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まともについて
こんな世の中なので、意識をしっかりと維持していきましょうね。
人間なのだから。
失敗しても、何度揺らいでも、時々は自分が壊れてでも、加害はしないことです。
どんな人のことをまともな人間と呼ぶのか、長年考えても考えてもわかりませんでした。
答えは無いと言う答えがあるので、考える必要もないのかもしれません。
個人的には、最近、急性症状で闘病していたこともあり、人の命の希薄さを実感する日々の中にいてなおさら、心の中にあるうっすらとした明かりを、自分なりに自分の中に見つけようと模索しました。
心が強い人も弱い人もなく、心のまともな人もまともでない人もないでしょう。生き物だから。今のところそれが自分のものを考えるときの前提にはなっています。
決めつけてしまわないように、あえて日々揺らぐことも、きっと大切。
ゼリーやプリンのように半分、ゆらゆらと、驚いたり悲しんだり喜んだりするたびに小刻みに揺れ動く心が大切だと思っています。
風も、海も、完全に止まった試しがありません。困ったときには自然現象を見習うことにしています。
完全に止まった時は、もう命じゃなくなっていると思うので、雨でも雪でもあられでも、川になったり、海に流れて波になったり、またお空に昇っていったり、必ず動いています。
止まって見える氷も、凍る前にはお水でした。
状態として、自分が止まって見える程度には、緩やかになってみようかなと思えてきました。
足を止めると言うのは、怖いことでもあるけれど、止まって見える状態に自分がなっているだけだと思えば、ずいぶん気が楽に休息が取れるような気がしてきました。
そして再び、自分に課題を課せるのです。頭の中でぼんやり考えたいテーマを自分に与えます。
まともな人と言う人はいないけれども、あえて今日だけでも、決めつけてみたいと思い、1つ考えました。
それは、
今日の私にとってのまともな人の像ですが、
こんな人です。
「行ってきて戻ってこれる人」
行った道を間違っても、自分の意思で自分の足を動かし帰ってこれる人。
また反対に行ってしまうことがあっても、嫌だと思えば、自分の感覚を信じて元いたところに帰ってこれる人。
道がわからなくても、
本能的に、今ここにいたくないと思う感覚を持っている人。
人の不幸を、多少なりとも自分の痛みとして涙した経験がある人。
1番最後の1行は、自分の期待値です。
自分の意思を以って悪をなすのも意志だから、自分の思った通りのことを、自分を動かし果たしているのでしょう。
それはそれでその人の決めた在り様かもしれません。
聖人や善人のような人と言われる人は、より良いことを成し遂げようとして、というよりも、人の気持ちや痛み、環境の悪さにさえ寄り添い、共に生活をすることまでを、自我を捨てて挑む。そんな方もいらっしゃいます。名誉欲ではなく、何とか解決してあげたいと思う心からだと思っています。
そんな事は普通できないと思うけれども、そういう風に生きていきたいと、望む人がまだ大勢いらっしゃる事は救いだし、
少なくとも、事件を見聞きした際、どの場面の、どちらの側の人間に自分が共感をしているかを自分で把握できている人が、せっかくたくさんいるのですから、
加害をする人間がいたときに、とっさにその悪意の人の弁護をしたくなる要因がない事は、少なからず自然な清らかさは当たり前に持っている、当たり前の人なのではないかと思いました。
ことに、小さな子供や、体力的にも、精神的にも、意識のもろさ儚さ、思考力のもともとが健康的に弱く備えにくい体を持って生まれた人たちのことを、より好んでいじめたい人間は、どうしてその結果を否定し、自分はやっていないだとか、相手が誘発したと言うことを堂々と言ってのけるのか、その疑問は解けませんが、事件を見聞きするたびに、その疑問を持つ人数が多いほど、まだこの世に救いがあるのではないかと考えました。
自分が不幸であって、他人が悪く、自分が苦悩に満ちているのは、他人のせいであって、自分だけが幸せになるべきであって、そのためなら、他は犠牲になって当然だとの思考ルートを持つ人は、何もせずとも生きづらいであろうことを、少なくとも自覚ができたら良いのにと思います。
そのような考え方で、突発的に行動を起こし、自分の思う幸せを極めていったとしても、社会の基準から著しくそれていては、何も得られず、3年後10年後には、今よりももっと不幸になっているはずだから、それは双方どちらにも不利益です。
