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大きく変わる教師の役目

【 目次 】

1.今の教育の現状

2.歴史から考える新しい教育 -もう高学歴に意味はない-

3.生徒が生徒に教える授業

4.社会へ繋がる特別授業

5.テクノロジーを教育に受け入れる

6.部活は未来の教育システム

7.一律学習にしないことで時間をつくる

8.新しい教育の軸は人間力

9.大きく変わる教師の役目

10.更に未来の教育を妄想する 

11.最後に





【 1.今の教育の現状 】


現代の授業の多くは、1人の教師が、30人40人の生徒に教えるという形が主流である。

日本は長い間このスタイルである。


今、その授業を受ける世代の人数がドンドン少なくなっている。

少子化問題である。

そして、学校自体も維持できなくなり、各地で学校の統合が進んでいる。

しかも、教師の数も1990年頃をピークに徐々に減っている。

離職の理由の多くは「勤務時間の長さ」「仕事量の多さ」「保護者への対応」「生徒への対応」「収入の少なさ」などがある。

教育という場が、少しずつ崩壊し始めている。







【2.歴史から考える新しい教育】


明治、大正、昭和、平成、令和。

歴史の観点から教育を考えてみよう。



江戸から、明治大正に時代が変わり、皆が平等に学ぶことが許され、皆が自分たちの生活が少しでも楽になるようにと勉強した。


そして昭和へ。

資本主義での経済発展が進み、大きなサイクルで社会が動きだす。

皆が同じ方向を見る事で、大きな力を生み出し、世界と渡り合う日本を作っっていった。

明治大正の頃のようなの基本的な学力を学ぶということではなく、より高い水準の学力を、皆が平均的に会得する教育に舵が取られた。

評価されるのは個性ではなく学力。そして人よりも前へという競争意識。

それが分かりやすく形になったのが「学歴評価」である。

「高学力の大学に行くこと=良い人生」 という図式だ。

実際、高学歴の人には、高収入の大企業への道が開けていた。

大企業に入社することが目標となり、「永久就職」という言葉があるほど、未来が約束されていた。



そして、平成 令和。

今まで、世界をリードして来た日本の製造業。

それが、インターネットの普及で様子が一変する。

物に不自由する事がなくなり、生産経済で成長してきた日本は、生産しても売れない時代になっていく。

今の製造業は、今まであったものを、少し違う角度からの見ただけの商品が多い。

「デザイン」が新しくなったり、機能が増えちょっと便利になったくらいの物を「新商品」として売り出す。

今まであった家電でも、使用目的がはたせるので、それで問題ないという人は「新商品」を買わない。

だから昭和時代のような「爆発的に売れる」という事は、今はもうあまりない。

製造に特化した経済成長自体が頭打ちなのだ。


そこに現れたのが、スマートフォンだ。

「携帯電話」「メール」「テレビ」「音楽プレーヤー」など、これらは今までにも存在したものだが、それが1つの携帯電話の中に入るという画期的な商品が誕生したのだ。

さらに大容量のデータを送信できるようになったことで「映画」や「動画」も見れるようになり、さらに利便性があがり、より普及した。

今では、スマートフォンは全世界の人が1人1台以上持つほどの大ヒットである。

そして、スマートフォンに関連する新しいビジネスがドンドンが生まれ始めたのだ。

apple、google、facebook、amazon、yahooなどのインターネットビジネスが、世界の経済をリードするようになり、

製造業主体だった日本の大企業が、倒産する可能性がでてきたのだ。



そんな時代に突入した令和。

学校では、昭和と変わらず「定期的学力テスト」が行われ、それをクリアするために、日々、反復するように問題集を解き、脳に記憶させていく。

一般的な社会人になって、このように記憶された知識は、一般常識として使う以外は、あまり出番が無い。


「記憶する教育」の目的とは何か?

それは、テストで良い結果を出すために特化した教育である。


テストで良い結果を出す目的は何か?

それは「高学力大学」へ行くためである。


なぜ、「高学力大学」にいきたいのか?

