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赤堤にて

ひとことで世田谷と言ってもいろいろある。

成城や駒沢と言ったあきらかにハイソな地域もあれば、千歳船橋や上町などの下町情緒あふれる町もある。

そんなバラエティ豊かな世田谷区の中でも、ほぼ杉並区と同じ匂いが漂うエリアが赤堤だ。

全国レベルでの知名度のなさで知られる赤堤は、それでもれっきとした世田谷区内にある。京王線下高井戸駅から歩いて10分というロケーションだけに北部方面より杉並の風が流れてくるのもやむなし。

町内を走る世田谷線は『松原駅』を名乗ってはいるものの、駅の位置は松原と赤堤の町境であり、そのことからも赤堤の“押しの弱さ”をうかがいしることができるだろう。

特徴は、とにかく静かな街である、ということ。商店街はかつての賑わいをすっかり失い、シャッターを降ろして久しいかつての店舗が軒を連ねている。過去の赤堤商店街については坪内祐三さんの著書に詳しく書かれている。

現在の赤堤は駅前に『オオゼキ』という地域に根付いたスーパーマーケットの本店がある。まいばすけっとがある。セブンイレブンがある。以上、という潔い街だ。

少し前までは、それでも「うおのそら」という気鋭の居酒屋や「ジュネ」という昔ながらの洋食屋が頑張っていた。だがその二つももうない。線路沿いに店を構える町中華の「光竜」にはぜひ踏ん張ってもらいたい。

赤堤は近年ますますひっそり閑、なのである。


収入が明らかに下がることがわかった時に、それを阻止するべく奮起するのは30代半ばぐらいまでだろう。

僕が閑職に回されたのは43歳の秋で、だから最初にとったアクションは奮起ではなく生活費を抑えることであった。

支出で最も大きなインパクトを占めるのは家賃だ。当時は杉並の3LDKのマンションに住んでいた。敷地内の機械式駐車場も借りていた。削るならまずここである。

僕は奥さんに相当収入が低くなることを覚悟してほしいと伝え、住む家を探そうと提案した。家賃にして5万円前後落としたかった。

奥さんは部屋が狭くなったり古くなることは構わないが、せっかくの転居の機会だから犬が飼える部屋を借りたい、と言った。

住むエリアを大きく変えたくなかった僕は、さすがにこのあたりで家賃を大幅に下げて、なおかつペット可の物件を見つけるのは至難の業だ、と思っていた。

不動産屋では初回訪問時に記入するシートに「転居の理由」を書く欄がある。別に真実をありのままに伝える必要もないのだが、僕はそこにあえて「収入が減るため」と記入した。

サラリーマンは会社から給与を下げられるとこういうことになる、ということを誰かに知ってほしかった。また収入減を隠したり嘘をついたりすることはかえって恥ずかしいことだとも思った。

もちろん持ち家ではないからローンもないのでまだ幸せなのかもしれない。ストック・オプションがとんでもない額に化けた時に上司から家を買えと勧められたが、乗らなくてよかったと本気で思った。

そんな、人生の中で割とやりきれない思いでの新居探しだったが、捨てる神あれば拾う神あり。運にも縁にも恵まれて、築年数こそ高いが室内をフルリノベーションした小さな部屋が見つかった。

しかもペット可であり、家の目の前に月極駐車場の空きも見つかった。家賃は4.5万円のダウンだ。1階は整形外科で、隣はファッション小物のアトリエ。住民はひとつ上の階に夫婦が一組住んでいるだけという。

これ以上ない好条件に即決した。そうして僕は、18歳で上京して以来ずっと憧れていた世田谷区のアドレスを手にいれたのであった。田舎者にとってこれ以上のステイタスはないといえよう。


引っ越しは年の瀬に行った。会社なんかもうどうでもいいと思っていたので勝手に3日間休んで転居に伴う作業をした。とにかく新しい環境で新年を迎えたかったのだ。

転居して最初にやったことは役所の手続きのほかに、クルマのナンバープレートを「練馬」から「品川」に変えたことだった。冬の寒い日、品川の陸運局までいそいそと出かけ、自分の手でナンバーを交換した。

