SLE と私 その1。 入院前の体質ってこんなんでした。
フレディと私
みたいなタイトルですいません。
少しずつ、自分の病歴を書いていこうかな、と思います。
初めて、入院したのが高3の夏休み、まだ17歳だった。
そもそも、生まれた時から虚弱体質だったらしく、乳幼児期はアトピー、
風邪を拗らせて肺炎直前までいったこともあった。
小学生になってから一番困っていたのが、遠足から帰ると毎回日焼けで真っ赤になってしまうこと。
次の日には水ぶくれができ、治癒するまで放置するしかなかった。
また、謎の蕁麻疹があり、これは全身至る所に出現したため、頭痒いくらいはまだしも、足が腫れ上がって靴が入らないという事態もあった…
母も一度気にして皮膚科に連れて行ってくれたが、塗り薬し
か処方してもらえず原因はわからずじまい。
原因不明といえば、しょっちゅう高熱も出ていた。
朝、熱を測ると39度超えが数ヶ月に一度の割合で出ていたように思う。
その都度、
「学校行ってしまえばなんとかなる!」
が、父と祖母の口癖だった。
どうにも雑。
学校で授業を受けていても怠さが抜けず、保健室に行くと、
「なんでこんなに熱があるのに学校に来るの?早退しなさい。」
と、結局追い返されるはめに。
帰りながら毎回、父と祖母への不信感を募らせた。
中学入学。
発熱や蕁麻疹が出なくなり、人並みに運動部に所属。
そこそこ(自分的には)健康的に過ごしていたと思う。
中一程度だと勉強もすんなりだし、放課後はバスケやってそこそこ楽しい中学生活だった。
一転して、異変が現れだしたのが中二の時。
雨の日、傘の柄をしっかりと握っていた指が真っ白になっていることに気づく。
何これ!!
ってなったのは一瞬。
手を揉んでいたらだんだんと血の気が戻ってきた。
これが、のちに知るSLEの症状の一つ、“レイノー現象”だった。
思えば、この時もっと真剣に事象を捉えるべきだったなぁ、と。
14歳くらいでそんな判断は無理なのも今だったら納得いくけどな。
周りの大人がな、ちょっとな。
所詮、学校行けば治る、とか、気合いでなんとかなる、とか精神論で片付けてしまえる浅さが全てをかき消してしまうのだった。
中三の高校受験時には相当な怠さと共に生活していた。
唯一の救いが、帰宅して聴く音楽や観る映画。
このひと時だけは、怠さや辛さを忘れることができた。
もし、この支えがなかったら多分病名告げられた時点で生きてく気力すら持てなかったかもしれない、それくらい大事なモノだった。
そして、あまり勉強に集中できない中で始まった進学校での生活。
まず、数学と物理は捨てた。
公式を覚える時間すら勿体ないと思うほどに切迫していた。
残った集中できる時間は、大好きな英語に絞り込んだ。
あと、絵を描きたい、となんとなーく思いたって美術部入部。
怠いながらも、なんとか毎日を繋いでいった。
そして、忘れた頃にやってくる異変その2。
関節痛。
高二の時に家を建て替えることになり、三ヶ月ほどアパート生活を強いられる。うちが所有するアパートだから家賃はかからないんだけど、たった三ヶ月のためにガスを通すといったことはせず、毎日帰宅したらポットのお湯でカップラーメンを食べるような生活を送った。
プラス、当時は服やCDの購入、映画鑑賞のためにバイトをやっていた。
口には出さなかったものの、アパートに帰り着いたら倒れこむくらい体を酷使していたと思う。
家が完成。
ホルムアルデヒド臭かった。
ケチるからや!!
と悪態つきつつ、2階の自分の部屋に行こうとした時だった。
階段を登れなかった。
関節が軋んで。
激痛の上、いきなり現れた異変に驚いて、家族に
「足が痛すぎて階段のぼれない〜涙」
と涙ながらに訴えた。
そこで、祖母の一言。
「その歳で関節痛とかありえん笑」
語尾にガチで笑いが含まれていたのでゾッとした。
高二の修学旅行は雪山に籠りスキー合宿だったのだが、まだ関節痛は続いていた。
「どうしても関節痛が酷くてスキーはできそうにない」
と相談したところ、
「サボりたいだけやろうが」
と祖母に簡単に片づけられ、ふっつーにスキー合宿参加…
なんか、この家?この家の人?ていうか、祖母?毒祖母?
なにかが、圧倒的に、色々とおかしい。。
逆らう気力すらなく、合宿も行き春には高三を迎えることになる。
長くなったので、次につづく。
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