それは、「大企業」に就職し、良い人生を送るためである。


令和になり、製造業主体の日本の大企業が倒産する可能性が出てきたことで、「高学力大学=良い人生」にならなくなった。

テストで良い点を採ることが目的の「記憶する教育」の重要性は低くなったのである。


「高学歴になれば、大企業に就職でき、良い人生が待っている」という、今まで不動だったこの論理。


昭和の時代の「永久就職」という言葉もなくなり、

大企業が倒産しかねない時代になり、学校の勉強をただ頑張ればいいという時代が終わりを告げたのだ。







【 3.生徒が生徒に教える授業 】


今は、1人の教師が前の教壇に立ち、生徒40名に向かって授業する。

問題を出し「分かる人!」と挙手をさせ、正解を答える。

1人が正解すると、他の39名は「理解した」テイで、授業が進む。

「正解は分かったが、理解はできていない...」

そんな生徒は、授業の流れを止めてまで「理解してません」とは言いづらい。

そして、1つの「不理解」が生まれ、それが2つ3つと重なっていき、問題の意味すら分からなくなってしまうという負の連鎖。

結果、授業にも学校にも行きたくなくなってしまう。


学ばなければならないのは「正解」ではなく、「なぜそれが正解なのか?」という「理解」の部分。

正解へのプロセスが理解出来ていないと、応用もできなくなる。

学びの場で「理解できない」こと程、面白くないことはない。


現実的に「時間」「学習の総量」という問題があるが(これはまた後で触れる)、教師1人に対しての生徒数が多いので、現実的に「みんなが理解する」こと自体、今のやり方では難しい。

では、教師を増やせば!となるが、現実的に難しい。


では、どうすれば?

教える側の人数が増えれば、理解する生徒の数も比例して増えるはず。

教える側の教師が増やせないのなら...


ココで考えられる「新しい授業の形」。

教えるのは教師だけではなく「生徒が生徒に教える」という形。

授業の中で、その科目の「得意な生徒」が、教師の補助として「不得意な生徒」に勉強を教える。

得意な子は「教える」という経験ができ、「どうしたら、分からない人に伝えられるか?」も、考えられるようになる。

授業科目によって教える側(得意な生徒)が入れ替わることで、「教える側」「教わる側」の両方を経験することができ、お互いへの「言葉の使い方」や「心の状況」も理解する事ができる。

「上司と部下」「事業者と依頼者」「経営者と社員」などの学校よりも複雑な人間関係がある社会にとって、とても重要な能力である。






【 4.社会へ繋がる特別授業 】


まず、押えておきたい2つのことがある。

1つ目は「生徒は皆同じではない」ということ。

生徒1人1人に個性や興味があり、そして向き不向きがある。

今の教育では、バランス良く勉強できる子が「良い生徒」である。

「5教科は不得意だけど、音楽だけは他の生徒以上に得意!」という生徒もいる。もしかしたら、音楽は現在の学年以上の能力が備わっているかもしれないが、それにはあまり注目されず、そういう生徒はバランスの悪さから「成績が悪い」というレッテルが貼られやすい。

しかも、学校の科目以外のことが得意な場合などは、評価すらされない。

例えば

「昆虫の名前は誰よりも知ってる」

「鉄道の名前や時刻表は誰よりも知ってる」とか。


学校教育の中にある科目の中に、得意なものがある生徒は、成績の良い生徒扱いされるが、科目にない能力がある場合は、評価の対象にすらならない。

現在の学校という場は「一般的な学力」の評価の場であり、「個人の能力」の評価の場ではないということだ。

今の時代は「自分にしかできない、新しいこと生み出す力」の方が、社会的意義が強い時代。

この時代に求められる能力は、一般学力以外の「個性」の部分である。

他の人が持っていない自分だからこそ生まれる「考え方やビジネスの仕方」。

それを「大切なもの」という認識をしっかり伝えて、その個性を活かしながら勉学に広げられれば、独創的な人間が生まれる。


そして、2つ目。

勉学よりももっと大切なことがあるということ。

それは「世に中には、多種多様な考えがあり、すべての考えには必ず背景があり、それを許容する姿勢」である。

「理解する」「受け入れる」ことはとても難しい。

「自分は理解しにくいけど、こういう人もいるんだ」という姿勢。


安易に相手を否定せず、どうしてそういう考えになったのかを考え、「許容する姿勢」を持つ必要性がある。

安易な否定は、人を傷つける。

否定ではなく「許容」するためには、色々な考え方や思考に触れる必要がある。

「自分以外の人の考え方」を知る事で、逆に「自分自身の考え方」が浮き彫りになり、「自分自身とはどんな人間か?」という自己分析にも繋がっていく。



そして考えられる授業の形「特別授業」。

生徒が教える側になり、自分の好きな事や知識を「授業テーマ」に掲げ、それに「興味のある生徒」だけ集まって行なう授業。

これは、学年問わず、人数問わず。

「アニメ」「鉄道」「バンド」「ファッション」「パソコン」「テクノロジー」などなど。もちろん一般教科など、なんでも良い。

自分が「ただ好き」という世界。

その好きなことを、自分以外の人に魅力を伝えるために授業をする。

「どうしたら上手く魅力を伝えられるか?」(話し方.見せ方.体験のさせ方)

