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神楽坂にて
「そろそろ求人広告を卒業したいんです」
22歳の頃、業界人と会うたび名刺代わりのように呟いていた。クリエイティブディレクター、デザイナー、フォトグラファー、スタイリスト…当時の僕にとって本当の広告の人との接点はまさに蜘蛛の糸であった。
そんな糸の一本が竹田先輩だった。コピーライターとして独立し、デザイナーとコンビを組んで事務所を運営する憧れの存在だ。先輩はなぜか僕に目をかけてくれて、あちこちの代理店や制作会社を紹介してくれた。
銀座の『アドヤング』はそのうちの一社で、岩槻さんというディレクターを訪ねた。岩槻さんは僕の顔と作品集を見て「若いな、いくつ?」と聞いた。僕は「来月3になります」と答えた。
「そうか…33か。確かにいつまでも求人って歳でもないよな」
結局アドヤングにはコピーライターの空席がなく、岩槻さんはすまなさそうに「ちょっと待って」と一枚のメモにサラサラとペンを滑らせた。
「ここ、確かコピーライター探してたはずだから。アドヤングの岩槻の紹介っていえばわかるように連絡しとくよ」
そのメモには“レキックタサカ”と電話番号とが書かれていた。
「岩槻君が30代前半って言ってたから。まさか23歳とは思わなかったよ」と笑いながら飯田橋ラムラの喫茶店でコーヒーをすすめてくれたのがレキックというプロダクションの代表を務める田坂さんだった。
僕はつかんでは千切れる蜘蛛の糸を、こんどこそ、という気持ちでしっかとつかもうとした。この男に気に入られさえすれば普通の広告の世界に入れる。必死でアピールした。多少、盛ったかもしれない。
努力の甲斐があったのかどうかわからないが、なんとかレキックへの採用が決まった。「これで求人広告から足が洗える」と僕の胸はときめいた。ときめきながらはじめてオフィスを案内されて、明るい未来への展望にうっすら不穏な影がかかりはじめる。
神楽坂の裏通りをさらに奥に入った湿気のある雑居ビル一階。靴を脱いで薄汚れたペラペラのスリッパに履き替える。BGMは開局したばかりで洋楽しか流れないとびきりお洒落なJ-Waveではなく「カタクリコホットライン!ゴールドラッシュ!!」とやたらDJががなり立てるFM東京。
そして5人いるメンバー全員がほぼ素人に近いデザイナーであった。チーフデザイナーだけがキャリアとスキルを有しており、セカンドを務める女性以下ほとんど前職のデザイナーの足元にも及ばぬ力量であった。
初のコピーライター入社ということで田坂さんが張り切って取ってきてくれた案件は、大手自転車メーカーの販売店向けFAX通信の企画とライティング、6種類の生薬を配合したおだやかな効き目の便秘薬の新聞広告、毎日の使用で抜け毛をふせぐ頭皮タップ機器の雑誌広告。
さらに別会社なのに同じフロアに個室があてがわれている謎の老アートディレクターがいて、このおじいさんが過去に在籍していた代理店から月に一本持ってくる仕事はすべてTVアニメの番宣ポスターであった。
なんかこう、全体的にチガウ!とわざわざカタカナで表記したくなる環境であった。冴えない、という表現がしっくりくる。
もちろん世界中の広告プロダクションがハイテックだったりアールデコだったりお洒落な空間なわけないとわかっていたが、それにしても。
いまならそれらをもっといい仕事にできるし、主体性に動いて環境そのものも改善できるだろう。しかし当時はなんせ世間知らずの生意気なガキ。与えられたステージに文句をつけるだけのどうしようもない輩であった。
僕はなんとなく、なんだかなあ、と投げやりな気持ちになっていった。
そんなダウナー気味な22歳の僕にとって、事務所のある神楽坂はなんともねっとりと湿気で包みこんでくる町であった。
その年の夏はとにかく暑かった。飯田橋の駅を出て神楽坂を上るのがしんどかった。
細い路地がいくつも巡っていて、花街の名残を感じさせるが平日の昼間は文字通りひっそり閑であった。
いわゆる名店、銘店の類が軒を連ねていたのだろうが、なにせ月給13万円の身には敷居が高い。街全体から「お前さんにはまだ早い」と言われているようで肩身の狭い思いをしていた。
ギンレイホールの前の横断歩道を渡った先にあった富士銀行で給与振込口座をつくった。前職では口座開設と同時に自動的にクレジットカードを作ってもらえたので、ここでも当然作れるものと思い申し込んだ。しかし審査の果てにあっさり断られた。
僕はこのとき、ああ前職はなんだかんだいってしっかりした会社だったのだなあ、と思い至ることになった。後悔こそしていないが何か大きな頼れるものを手放してしまったような、そんな心細い気分だった。
なんとなく勢いがない僕を見かねてか、田坂さんが夜毎酒場に誘ってくれるようになったのはまだ残暑の残る9月初旬だった。
最初は確か、代理店での打ち合わせの帰りだったと思う。まだ陽は高かったが、飯田橋駅ラムラの『ライオン』で生ビールでも飲もう、ということになった。
目と鼻の先にある事務所ではまだみんな仕事をしているのに、僕と田坂さんは大ジョッキで乾杯した。背徳感もあり、実に旨い生ビールだった。
そこで僕は思い切って田坂さんに感じていることをポツポツと話した。田坂さんは黙って僕の話を聞いてくれた。僕が話し終わるとおもむろにこういった。
「覚えておくといいことがある。ビールを呑んでいるときはできるだけ小便をガマンするんだ。最初の小便をできるだけね。一度してしまうともう際限なくなる。最初の一回をどこまでガマンできるかが、ビール飲みの醍醐味だ」
僕がなんのことかわからずにポカンとしていると「ハヤカワくん、いろいろと思うようにならないことが多いだろうけど、どうだ、今日のこの生ビールは旨いだろう。こういう旨い生ビールが飲めるってことは、それだけでもずいぶんと恵まれていると思わないか?」
すでに大ジョッキ5杯目だった僕は、なるほど確かにそうかもしれないな、と痺れかけている頭で考えた。
そのあと田坂さんの馴染みだという中華料理屋で紹興酒をしこたま飲んで、さらにもう1軒ハシゴした後ベロベロになって事務所に戻ったのは午前2時だった。
事務所ではチーフデザイナーがまだ仕事をしていた。彼は酔った僕を見て「よかったですね、ハヤカワ君。ようやくうちの会社にも馴染んできたようですね」と微笑んだ。
それから3ヶ月後、僕はレキックを辞め、六本木のコピーブティックに移った。
オフィスは六本木通り沿い、金谷ホテルマンションの5階。室内は大中のクンフーシューズ。BGMはもちろんJ-Wave。インテリアはシンプルに白で統一されていて、壁には大きなファイロファックスのポスター。ボスの作品だ。
そうだよ、ここだよ。こういうことなんだよな、広告業界って。
そこから僕の、月曜に出社すると翌々週の木曜まで帰れない生活がはじまるのであった。
じぇじぇじぇ
ジェーイウェーイブ。