樅の木へ
風雪にさらされている。酷く、痛く、そして暖炉のような愛と、焼き尽くしてしまいそうな程の生存欲求の火炎。
読み手がないのに、書くこと。
聴き手がないのに、弾くこと。
同じく生存の、受け取り手がいないこと。
受け取り手がいないのに、生きること。
自分たちが生きていく上で、きっと本当は、家族や友達、心の結びつきは、不可欠です。
しかし、なくても平気なひと、むしろパーフェクトな孤立があればこそ生きられるひと。
いつしかそれが普通なのだと、主流になって至極当然、当たり前でしょう?なにを言ってるの?
とまでに社会が素敵に進歩したとして。
対人ストレスゆえに病気や死を招く、もしくは自ら向かうことが減り、それが仮に必ずみんなが幸せなのだと見做したとして。
そうなったとしても、それでも
自分の「生きる」ことをなにかしら「受け取り」するものが一切無い世界であったとしたら?
人は、あなたは、私は、「生きている」が、確かに成立していると、どうやって感じることが叶うのでしょうか。
完全な無の中に雨が降ったなら、それは雨だとどうやってわかることができますか。
雨以外の何かがなくても、そこに雨があれば、これは雨だと、雨自身が気づくにはなんの術を求め、捨て、「気づき」に気づき、雨になれるのでしょうか。
かろうじて無でもあるならば、無の中にある雨という「存在」になれたかもしれない。
けれど、その「無」さえ無いとしたら、雨は雨でも、水でも、命のかけらでもなく
「存在」でもなく、「無」ですらないかもしれない。ただひたすら「不明な状態」としての漂いにならないのでしょうか。
人の命は、いつどうやって、自分を判明させたのでしょうか。「それ」を感じたのでしょうか。「それ」を知ったのでしょうか。
「それ」が自ら理解したのでしょうか?
なぜあなたは孤独で寂しい「愛に飢えた人嫌い」なのでしょうか。物心がつけば誰しも、いずれ人は死ぬことをわかって、時々は自分の未来の決まった日をふわふわと想像し、そして何事もなかったように惰性で暮らし、最後の最後まで、自分を生きないなどということをしていくのでしょうか。
それはあなたの人生に関係があったのでしょうか?それは私の命の働きに何か干渉したのでしょうか?本当ですか?
このくだらない、形も真実もない遊戯に夢中になって、瓦礫と一緒くたに流れる濁流の果てに、乾涸びた自分の殻を見出すことさえ、できないのでしょうか。
人間は自然物ですか。それとも、愚かなのですか。
我々は、少なくとも「生」ではあったのではないか。
失ってはない。放棄しただけなのだ。
捨てたのだ。
捨てる行為は、自分以外の誰にも、誰にもできないことだったのだ。
そこに触れることのできる触手は己の中にしかないのだから。
触手?ああそれなら懐かしく呼び醒されそうになる。あの、光を。生きている自分のその奥を。
光線が落葉し、肌身に突き刺さる。この淡く白く柔らかい、血の通った、ここのあたりに。
行ってはいけない。自分以外になってはならない。そんな誓約をしたような記憶すらある。生まれる前か、それとも明朝の予兆か。
曙は嵐の中の墓地から昇る。雪を融かすものは風雪の足元、圧雪のずっとずっと、深く暗い地底で眠っているに過ぎない。
光れ。