これらは、「伝える勉強」(プレゼン)にもなり、社会に出てもとても有効な力となる。

何より、自分の好きな世界を、同じように共有できる仲間ができることが、大切なことでもある。


「学校の勉強は役に立たない」という話は良く聞く。

それが分かっているなら、社会で必要な能力から、逆算して授業に落とし込むことを、今まで以上に積極的にやっていく必要があると思う。







【 5.テクノロジーを教育に受け入れる 】

先程「記憶する教育」の重要性が無くなったと話したが、そうすると逆に「新しい学び」を取入れていく必要があるということになる。

だが、ここで問題になるのは「時間」である。

時代が変わっても、時間の量は同じである。

今までの教育の内容をそのままで、さらにプラスで「新しい学び」をさせることは、時間量的にかなり難しいだろう。

まずは、生徒達が「新しい学び」に使える時間を作ることが肝心である。

それと、「今までの教育と新しい教育の配分」も、かなり大事になってくる。


まずは「時間」をどう作るか?

それを解決するのが「テクノロジー」である。

今までの「記憶する教育」で学んでいたことの大半は、この「テクノロジー」を使うことで、簡略化できる。

計算が苦手な子は計算機を使い、

英語が苦手な子は、翻訳機を使えばいい。


ここで重要なポイントは、この「テクノロジー」を「人間の一部」としてちゃんと受け入れることできるかどうか?


こんなことをいうと「学力が落ちる」という人もいるだろう。

否定する前に、ちょっと考えて見てほしい。

例えば

テスト中に1人だけ電卓を使えば「ずるい」という感情になる。

では、眼鏡で同じように考えてほしい。

眼鏡をかけて授業を受ける。黒板が良く見え、より勉強がはかどり、テストで良い結果を出す。

これに関して「ずるい」と思う人はいるだろうか?

逆に、眼の視力検査をして、順位つけるとなった場合は、眼鏡をすることは「ずるい」対象になる。

テストなどで「競争原理」が生まれると、テクノロジーを使うことが「悪い」ことになる。


では「目的」を変えてみよう。

クラス全員が、計算問題を解くことがクリア条件になった場合。

計算が苦手な子が、電卓の使用を許された場合「ずるい」という感情になるだろうか?

そうはならないだろう。

逆にラッキーという感情になる。

数式の理解や数学の本質さえ、しっかり理解できれば、「計算する」などの電卓で補える行為は人それぞれで大丈夫だということ。

(「理解」ができていないと、電卓さえ活用できない )


教育に「競争原理」を入れないことで、苦手なことに「テクノロジー」使うことが「悪」にはならなくなる。

本来「テスト」は、人との比較するためのものではなく「自分の知識レベルを確認するもの」であるべきだ。


今後は、インターネットやAIなど、積極的に取り入れ、簡略化できる部分は簡略化することで、新しい学びを学ぶ「時間」をつくっていく。





【 6.部活は未来の教育システム 】



先程話した「生徒が生徒に教える授業」のスタイルは、突拍子もない発想に聞こえるかもしれないが、もう身近なところで、このシステムは活用されている。

それは「部活」である。

基本的には、先輩が後輩を指導して、教師は顧問という形。

学年関係なく一緒に練習し、基本的には能力主義。

1年でもレギュラーになれるし、3年生が補助に徹する事もある。

なぜこのようなことがおきても、3年生は納得出来るのか?

理由は簡単。

チーム内の競争はもちろん起こるが、目的はチーム内の競争ではなく、チームや学校が勝つ事が目的だから。

「テクノロジーを受け入れる」でも話した、「目的」を変える事により、年齢関係なく、能力を受け入れる仕組みが部活にはある。


基本的に「入りたい部活」は、自分で選べる。

自分の「得意」や「興味」の軸に、自分で選び入部する。

「自分の意志」が尊重される、とても良い仕組みだと思う。



しかし、部活システムにも、欠点はある。

基本的に入退部が自由に出来ないということ。

興味のあることは、変化するし、やってみないと、向き不向きは分からない。

「興味のあるもの」=「得意なもの」には、計らずともイコールにならないことが多いし、「環境」によってハマらない場合もある。(顧問が嫌いとか)