例えば、小学校低学年の子供でさえ、この程度の事は予想できる子が多くいるにもかかわらず、良いご年齢になってもできない人が多くなっていると言う事は、ただ責め立てて解決できるわけでもなく、重い処罰を与えて解決するわけでもない、根底に別のものがあると言うことを私たちにいつも教えてくれているのだと思います。これはかなり貴重な、大切な気づきのチャンスだと思っています。
解決法を考えると、あまりにも平行線で、第三者の方が意気消沈してうつ病にでもなってしまいそうなので、結局悪い連鎖になると思います。
むしゃくしゃしたり、はけ口がなかったりすると余計に、自分でも驚くような行動を自分で取ることが、人間にはあるかもしれません。
だから、そんな時には、どうやったらより良くなるんだと考えるよりも、考える余地があるのかどうかを考えてみたいと思っています。
考える余地があるのかどうかを考えると、考える余地はあると自分で断言したくなります。
その次に私は、考える余地があるならば、考えた上で、解決の余地があるかどうか、その余地の有無を考えます。
余地はいつもあってほしいと言う自分の気持ちから、余地があると希望的に答えを持ってきます。
自分の思考ルートを調整しています。
あまりにも苦しかったら、自分の問題の事は考えず、他人の問題を解決してあげたいと言うことにだけ目を向けます。
自分が1週間、仮に何も食べていなくても、3日間何も食べていない友人にものを食べさせるにはどうしたら良いのかを考えるような感覚です。このやり方をして間違ったことが1度もありません。悪い結果を産んだことも1度もありません。強いて言うなら、自分がどんどん壊れていくだけです。だけと言ってもいけないのですが。ただし、窮地で必ず救済されました。これは心情の表現であって、食べ物の有無のお話ではありません。
ただ、その覚悟を持ったときに、その覚悟を持ってして、自分も周囲の人間も助かった、お互いに良かったと言う結果がありました。そんなことを一言で例えて表現しました。
そんなふうに自分の心が崩れないように、考え方のコントロールをしています。
私は賢くもないし、心がまっすぐでもない、24時間人助けをする能力もないですが、考え続けたいと思います。
私は正しくもないし、人生で1度も嘘をついたことがないわけでもないし、虚栄心が1ミリもなかったわけでもありません。かわいいお洋服も着たかったし、叶えたい夢もたくさんあったし、屈辱感に悲しむこともたくさんありました。子供の頃は、友人よりも自分が褒められたら、素直に嬉しかった場面だってありましたし、かといって、友人が泣いていたら切なかった。そんな複雑な感情を、子供ながらに何か変だな。なんか変だなと、みんなそれぞれに考えたことがあるかと思います。
どうしてこんな人のために自分が犠牲にならなければいけないのだと涙をすることもあれば、今ここで負けたくないと思うあまり口調が強くなり、相手を悲しませたこともあります。
その都度反省して、その都度誰かを悲しませていないかを自分なりにチェックして、少しでも自分の周りの人が笑顔になるように、自分の至らなさは改めるべきだと考えていました。
それは、基礎知識も少なく、理解力もなく、人の気持ちを1から10まで把握する能力もなく、喜ばせることもできず、また、いたわる才能もさほどなく、自分の大切な人が困っていても、問題を解決してあげることが何もできずにいたので、自分は自分で信じるに値しないのではないのか?など、自分の心がきっと不確かなのに違いないと言う自覚から、青少年時期には相当自分を見つめる人間になっていました。
そこからかなり周囲が気になり、人も怖くなり、帽子をかぶらなければ出かけられないこともありました。
今言われているルッキズムだとか、優秀な人と劣った人の違いから来るからかいだとか、こんなに大きな社会現象になる以前からずっと、ずっとずっと昔から、自分の見つめる自分は極めて小さく弱く至らない、良くない点しかない少女だと自覚していましたから、目が合えば自分の容姿を笑われているのではないかと思ったし、会話をすれば頭が悪いと笑われているのではないかと思ったし、お出かけをすれば、礼儀正しさに欠如があって、一緒にいる人を恥ずかしがらせているのではないかと思ったり。
ところが心の奥を差し出しあって、心を通わせて誰かと話し合うときには、相手が誰であっても、同じようなことを考えていたんだなと大人になってからは理解できます。
少なからず、程度の差こそあれ大体このような感覚はみんなあったと思います。
そのまま成長して大人になり、大人になってもまだまだ世間知らずで怖いことが多く、わからないことも多く、感受性が強く怖い映画も見られません。
それでも、1人、また1人と、友人が病気になったり、不慮の天使的翼で飛翔していったり、悲しい場面に納得がいかないまま、自分ばかりが生き残ってきたような感じがします。
