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『ハミング 素肌おもい』の本体がどこにも売っていない件について

わが家の洗濯における柔軟剤はここ数年ずっと『ハミング 素肌おもい』であった。

しかし今年の春、花王一強の勢力図を大きく塗り替んとする新興国があらわれた。

ヤシノミの柔軟剤である。

何を隠そうわが家の食器洗い洗剤は十年以上にわたってヤシノミ一択だ。なぜだかはわからない。ある日家人が買ってきて以来、それ以外の食器用洗剤をつかったことがない。

家人は仕事柄、職場では業務用の食器洗剤を常用している。その結果、あかぎれやひび割れが酷く、手指はガサガサになった。家での食器洗いには少しでも天然の、肌に影響の少ない洗剤を使いたいのかもしれない。

ヤシノミの洗剤はどこにでも売っているわけではない。簡単には手に入らないのだ。

コンビニはおろか、大手スーパーでもめったに目にしない。ドラッグストアでも置いている店舗は限られる。わたしはいつもホームセンターの隅の方にひっそりと置かれているヤシノミ洗剤超大型詰替え用を購入するのだ。

まれに切らしてしまい、致し方なくコンビニでテレビコマーシャルでよく目にする銘柄を買ってくるのだが、わたし自身あのケミカルな臭いをどうにも受け付けない体になってしまった。

ここまで読んで、ははーん、さてはサラヤ株式会社(ヤシノミ洗剤の製造販売元)からいくばくかのキックバックをもらってるなこいつは、と思われた方もいらっしゃるかもしれません。が、残念ながらそのような取引は一切ない。

話を戻すと、それぐらい「ヤシノミ」ブランドはわが家の食器洗い分野に浸透しているのである。

そんなわけだから偶然ホームセンターでヤシノミの洗濯用柔軟剤を見つけたときは「これや!」と声が出てしまった。


『ハミング 素肌おもい』から主役の座を奪った『ヤシノミ柔軟剤』はわたしたちの期待に見事に応えてくれた。

ふんわりやわらかな肌触り。しかも無香料。わが家の要望を全て完璧にかなえてくれている。

偶然だったが必然かも知れない、そして突然ではあるが当然とまで思えるヤシノミ柔軟剤との出会いから9ヶ月。それは唐突に訪れた。

きれてしまったのである。

使い切ってしまったのである。

もちろんそんなことのないように予め詰替え用を予備に購入しておいたのだがついうっかり、本当についうっかり詰め替え終えたのちの補充を失念してしまった。

しかも日曜の夜に、だ。

さあこうなると俄然ピンチである。さきほども書いたようにヤシノミブランドはそんじょそこらで手にはいるシロモノではない。いまの住まいからではクルマで約15分の大型ホームセンターまでいかねばならない。

そして日曜の夜にわたしがシラフなわけはない。もしそうだとしたら重篤な病にかかっているか新興宗教でもはじめたかのどちらかだ。ゆえにクルマには乗れない。

さらにふだんでも平日ホームセンターにクルマで出かけるなんて難しいのに、いまは師走である。今年はなぜか誰の師匠でもないのにヤバイぐらい忙しい。それはとてもありがたいことではあるが、明日からはじまる一週間でヤシノミ柔軟剤を買いに行くことは不可能だ。

困った。

困ったわたしは決めた。

「よし、ヤシノミは諦めよう」

そして隣のマンションの1階にある文化堂に向かった。ヤシノミは諦めて、それまでお世話になっていた『ハミング 素肌おもい』に謝ろう、土下座して悪かった、俺が悪かったから戻ってきてくれと泣きながら懇願しよう。

そう決めたのだった。

しかし悲しいかな、文化堂にはヤシノミはもちろんハミングすらなかった。置いてあったのはなんだかよくわからない12種類の香りブレンドみたいな「いらんことすな」とツッコミたくなる柔軟剤だけだ。

わたしは意気消沈し、のちに決意を新たにした。

「よし、明日、出社したら会社の近くのココカラファインに行こう。あそこならあるはずだ」と意を決したのだ。

ミヤシタパーク対面にあるココカラファインは店舗の規模は小ぶりだがなかなかの充実ぶりで、いつもお世話になっている。ココカラファインアプリをダウンロードして特典をもらったり割り引いてもらったのもこの店舗だ。

もちろんアプリDLをナビゲートしてくれた薬剤師の女性がキュートであったことは言うまでもない。そうでなければそんなアプリDLするもんか。

それはいいとしてわたしは翌朝、11時の開店と同時に勢い込んでココカラファインに突入した。

あった。『ハミング 素肌おもい』はあった。
あの懐かしい淡いブルーのパッケージがこちらを見ている。
悪かった、本当に悪かった。浮気をしてごめん。
そう思いながら近づくとそれはなんと、詰替え用の大型パックだった。なぜか本体はない。どれだけ探しても本体が見当たらないのである。