入部しても退部できるシステムは必要な気がする。

少しでも色々な経験ができる機会を増やし、その都度、自己分析し、自分の向き不向きを理解する。

「退部=失敗」ではなく、「不向きの理解」と捉え、その経験値や自己分析が「未来の自分らしい選択肢」を増やすことにもつながる。






【 7.一律学習にしないことで時間をつくる 】


テクノロジーによる簡略化によって生まれる時間。

それでも時間は足りない。

さらに、今までの教育の中の分別して、時間の捻出する必要がある。


やはり、外せないのは「基礎的な学力」。

一般社会に必要な知識は、大切である。

だが、専門的な職業を目指すものだけが学習すれば良さそうな「難しい授業」も多い。


そのような「難しい授業」は、得意な子や興味のある子はいいが、そうでない子は、まったくついていけない。

テストの為に無理矢理に覚え、テストが終わると記憶から消えていく..。

このような学習が、社会人になって必要なものとは考えにくい。


だから、まず一般社会で必要な「基礎教育」と、専門性の高い「高学教育」に分別。

まずは「基礎学習」をしっかり学ぶ。

「高学教育」は、みんなが平均的に学ぶ必要は無く、興味のある生徒だけが学べば良い。

今までの全員強制の一律学習ではなく、生徒自らが興味ある授業を選択できる「選択学習」という形が良いと思う。


選択学習で大切なことは「興味」である。

教師や親が、子供に「興味を持つように促す」ことは出来るが、「興味を持つ」こと自体は、干渉できない。

なので、せっかく芽生えた「興味」は、何よりも大切にしなければいけない。


個人個人で自分の学びを選択し、不得意な部分はテクノロジーで補いながら、得意なことや、興味があることは、「選択学習」でドンドン伸ばす。

不得意な分野に対し、時間を使いすぎることを無くすことで、「新しい学びを学ぶための時間」をつくることが可能になる。









【 8.新しい教育の軸は人間力 】


「基礎学習」は、これまでの教育をスリム化したもの。

「選択学習」は、得意な科目の学力を伸ばすもの。

「特別学習」は、多分野の知識を広め、深めるもの。


これらの学習に、プラスして必要な「新しい学び」とは何か?

簡単に言えば「学力」伸ばす授業ではなく、「人間力」を伸ばすの授業である。

社会や時代から、逆算した学び。

変化が激しい時代だからこそ、自ら「考察し分析して行動する力」が求められる。


具体的にどんな学びが考えられるか?

1つめは「自己理解力」。

自分は「どんな性格」で、「どんな向き不向き」があるか?

