鶯谷駅にて
昭和61年の4月から鶯谷にあるコピー学校に通っていた。講師はなかなか豪華で元電通の山川浩二さん(糸井重里さんを発掘した人)や鈴木清順監督(ツィゴイネルワイゼン)、現役のコピーライターとしては竹内基臣さんが華を添えていた。
岩崎俊一さんも講師陣に名前があがっていたが、僕が入学する前年に生徒の一人を連れて辞めてしまっていた。本当なら俺がドナドナされるはずだったのに、とワイシャツの裾を噛みながら悔やんだが周囲からは馬鹿か?と罵られるだけだった。
同じ学内には演劇ミュージカル科や映画制作科、放送科、マスコミ科などがあった。どのクラスも一握りのやる気ある地方出身者と、大多数のモラトリアム都民&首都圏近郊民で構成されていた。
学校は国電からも良く見えるビルの中にあった。あまりに巨大で真四角なのではじめて見たときゴールドライタンみたいだな、と思った。のちにビルは解体され、ゴールドクレストが巨大なマンションを建てた。いずれにしても巨大なゴールドである。
学校のあるビルの脇にはその当時ですでにレトロな理容店があった。バンカラを気取ったとっぽい生徒が丸石サイクルの『アトラス』というヴィンテージ自転車で通学していて、理容店の脇に駐輪していた。それがとても絵になっていた。
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鶯谷駅の南口を出て左に向かう。階段を降りるとそこはこれでもかといわんばかりにイカガワシイ店をごった煮にしたような、爛れた空気が漂う街だった。僕は毎朝気持ちの奥底をどんよりさせながらコピー学校に向かう線路沿いの細道を歩いたものだ。
『スター東京』『鶯谷ワールド』といったキャバレーに混じって建ち並ぶラブホテル群。酒と泪と男と女。和田弘とマヒナスターズはいったい何度この街で演奏したのだろうか。街全体がじっとりと湿っている。きっと捨てられた女の情念のせいだ。男の方かも知れないが。
駅前のタクシー乗り場ではどことなくそわそわした紳士を見つけることができる。彼らは新坂をするすると降りてくる黒塗りのハイエースに乗り込み吉原に向かうソープ客である。ある意味、ソープ遊びで最も胸踊る瞬間の男の表情を観察するにはうってつけのスポットだ。
いまなら好ましく思うこの街の雰囲気も上京したての地方出身者、つまり田舎者にはその価値は理解しかねるものであった。鶯谷を23区のリファレンスタウンにするにはいささか時期尚早だったと思う。
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あたたかい雨が静かに降るある日の朝、線路沿いの細道を同じ学校に通う髪の長い女が傘も差さずに歩いていた。僕は傘を彼女にかざそうかどうしようか迷った。迷っているうちに学校の前の横断歩道までたどり着いた。
マスコミ科所属の彼女は目鼻立ちがクッキリしたエキゾチックな美人で「かすみさん」と呼ばれていた。アニメのヒロインのような名前も相まって仲間うちでも評判だった。もちろん僕も淡い想いを寄せていた。
かすみさんに話しかけるならいましかない。どうぞと傘をかざしてあげればいいじゃないか。
と、もじもじしているうちに信号が青に変わった。かすみさんはそぼ降る雨の中、長い髪を揺らせながら小走りに横断歩道をわたっていった。なんて美しい女なんだ、と思った。
そのことを教室で友人に話すと、馬鹿だなもったいない、千載一遇のチャンスを逃したなあ、などと囃し立てられた。しかし僕は自分のような者が彼女に声をかける資格はないと思っていた。訛りも抜けていなかった。
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コピー学校にはまじめに通っていた。他にすることがなかったからだ。おかげで鶯谷の飲み屋街にめっぽう詳しくなったか、というとそうでもない。当時はいわゆる普通の飲み屋で酒を飲むのには勇気がいった。
せいぜい上野駅前の丸井の最上階にあるレストランで安いサワーを飲んだり、アメ横ビルに入っていたお好み焼き屋で安いサワーを飲んだりするのが関の山。『大統領』デビューするのはもっと後の話である。
全体的にどんよりした湿気に包まれた街、それが僕にとっての鶯谷だ。もうずいぶん足を向けていないが、いまはどうなっているのだろう。
妙な資本に入ってほしくないし、再開発という名の破壊は避けてほしいというのは身勝手な願いだろうか。
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ちなみに3年後のある土曜の深夜。TBSの『いかすバンド天国』で見覚えのある髪の長い美女が歌っていた。かすみさんだった。かすみさんをボーカルに据えたバンドは完奏することなくワイプの藻屑となり消えていった。
かすみさんは元気だろうか。
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