レポート課題として事例問題が設定されている場合、モデルとなる判例が存在していることが多い。その中にはアレンジを加えているものもあるようだが、判例の事件そのものだったりすることも多い。この場合、まず、判決文をしっかり読んでみるところから始めるのが定石だろう。判決文と解釈が問題となっている条文にしっかり目を通してから、それを理解する為に基本書を参照したり、予備校のテキストを使ったりという順番で進んでいくのが良いと思われる。

わざわざ課題として選ばれるような判例には、全会一致の判断であったとしても補足意見が付いていたり、多数意見に対して反対意見や意見が付されていることも多い。特に、補足意見、反対意見、意見は、最高裁全体として出した文章よりも、より詳細に条文の解釈について検討を加えていたりもするので、このような文章を丁寧に読み解いていくことは勉強になる。そのようなことを、畑中先生が法学入門の授業の中で言っておられたように思う。

最高裁の判決分は読んでみると意外と短く、これを自分の言葉で再現したとしても課題の2000字にははるかに及ばない。したがって、基本書等から学説などを切り貼りして補い、あるいは判決文が参照している以前の判例を持ち出して、なんとか文字数みたいな書き方になることが多いかもしれない。これに対して、補足意見などは、文字数がかなり多いので、基本書や参考書を理解の手助けに、これを要約すれば文字数をクリア出来たりする。

最高裁の見解を丁寧に読んでいくと、違憲立法審査は、制度の合理性と人権の重さを天秤にかけているのだと気づく。過去に違憲の判断が示された事例などを見ると、人権の価値というのは普遍的に軽く、制度の合理性の重さが軽くなったとき(制度が陳腐化したとき)に初めて人権の重さが制度の合理性の重さを上回るようだ。制度が合理的というのは、必ずしも科学的な裏付けが存在する必要はなく、その当時の社会の空気みたいなものが反映されていれば良いという風に裁判所は考えているようでもある。例えば、ポルノ雑誌を青少年に見せるのは教育上よくないという世間の空気があれば、それは制度の合理性を後押ししていると言えるのだろう。

レポートや答案を書くときはだいたいは裁判所と同じ結論をめがけて論理を展開することになる。だとすると、必死の思いで長い年月をかけて最高裁まで争った当事者に対して、月並みな合憲という結論を下すことになる。それならばせめて、人権については、それが踏みにじられる人の境遇や気持ちをしっかり認識しつつ、制度の合理性については、それを自明のものとせず批判的な目を持ちながら、両者の間で葛藤しながら結論を出したい。同じ結論でも、悩みぬいた痕跡があるかどうかでだいぶ見え方が異なるだろう。そういう態度がもしかしたら求められているのかもしれない。

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