「興味」のあることは何か? 「嫌いなこと」は何か?など。


生きていく上で、常に共に歩む存在であるのは「自分自身」である。

自分を理解した上で、自分の行動を分析する。

「何が許せて、何が許せないか?」

「なぜ、今この感情が芽生えるのか?」 など。

理解をすることで、「自分への対処」先手が打てたりする。

学校や生活で、色々なことを経験し「自分がどんな反応をするのか?」

それを分析し、自己理解を深める学び。

自分を深く理解することは、同時に、他人を理解することにも繋がる。



2つめは、「応用力」「分析力」「プレゼン力」。

これからは、先の読めない時代。

まったく想像もしないことが、ドンドン起こりえる時代。

今までの「当たり前」を、何の考えもなく行なっている人ほど、迷走しやすい時代。

こんな時代だからこそ、

問題やミッションに対し、物事を本質的に捉え、「必要性」「合理性」「目的」を含めた上で、考える力が必要になる。

アイディアは、アイディアだけでは価値は無い。

アイディアを形にし、共感を生むために情報を広め、「伝える」というプレゼン力も必要な力になる。






3つめは、「歴史哲学」「心理学」。

歴史は、年表や出来事を覚えるのではなく、歴史の人物に注目する学習である。

歴史の大きな流れの中にある転換期や事件などに存在する多くの人物たち。

1つの事件にも、関わる人物たちそれぞれに「考え」「思想」があり、それぞれが「自分の正義」のために行動している事が多い。

そういう人物たちの「哲学」や「心理」などを読み解き、現代日常には無い「感情」や「気持ちの変化」を学ぶ。



もう1つは「心理学」。

「心理学」は、心理状態から生まれる「人の行動」などを理解する学び。


今後の教育は「競争原理」が減るだろう。

人と争うことが減るので、表面的なメンタルの弱さは否めない。

「怒鳴るひと」「妬む人」などから、浴びせられる「心ない言葉」。

こういった言葉は「人間力」が低い人が発する場合が多い。相手を脅威に感じたり、自分感情がコントロール出来ない人だったり。

心理学は、こういった人からの「心ない言葉」から、自分の心を自己防衛するための手段にもなりえる。

相手の心理を理解することで、自分を「惑わせる要因」を排除する。

だからこそ「心理学」が必要である。




4つめは「経済学」「テクノロジー学」「職人技術力」。

現代の経済やテクノロジーの発展は、目まぐるしい程のスピードで変化している。

経済やテクノロジーの「専門的な知識」を詰め込むということではなく、「仕組み全体」を理解する学び。

どのような考えでこの技術が生まれたのか?

どのような仕組みで、この経済は回っているのか?

過去の経済史の流れから、どんな未来が予測できるか? などを学ぶ。


それと「職人技術力」。

テクノロジーとは正反対のアナログな技術。

実際の人間が生きていく上で必要な技術を体験する学習。

シニア職人さんを専門家として招いたりして、リアルな経験を学ぶ。

習得という目的もあるが、体験することで、自分の「向き不向き」や「興味の有無」を確認することができる。






【 9.大きく変わる教師の役目 】


「教師」は、別の呼び方で「先生」とも呼ばれる。

「先生」というと一般的にどんなイメージだろうか?

「医者」「弁護士」「議員」さんなどに用いられ、「立派な人」「知識が多い人」「人間性に優れている人」というイメージである。

「立派な人=先生=教師」

もちろん「立派な先生」も多いと思うが、これにより、世間からのイメージのハードルが勝手に上がってしまっている気がする。


実際、若い先生なら20代の人も多い。

こんな若い先生に、多感な生徒30〜40名など、全てを面倒見れるわけがない。

今の時代、インターネットや本などで、先生よりも知識の多い子供達いることが当たり前で、考え方も多様な時代。

先生が知らない世界に興味を持つ子もたくさんいる。

そんな子供たちに「教える」こと自体が難しいと思う。

「先生なのに知らないの??」

このように知ってる前提で質問され、知らなかったときには、先生という評価がドンドン下がっていく。

基本的には、先生の評価は「減点方式」なのだ。



先生のイメージは「立派な人」「知識が多い人」「人間性に優れている人」と話したが、漢字だけを見ると「先に生まれた人」という意味でもである。

だから、先生(教師)の「定義」を変えてみてはどうだろうか?

上から目線の「教える」ではなく、先に生まれた者としての「導き役」という捉え方。

今までの「生徒に教える者」ではなく、「生徒の学びを導く者」という形。

これが提案したい「新しい先生の定義」である。


「指導者」という言葉もあるが、「行く先を指し示し導く」というようなイメージではなく、人生の先輩ぐらいのイメージ。

こんな言葉はないが「支導者」という漢字がしっくりくる。

「学びを導き支える者」



こうなると授業の仕方そのものも変わってくる。

支導者の大きな仕事は「問題提起」。

「学習」と「日常」を結びつけるような「問題」を考え提起し、生徒たちが、皆で協力し、解決を目指す。

そこには、「原因の追求」や「問題の理解」「解決手段の選択」など、本質的な問題の捉え方をし、正解へと向かっていく。

解決手段の中には、「国語」「数学」「理科」「社会」などの知識が応用され、学習と現実社会との円滑な「学力利用の仕方」も学ぶ。

「1つの問題に、1つの答え」の安直な授業ではなく、「1つの問題に、十人十色の答え」のような、正解は1つでないことも学ぶ。

多様な考え方を尊重し導く者。それが、新しい先生の役目「支導者」である。


そして、支導者と合わせて必要な役割の者。

それは「専門家」である。

専門家とは、各分野の詳しい人。一定期間、各分野で活躍した者が、他者の推薦でなれる職業。(仮)(シニア専門家でもよい)