彼らの気持ちを晴らすなどと言う大事は言えませんし、彼らが何と戦っていたのかも未だにわかりません。
小学校や中学校では、よくある光景だけども、お手洗いに行くだけで笑われたり、体操服を洗わずに着ている人を汚いと罵ったり、わずかなからかいから成人以降までの人格形成を変えてしまうほどに、互いに傷つけ合っていることはお互いに自覚がないけれども、お互いに相手には何かしらを発言しながら、笑って済ませる相手側も、また他の誰かには冗談めいた揶揄を発言しながら、場面としては、そこに居合わせた5人10人と盛り上がる。
けれども、家に帰れば1人残らず傷ついて、10人が10人泣いていると思う。
翌朝、元気に登校してみせるけれども、その一夜にはどれほどの思いがそれぞれの小さな胸をつぶしたことか。
私たちはきっとそのまま大人になってしまった。
その時に大人としての役目を果たすべき人たちが、果たしてくれていない可能性も高かった。
社会問題ではあるけれども、まっすぐに育つことができなかった本人の力量で、その世の中を変えなければいけないことであることもおかしいし、かといって、人の道を誤ってはいけないのですから、みんながみんなで揺れ動きながら、心の中で小さく考え続けるしか、今はないのでしょうね。
悪影響と言うものは、いつの時代もどんな人も好むようで、刺激的なものを視聴したり、暴力的な描写を好む人も案外多くいるらしいです。
徹底的にそのようなものが苦手で毛嫌いする人たちもいます。私はそちらのタイプなので、世の中にどんなものが出回っているのか、最初から触れないようにして生きており、実際に何があるのかが見たこともなくわかりません。家庭内では、漫画本を読む人を馬鹿にする風潮があったので、漫画本もゲームをせずに育ってしまいました。
触れないでいる自由はあるけれども、臆病なために回避しているだけであって、もしかしたら突進するタイプだったら、何かに染まり、発作的に行動起こし、自分も何かをしていたかもしれません。
人間に備わっている能力の基本部分は皆同じだと思うので、悪いものの影響をすぐに模倣する能力があると言う事は、それに心動かされ、記憶し、自分もそうしようと言う衝動をどこかに持ち、それがいつ発動するかはわからないながら、それについて水面下で思考し続けているのだろうから、それを一概に影響という言葉で片付けるにしても、全く正反対の面から見れば、教育と同じ仕様で心と体に入ってきて染めつけるのだろうから、こんなにも多くの人がこの国で一斉に半狂乱になっていく様子を見ていると、いろんな病棟で長い年数を過ごしてきた私などには、もともとどこかに欠損があったり、不能部分があったりする人間の方が、もしかしたらタフかもしれないと思えてきます。
それは独自に生きるしかなかった人の集まりだから、虚弱体質の子供たちや、虚弱体質のまま、大人になった私のような人間は、大人になっても、いつも自分の考えで生き方を見つけるしかなかったところが大きいと思います。
という事は、悪い魅力に満ちた中にいてさえも、それ以上の魅力のものがあれば、人は簡単に染まるし、行動を起こすと思われ、殊に、この日本では、職人気質なまでに極める人が多い上、技術的にも、そして知力も高く、記憶力も高く、技術もすぐに習得する人が多い。
何でも自分で調べてやってしまえる。よくない意味でもきちんと段取りができる。
そんなに有能な集まりとも言えると思うので、悪意を上回るほどに魅力的な何かが影響してくれたなら、その目を無理にこじ開けなくても、自然と目を見開いて、それを見てみたいと欲求する、人の心の花開くような、美しい香りについ振り向いてしまうような、そんな何かが人を惹きつけてくれれば、それを見ずにいられない人がきっと憧れて、目の前の悪意を成すことによって得られる快楽や報酬よりも、そちらのほうに興味を持ち、近づいてみたい、模倣してみたいと、思わなくは無いだろうかと、心の中をとぼとぼ散歩しています。
心臓発作で倒れてから2ヶ月ほどが経過し、随分良くなりました。発作みたいなものは一瞬だけれども、虚脱感はその前後の疲労感とともに皆さん同様常にあったわけですから、一言で言うと過労だったかと思います。
心配があったり、解決しなくてはと焦ったりすると、何でもいいから何かしていないと落ち着かなくなりますが、こんな時こそ、お互いに落ち着いて、窓の外を眺めながら、温かいお茶でも入れて目を閉じてみましょうか。
5分10分、微動だもしなくても、何も変わりません。
1分間YouTubeを視聴しなくても、人生に影響はありません。
30秒間、誰かのSNSをチェックしなくても、なんらあなたに支障がありません。
多少健康さが増すでしょうけど^ - ^