クルマ好きの友人は「これで間違いなく1馬力は上がるね」と喜んでくれた。

年が明け、2月。上野にクルマで出かけた際に大雪に見舞われ、ふだんなら1時間程度の距離を5時間かけて帰ってきた。ノーマルタイヤであり途中なんども「南無三」と唱える場面があったが、なんとか無事に帰宅できたのも品川ナンバーによる馬力アップのおかげだといまだに信じている。

6月には念願の子犬も迎えた。偶然にも隣のアトリエの主が飼っている犬種と同じであり、いろいろと接点も増えていくことになった。

7月に入るといよいよ所属している組織に嫌気がさしてきて、転職活動をはじめた。もとより家賃をはじめとするランニングコストは抑えていたので(犬に関する金銭面は全て奥さんが持つ取り決めだった)さらなる賃金ダウンにも耐えられる。転職するならいまだ、と思った。

45歳、上場企業の元制作本部長。下がったとはいえ大企業の平均年収は確保できている人間を受け入れてくれる会社はそう簡単には見つからない。まず扱いに困るだろう。

来る日も来る日も書類不採用のメールが届く。中高年のほとんどの転職者が思うことだが、会ってくれさえすれば、と悔しい気持ちで胸がいっぱいになる。しかし企業の扉は頑なに閉められていた。

そんなとき、マッチ箱のような2両編成の東急世田谷線にはずいぶんと癒やされたものである。車内で見かけた世田谷線の従業員募集に応募しようと思ったこともあった。


暮らしてみると赤堤という町は実に住みやすいことがわかった。冒頭にも書いたがとにかく静かで、浮ついたところが一切ない。なさすぎるような気もしなくないが。

それでいて(それでいて?)どこへ行くにもアクセスが便利なのだ。首都高の入口も近く、中央道にも東名にもすぐ行ける。新宿からも渋谷からも至近であり、下北沢や三軒茶屋といった歓楽街も遠くない。

驚いたのは地域在住の、あるいは過去住んでいた有名人の多いことである。犬の散歩で毎朝顔をあわせるうちに仲良くなったお寺の奥さんや彫刻家の先生など赤堤の古参住民たちから教えてもらったのだが、それはもうなかなかのラインナップであった。

石川さゆりさん、伊丹十三さん(当然、宮本信子さんもですね)、堤真一さん、長門裕之夫妻まで。また養命酒の社長やマクドナルドの社長(ということは藤田田さん?)も居を構えていたらしい。甲斐バンドの甲斐よしひろさんとは犬の散歩で何度もご挨拶した。

実際に住んでいる間には春風亭昇太さんが赤堤通り沿いに瀟洒な一軒家を建てた。昇太さんは一度、駅前の居酒屋でお見かけしたこともあった。

そんな中、僕はトップシークレットともいえる未確認居住情報を入手した。

僕の住まいから西へ500メートルほどの角に、それはそれは大きなお屋敷があったのだが、それがあっという間に取り壊されて、これまたあっという間に要塞のような洋館が建ったのである。

ある朝、犬の散歩をしていると例のお寺の奥さんが近づいてきて「ねえ、あそこの邸宅って誰の家か知ってる?」と聞いてくる。

もちろん知らないと答えると「あそこはね、ここだけの話、◉&◉の◉のお家なのよ」「ええっ!?あの相方がアレでナニした二人組の?」「そう。だけどね、完成寸前で植栽が気に入らないってぜんぶやり直してんの」「そうなんすね」

この話が事実かどうかはわからない。なぜならその半年後には僕は江東区に引っ越すことになってしまったからだ。少なくとも僕が住んでいる間には◉&◉の◉はその屋敷には移り住んでこなかった。いまはどうなっているんだろう。


かつては坪内祐三さんのご実家などもあった赤堤。僕はこの町でいろいろな人とつながり、いろいろなものをいただいた。それまで住んできた街では得られなかった感覚だ。残念ながらお返しはまだできていない。

いつか赤堤に戻ったら、ご恩返しも兼ねて一曲ぐらい踊ってみようかと思う。六所神社の盆踊り大会で。

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