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ユダヤ教の可能性と限界

 ユダヤ教において大切な要素は三つある。一つ目は神が唯一であること。二つ目はその神が2つのトーラーに体現されていること。三つめは、それを多数の人間が実践し継承していくことである。これらは、ユダヤ教の三位一体といえる。これらの要素は、シェマァ・イスラエルという祈りに凝縮されている。シェマァ・イスラエルというのは「聞け、イスラエルよ」という意味である。(勝又悦子、43ページ)

 一つ目を詳しく説明すると、ユダヤ教は神とは「唯一」なるものと考えている。これは「拝一神教」とは異なる。拝一神教とは、多くの神々の中で一つの神を特に崇拝する神教である。(勝又悦子、45ページ)
 
 そもそも、私は様々な宗教を同列に並べて語ることに違和感を抱いていた。たしかに、特定の宗教を信仰していない人は、複数の宗教を客観的に考察することができる。しかし、特定の宗教を信仰している人は、その宗教観をもとに考察する。特に拝一神教ではなく、「唯一の神」を掲げる宗教には、ほかの神という概念がない。したがって、その信者は様々な宗教を比較検討して、語ることができない。
 
 以上のことを前提として、私はユダヤ教が「唯一の神」を掲げている点に、「唯一の神」の可能性と限界という関心を持った。まず、唯一の神の可能性についてである。神的存在自体が唯一であるという事実は、信者にとって大きな信頼感をもたせる。以前、タリバンがアフガニスタンに侵略し、家を追われたムスリムを取材した番組を視聴した。ムスリムの家族は、洞窟を家代わりにし遠い水辺まで水を汲みに行くような生活をしていた。一般的に言えば、悲惨な生活といえるが、ムスリムの家族の目は活き活きとしていた。その母は「祈れば、必ず救われる。」と言っていた。つまり、多くの人が絶望するような状況でも、唯一の神を信仰していれば、生きる希望を持つことができる例である。イスラム教徒はユダヤ教と異なるが、一神である点は共通である。
 
 次に、「唯一の神」の限界についてである。これは上記の「唯一の神」を信仰する人は、ほかの宗教を語れないという話に関連する。つまり、「唯一の神」を信仰している以上、他宗教の信者が語る言葉は、嘘ということになる。対話のベースとなる根本的な考えが、一致していないため、建設的な対話はできない。こういった行き違いの連続が、戦争や紛争につながるのである。戦争を行う双方は、どちらも自分が正義であると確信している。その核心の根拠が宗教観であるため、対話は平行線をたどってしまう。ここに「唯一の神」の限界がある。
 
 以上のことを踏まえ、「唯一の神」の限界についてさらに考察する。異なる宗教観に基づく対立は、一度始まると解決の糸口がつかめなくなる。つまり、問題が起きた時点でそれは双方にとって大きな損失である。この点を踏まえると、イスラエル問題を生み出した欧米諸国、特に英国の罪は深い。

参考文献
勝又悦子、勝又直也「生きるユダヤ教―カタチにならないものの強さ」(教文館、2016年)

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