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十条にて

東京にある区、といわれてパッと思い浮かぶのは千代田区、港区、渋谷区、新宿区あたりだろうか。世田谷区、品川区、目黒区、中央区が出てくる人はなかなかの通。好事家なら足立区、葛飾区、墨田区も顔を覗かせるかもしれない。

北区はどうだろう。

なかなか出てこないのではないか、北区は。

北区は日本に12個もある。北は札幌、南は熊本まで存在する。別に東京になくたっていいじゃないか、と思う人もいるはず。

しかしあるんだから仕方がない。1947年からあるんだし。

そして東京の北区にはとりあえず全国区の知名度を誇るエリアもある。

北区にあるくせに北区を差し置いて有名なスポットがある。

赤羽だ。

赤羽にはOK横丁という飲み屋街がある。立石の飲み屋街が消滅したいま、せんべろの聖地の名を恣にしている。しかも壇蜜の旦那の漫画家が住んでいるから壇蜜もうろうろしている可能性も高い。みちょぱの実家も赤羽だ。林家ペー、パー子は実際に見たことがある。

こんなに持ち札が豊富な赤羽に対して、そのたったひと駅南に下っただけの十条にはこれといって取り上げるべきものがない。

かつては駅前に煙がもうもうと立ち込める焼肉屋や回転並みの値段なのにカウンターで楽しめる寿司屋、三忠食堂やランチハウスといった安くて美味い定食屋がひしめいていたが、みんなタワーマンションの下に消えてしまった。

十条よ。

お前はいったいどこに向かっているのだ。


髪の長い彼女と一緒に暮らしていたマンションは環七沿いに建っていた。歳が2つ上でイラストレーターとして生計を立てていた彼女が敷金も礼金も前家賃も手数料も払ってくれた。

僕は六本木のコピーブティックに勤める駆け出しコピーライターで、額面も手取りも11万円であった。それがどういうことを意味するかわからないぐらい世間知らずであった。

十条駅から徒歩15分、2LDKの広い部屋に僕が帰るのは月に3日から4日ほど。ほとんど事務所に泊まり込み、という傭兵のような生活は果たして同棲といっていいのだろうか。

髪の長い彼女はそんな僕を不憫に思ってか、家賃の折半を3対7にしてくれた。当時の僕の持ち物といったら黄色い自転車とラジオ、テレキャスターだけだった。

たまに休日が一緒になると彼女と外食をした。何食べる?となったとき意見が割れたことは一度もなかった。当時の十条は駅までいけばどんな料理だって食べることができた。

三忠食堂の焼肉定食、ランチハウスのハンバーグカツ、得得のカレーうどん、TOMBOYのスパチー、味の大番のからし焼き、食道園の焼肉、かわなみ寿司の握り…

どこで、何を食べても美味しくてリーズナブルだった。その後、いろいろな街を転々としたが、食については十条で暮らした3年間が最も充実していたと思う。


珍しく家で寝ていた日曜日の朝。鳴り響く電話のベルをひたすら無視していたのだがしびれを切らした彼女が受話器を取ったと思いきや、けたたましい叫び声を上げた。

実家から両親と兄がやってくるという。しかもいますぐに。すでに上京しており、最寄りの駅から電話してきたのだそうだ。もちろん同棲していることは内緒である。

彼女はあわてて男ものの衣類や化粧品をまとめて洗濯機の中に突っ込んだ。幸い僕は荷物がほぼなかった。テレキャスターは彼女が弾けばいい。そして僕にゲラウトと命じた。

僕はやむなく初冬の十条の街をほっつき歩くことにした。と、いっても日曜の朝である。商店はまだどこもあいていない。パチンコを打つにも喫茶店にいくにも金がない。

仕方がないので公園でひたすらタバコを吸って時間を潰すしかなかった。時間が余って仕方がなかったので映画『ガープの世界』を冒頭のシーンから脳内再生した。

3時間ぐらい経っただろうか。おそらく彼女の両親と兄弟は部屋に上がっていることだろう。小銭を探って電話ボックスに入ってみた。15回コールしても出ない。

どうなってんだ、と思った瞬間に、重大なミスに気づいた。あわてて出てきたばっかりに部屋の鍵を置いてきてしまったのだ。所持金は300円。マクドナルドがハンバーガーを59円で提供してくれるのは10年後のことだ。

そして僕は途方に暮れた。


彼女が組んだバンドで僕はドラムを叩いていた。いま考えるとあんな生活をしていたのによくバンドの練習などできたものだ。人生には忙しい、が言い訳にならない時期がある。

バンドは都内のいろんなライブハウスで対バンを組みまくった。ロフト、チョコレートシティ、シェルター、アダム。原宿ルイードでは上京したてのシャ乱Qが対バン相手だった。

ある時、横浜でのアマチュアバンドフェスに出てくれないか、とオファーをもらった。ギャラはないが打ち上げはタダという。僕らは喜んで出演することにした。

出番は大トリのふたつ前。会場はかなりヒートアップしていたこともあり、過去最高のパフォーマンスとなった。そして打ち上げ。彼女は仕事がある、と先に帰った。

僕は参加バンドのメンバーたちと次々に乾杯と返杯を繰り返した。途中で意識を失った。京浜東北線大宮駅のホームで寝ていたところを駅員に起こされて駅舎から追い出された。

困った僕は家に電話をしたが何回コールしても出ない。おかしいな、仕事してるはずなんだがな。所持金は5000円。タクシーで十条までは帰れないだろうが行けるとこまで行くか。

運転手さんに5000円しかないので都内に向かっていけるところまでお願いします、というと蕨ぐらいまでしかいけないよ、と言われた。構いません、と乗り込んだ。

走り出すと僕のスネアを見た運転手さんは自分の息子も鼓笛隊だ、と話しかけてきた。僕はここまでの顛末を話した。すると運転手さんは5000円で十条近くまで行ってやるという。

環七で降ろしてもらい、走ってマンションに帰ると彼女はいない。留守番電話には大量のメッセージ。どうやら今度は彼女が鍵を持っていなかったようだ。

それから僕は明け方まで自転車で彼女が立ち回りそうな店や公園などを探して回った。彼女は対バンで一緒になったことのあるボーカルの男の家に泊まっていた。

僕と彼女は同棲を解消し、それぞれ別の街で新しい暮らしをはじめることにした。その頃にはもうコピーライターを辞めて池袋の居酒屋で働いていたので有楽町線の千川にワンルームマンションを借りた。

敷金も礼金も前家賃も手数料も彼女が用意してくれた。


いま思い出しても食の思い出の色が濃い街、それが十条である。せんだって数年ぶりに足を伸ばしてみたが、なにもかも変わっていた。

かつての面影を残しているのは斎藤酒場と篠原演芸場だけだった。しかし斎藤酒場は改装中であった。どうなるのだろうか、心配である。

テレビでも幾度となく取り上げられる十条銀座商店街も昔ながらの店舗はごくわずか。どこにでもある買取専門店やリサイクルショップ、ケータイショップ、マッサージチェーンばかりが目立つ。

そこでしか味わえない独自の美味しさや、ここにしかない個性と袂を分かつことになった十条。お前はどこへ行こうとしているんだ。

帝京高生と朝鮮高生が一触即発、血で血を洗う戦いを繰り広げていたあの日が懐かしいと思うのは果たして自分勝手な爺のノスタルジーだろうか。

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