授業の中で、支導者の出す「問題」。

原因を突きつめたり、手段を模索していく中で、支導者が知り得ない知識が「判断基準」として必要になった場合、この専門家が登場する。

登場するといっても、各学校にいる必要はない。

聞きたいときに、リモートで繋ぎ、意見や助言を聞く。

その助言や意見も元に、考えを構築し、自分たちの答えを導き出していく。



テストに関して。

先にも話したが「競争原理」生むテストは行なわない。

その代わり、多くの「個人面談」の機会を設ける。

「自己分析について」や「伸ばしていきたい学び」「不得意な部分の補い方」や「将来の夢へのプロセスの組立て方」「興味と得意不得意の結び付け方」や「人間関係」など。

多くを話し、生徒と寄り添う面談。

テストを行なうことよりも、生徒1人1人を見つめ、生徒1人1人をそれぞれの未来へ導く事が、「新しい先生の役目」である。


支導者になるには「心理学」「哲学」「コミュニケーション学」などを学ぶ必要があり、一定の社会経験値が必要になる。

新卒からへの先生になる今のやり方は撤廃し、社会経験10年以上(仮)が先生(支導者)になる条件ぐらいが良いと思う。

学習で覚えた知識は、説得力が弱い。

社会に出て、揉まれながら悩み、自分なりの答えを見つけていく経験をした者でしか生まれない説得力がある。

支導者は、知識が多い人間ではなく、心や頭の経験値を積んだ者の方が、良い支導者になれる。


このように「先生」という職業を「生徒に寄り添う者」と「知識を授ける者」を分業することで、「今の先生の負担」を軽減させることに繋がる。








【 10.更に未来の教育を妄想する 】

もっと先の教育。もしかしたらこんな形があるかも を想像してみる。


とりあえず好きな時間に学校に行く。

クラスという枠もなく、時間割という枠もなく、しかも学年という枠もない。

学校の各場所に、各科目の教室があり、自由な時間に、その場所に行き、自由に自分の勉強ができる。

(学校というより、図書館のスタイルの方が、この学校に近いかもしれない)

勉強する範囲も自分で決められ、分からないことは「支導者」「専門家」「先輩」「得意な生徒」などに自由に質問でき、自分のスピードで勉強できるので、今までの「不理解」は生まれなくなる。


学年分けがなくなることで「教わる側」と「教える側」も両方経験する。

人に教えることは、学びをより深く自分に浸透させる。

定期テストという概念はなくなり、自分の現在の知識レベルを測りたくなるくらい自信ががついてきたら、自己申告でテストが受けられ、自分の知識度を測ることができる。


生徒自ら思考し、自ら興味を軸に、自ら学ぶ。(本やインターネットやNHKなど)

学ぶことで「疑問」を生み出すことができれば、そこからまた「新しい学び」が始まる。

好奇心を積極的に持ち、疑問に思った事はすぐ調べ、過去に調べたことと、新しく調べた事が、結びついて、更に深く納得をする。

ということが、学びの本質であり、面白さである。


支導者は、興味を促す仕組みづくりや、個人面談などが中心。

生徒の興味や学びに「答え」を与えることはせず、寄り添いながら導く。

生徒が導いた答えに常に共感しながら、「他の選択肢」の可能性も、考えさせるような導き方もしていく。


学校の運営にも、生徒が関わることも面白いと思う。

学校に関わる「規則」「人間関係」「運営」などの色々な問題の「問題定義」から「解決方法の議論」「解決実行」など、生徒達主体で進めていく。

「支導者」は、生徒たちから出た考え方を尊重し、足りない部分を補う選択肢を与えてあげる。

そして、決定した問題解決の方法を、できる限りサポートしながら、学校そのものも運営していく。





【 11.最後に 】

今まで話した「教育の形」は、今の教育の形からは、かけ離れている部分も多いと思う。

実際の学校関係者は「話にならない」と言うだろう。

だが、実際「詰め込み教育」の限界はきている。

今の時代、世界を驚かす新しいイノベーションは、日本から生まれる事はまず少ない。

そういった常識の概念を外せる「考え方」を育てることが、今の時代、必要なことだと思う。


今の教育を、一気に180度変える事はできないだろう。

だが、少しずつなら変えていける部分はあるはずだ。

変えていくときに必要なのは「目指すべき方向性」だ。

今変えることができる1つのことが、「目指すべき方向性」に向かっていることさえ、分かっていれば、どんな些細な変化でも希望が持てるはずだ。


200年前の江戸から見たら、現代教育は、すごく発達した「未来の教育」に見えると思う。

だから、今考える「出来ないと思っている教育の形」は、いつかの未来には、当たり前になっているかもしれない。

「目指すべき方向性」をイメージし、共感を持ってくれる同士の輪を広め、「変化」を恐れない勇気を持つことが、新しい教育へ進むための1歩であると私は思う。


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