(なぜだ…なぜ本体がない)

わたしの中では通常サイズのハミングで当座をしのいだのち、しれっとヤシノミにすりかえてやろうという野望がうごめいていたのだ。ゆえにゆうに本体3回分はあろうサイズの詰替え用を買って帰るわけにはいかない。

しかも詰替え用から直接使うというような荒っぽい暮らしは上京当時だけでもう結構である。

わたしは仕方なく職場に戻った。そして冷静に会社から自宅までの間のドラッグストアならびにホームセンター的な施設を思い返してみた。

ない。

まったくないのである。

わたしは今日が月曜でよかった、と思った。まださほど洗濯物が溜まっていない。一日ぐらいは猶予がある。助かった、とも思った。


翌日の火曜日は14時から初台で打ち合わせがあった。

わたしはこの千載一遇のチャンスを見逃すほどうつけ者ではない。あらかじめクライアントの入居する高層ビルの地下に割と床面積の広いドラッグストア『トモズ』があることを確かめていた。

何度も通ったことのあるビルだ。勝手知ったるトモズでもある。あそこならあるだろう、確実に。

わたしは打ち合わせの資料を小脇に抱えてトモズ店内に乗り込んでいった。

すると、またしてもハミングは詰替え用しか置いていない。

なぜだ。本体はなぜ売っていないんだ。

わたしは店員にどういうわけかを聞こうと思ったが生憎打ち合わせまであと10分と迫っており、質問した店員さんがいい人だった場合に「少々お待ちください」と言いながらバックヤードに品物を探しにいったり、他店舗に在庫の問い合わせをしたりすることによって遅刻を招いてしまうという最悪の事態を避けるべく、黙って店を後にした。

おかしい。なにかがおかしい。

クライアントとの打ち合わせの中でもわたしの脳内では初台から新宿経由で渋谷に戻るまでのドラッグストアを検索していた。わたしの記憶は西口の甲州街道交差点あたりにダイコクドラッグがある、という結果を出した。

わたしはいてもたってもいられなくなり、打ち合わせを終えると早々に京王新線で新宿に戻り、急いで地上に出た。

「あった…!」

ダイコクドラッグがあった。そして目と鼻の先にはドラッグストアの雄、マツモトキヨシもいるではないか。

「これで大丈夫だ」

わたしは安堵した。安堵のあまりその場にへたり込みそうになった。まったく都会には便利なものがある。ふだんならギラギラと目にうるさいドラッグストアのファザードたちが今日ほど心強く思えるとは。

智恵子に教えてやりたい。確かに東京には空はないかもしれない。しかしドラッグストアがあるんだ、と。特に新宿西口界隈にはわっさとある。ふは、ふははははは、うわーっはっははは!

と、笑っていたら目の前を通り過ぎる女子高生が頭の上で指をクルクル回していた。いや、狂ってないよ。

とにかく深呼吸して気持ちを落ち着けたわたしはダイコクドラッグに入っていく。吸い込まれていくと言っても過言ではない。

過言ではないが、なんと、ハミング本体もない。

またしても詰替え用しかないのである。

急に顔色を失ったわたしはダッシュでマツモトキヨシに向かった。

ない。

あの天下のマツモトキヨシにも、ハミングの本体がないのだ。そればかりかスギドラッグにもサンドラッグにもオーエスドラッグにもないではないか。わたしはあまりのショックにメガネドラッグにまでハミングを求めて入店してしまった。

わたしのそのときの状態は、完全につげ義春の『ねじ式』そのものだった。イシャはどこだ!ハミングはどこにある!わたしはメメクラゲに左腕を噛まれた少年のように西新宿の郵便局周辺を徘徊した。


すっかり落胆して家に帰ると家人が「柔軟剤買っといたよ!職場の近くのお店にはヤシノミもハミングもないから、はいこれ」と、わたしがこれまでさんざんドラッグストアで目にしてきたふつうの柔軟剤を手に笑っていた。

なんだこれなら俺も買えたのに、とは言わなかった。ああ、これか、いいね、試してみてよかったらこれからこれにしよう、と力なく笑うしかなかった。

そしてその夜インターネットによってわたしは『ハミング 素肌おもい』が今年の秋に改良新発売されたことを知る。

ボトルの形状もパッケージデザインも中身もリニューアル!と声高らかに謳っていた。

そりゃ改良前の本体を探したってないわけだ。そして売れ残っている詰替え用だけが在庫処分のような形で販売されているのである。

かくして3日間におよぶ柔軟剤を巡る攻防は幕を閉じるのであった。

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