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amazarashi あまざらし
今回は私が好む数少ないアーティストである、amazarashiについて述べる。
バンド名は「日常に降りかかる悲しみや苦しみを雨に例え、僕らは雨曝しだが“それでも”というところを歌いたい」というところから名付けられた。
バンド名の由来通り、このバンドが生み出す曲の多くは絶望を歌う。梅雨時のカビのような、冬のすきま風のような、日常に巣食う厳しい現実を表現する。その中で僅かばかりの希望を見出すのである。
純然たる希望はなく、脆く儚い泡沫が残るのみで、全ては私たちに投げかけられる。そこには常にamazarashiの秋田ひろむが抱える希死念慮とその解決があるように思える。
彼が抱える希死念慮の明確な原因は明かされていないが、その尋常ならざる絶望は我々の思考を、どこか遠く、または近くにあるような異界へと連れ去る。人間が持つ根源的な諦念を孕み、近代小説の自然主義のような気だるさが空間を支配し、征服する。
その最中におこる希望とは、希望と呼ぶにはあまりにも弱い。「願い」と呼ぶべきであろうか。しかしながらその願いは、絶対的な絶望と対比され、我々の心に強く刻まれる。
今回は私がamazarashiの中で最も好み、重きをおいている『光、再考』を挙げよう。是非とも聞いていただきたい。
これはamazarashiになる前の、「あまざらし」時代、彼が歌った1曲であり、歌詞や歌声から悲痛な叫びが聴き取れる。
「時々虚しくなって全部消えてしまえばいいと思うんだ
神様なんてとうの昔に阿佐ヶ谷のボロアパートで首吊った」と絶望を歌う中で
「そうだよ 大丈夫 大丈夫 皆同じだよ
上手くいかない時は誰にでもあるよ
そんな光」と、どこか投げやりな願いを歌うのである。
彼の歌声は必死であり、今日を生き、明日死ぬという勢いで語りかける。詩を詠むように、または呟きを空へ飛翔させるように、不可視の希望に縋る。
この曲を聴いた後、毎度の如く、部屋には哀愁の香りが漂うばかりである。