
やっと試合に出れて、デザートにありつけたみたいだった。
最終節の1か月前に、Aに復帰。残り3試合のところでリーグメンバーに登録され、迎えた朝鮮戦。負けている展開で出したいと思われない自分が悔しかった。
でも現状はそんなもん。球際戦えないし、左足でシュート打てないし。自分でもわかってた。
でも残り3試合のうち、2試合に出てゴールも決めれるなんて思ってもいなかった。
試合に出れた嬉しさもあったが、それよりも安堵感の方が大きかった。
「手術して良かった」「間に合って良かった」と。
周真が風邪引いたあたりから、
力がいない試合があり、
最終節で石川が足つるところまで、
怖いくらいに運が味方してくれた。神様、ありがとう。
そして、引退試合でもヘディングで1点目を決めてみんなと喜び合えた。高校時代の最終節でやり残したことも達成できたことにいまびっくりしている。
こんな感じで、半月板ニキは無事に復帰しハッピーエンドで終えれたという物語だ。
この物語の中で一番つらかったこと。
それは、サッカー部がどこか他人事になってしまっていたことと、サッカーができなかったこと。
生活の一部、いや、一番を占めているサッカー部に、存在している実感が持てないこと。空白の3ヶ月。本当にもったいないことしていたとは思うけど、どうすることもできなかったと今も言い聞かせている。なにか答えがあったなら、今からでも教えて欲しいくらい。
サッカーができない苦しさを知ってから、サッカーができる喜び・楽しさをより一層感じれた。
そんな筆者のメッセージはこうだ。
「サッカーができることに感謝して全力で楽しんで欲しい」
すごいありきたりで甘いけど。ありきたりで結構。甘くて結構。
大袈裟だけど、いつサッカーができなくなるか、サッカー部で活動できなくなるかはわからない。明日、引退するかもしれないし、明後日かもしれない。
だからこそ、人工芝で毎日練習ができて、週末には試合があって、サポートしてくれるマネージャーがいて、応援してくれる保護者やOB、OGたちがいるという素晴らしい環境を再認識して欲しい。
その環境のなかで、ひとりひとりの役割・役職があってなにかプラスになることを組織に還元できるチャンスがあることを忘れないで欲しい。全員で輔仁会サッカー部であることを。
こんなありきたりな言葉、誰にも届かないかもしれないけど、半月板ニキの復活物語を間近で見ていた誰かに多少なりとも刺さってくれると信じている。
その上で楽しんでくれ。
結局、これに尽きる。
ラストシーズン、誰よりも辛くて苦しい経験をしてる自負がある。
でも
ひとつひとつのトラップの出来に一喜一憂して次はどうすれば上手くいくか試行錯誤しているとき。
崩しのイメージが共有できてかつ、成功したとき。
なんで走ってんのかわかんないけど、みんなで声出してバカになってラスト1本走るとき。
点を決めて喜び合ったとき。
そして、試合に勝ってみんなでカモンガクシュをしたとき。
やっぱり、最高に楽しかった。
大事なことなのでもう一度言っておこう。楽しんでくれ。
『“上”を目指す以上、苦しい事の方が多い。
苦しくなくちゃがんばった事にならないって思い込んでるみたいなとこもある。
でも、そんな事はお構い無しに、時々楽しいは 来てしまう。』
最高に楽しかった17年間。美化でもなんでもない紛れもない事実。
サッカー人生のテーマはやっぱり ” Enjoy Football ! ” だったらしい。
小学生のころの
キャプテン「エンジョ―ーイ!」
みんなで「フットボール!!!」
ていう頭おかしい円陣から決まってたんだろう。このおかげで神奈川ベスト8まで行ってるもんな。
最後に。
榎さん、林さん。
多くの指導、手厚いサポートありがとうございました。最後の4年間、学習院でサッカーできて幸せでした。
大矢さん、篠さん、川合さん、治療に関わってくださった医療関係者の皆様。
みなさまのおかげでサッカーができたこと、一生忘れません。読んでくれてるかわからないけど。ていうか、送りつけます。本当にありがとうございました。
両親。
違う題名にしようと思ってたけど、やっぱりこれでした。この気持ちを忘れないでいさせてくれてありがとう。
インサイドパスの軸足を手でまっすぐ固定させるところから私のサッカーは始まりました。ラストシーズンはもっとサッカーやってるとこ見せてやりたかったです。
これからは私のサッカーを見る以外の趣味を見つけてくれると安心します。カプリチョーザいつか奢らせて。
「復帰できて良かったね」と声をかけてくださった皆様。
先輩、同期、後輩、同期の保護者、高校のチームメイトなどなど、挙げたらきりがありません。苦しかったけどその一言で頑張って良かったと思えました。
そんな心優しい多くの方に囲まれて、私は幸せ者です。サッカーが繋げてくれた多くの出会いに感謝。
マネージャー。
皆さんのサポートあって練習がスムーズにできて上手くなれました。本当にありがとうございました。あと、アイシング使いすぎてごめんなさい。
同期。
あなたたちが同期で良かった。
後輩。
悔いだけは残さないように。楽しんで。
これでもう言い残したことはないはず!
と言ってる間に地元である湘南の海沿いを走り終えたようです。やっぱり、気持ち良いですね。
次のランナーはザ・都合の良い男、吉田琢くんです。
彼は私が所属する分析部門の長なのですが、今年の大阪遠征で幹部から詰められた際には「二人で長だよな」と言い私も連れていき、就活のときは「一人で長やってました」と言っていたそうで。私もそんな彼に振り回された大勢の中の一人に過ぎません。
プレー面では、彼の左足から繰り出される縦パスや美しいロングフィード、そして時折見せるセットプレーでの得点力に今シーズンは助けられました。
そんな彼から、どんな思いが語られるのか。乞うご期待!!
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玉井啓太