哲学の距離

いやいや、私は哲学などについて知ってることなどなんにもございません…💦

とつい言ってしまいそうになるが、嘘である。ソクラテスもプラトンもキルケゴールも知っている。
哲学ってなんか難しい、高尚なものというイメージがあった。私なんぞが理解できるものじゃあございやせん…💦みたいな。

今日、大学でサルトルとボーヴォワールの映画を観た。
映画を観る前にまずサルトルについての講義があった。戦時中の人ということもあり、自由と責任についてかなり厳しいことを言う人だったらしい。例えば、拷問を受けているとしても、その拷問を受けていることは自分の責任だ、みたいな。
その話に、私は非常に生真面目で現実的な眼鏡の哲学者をイメージした。

こちらがその映画です。
時間に限りがあったので、物語の盛り上がるところまでは見れなかった。が、哲学を高尚なものだという私が抱いていた認識がカラカラと崩れるには十分だった。
いや、サルトルがクソすぎる。
先生が「まあかなりね、この二人が美化された映画なんですけども…」というから美しい二人の哲学者が美しく愛し合う話かと思いきや、もうめちゃくちゃ人間。あほ。
昼間から我慢できねえ!って原っぱで抱き合っておっぱじまっちゃいそうなかんじとか、ドア閉めずに愛し合っちゃう感じとか、いやフランスウ!情熱の国フランスウ!という雰囲気でむしろ清々しいところもあり、私は全然嫌いではなかった。結婚しないパートナー制って、籍入れてないだけで愛し合ってるんだ、、みたいな話かと思ったらサルトルめちゃくちゃ言うてるやん。ボーヴォワールがセックスした女とどうしてもやりたい!斡旋してくれ!ってボーヴォワールに言うんイカれてるやん。イカれてるん分かってても日本じゃまずアウトだろうが、フランス人的にこの二人はどういう存在なんだろうか。いや結果としてフランスの結婚の概念とかにすごい影響を与えた人物ではあるんだけど。奔放すぎるて。ボーヴォワールの気持ち考えてくれや。まあボーヴォワールに関しても、親のこともうちょい考えてやってくれとかも思う。
最後まで観たら全く印象が変わる可能性もあるので、これから観ようと思う。


今日は帰りの電車で座れなかった。二時間立ちっぱなしで、10センチのアツ底が足裏に固く響いた。
図書館で借りたエドワードゴーリーの本を、たちっぱで読んだ。
『優雅に叱責する自転車』と『蒼い時』
英語べーじの横に、絵と日本語訳が載っている。こういう詩的な、意味として当たり前に成り立たない文章を見ると、難しい単語を使っていなくても急に理解ができなくなる。普段英文をどれだけ文脈だけで読み聞きしているかということが分かる。


最近、無性に詩が読みたくなることがある。
こんなことは初めてである。ストゼロでキメちゃうような人間がこんな風になるとは本人でも全く思ってなかった。
私は通学に2時間かけている。その間、スマホを見ていることが多い。音楽は洋楽を流している。
その2時間が、とても、虚空なのだ。
スマホを見ていると不安になる。膨大な文章を情報として読み取っているのに、実際のところ何一つ頭に入っていない。英語の勉強の一環も兼ねて洋楽やポッドキャストも聞くのだが、これも1音1音聞こえているようで、結局なにも理解してはいない。
学習しているようで、ぼんやりと車窓の外を見、流れていく緑に集中することもできない。
文章を見ていると不安になる。虚空なのだ。ただ情報として一時的に読み取り、ニヤニヤすることもあるが心が大きく動くことはなく、それ以上でもそれ以下でもなく、消費しているのだ。
この前、電子書籍と紙の本では脳の使っている場所が違う、みたいな話を聞いた。どちらにせよ本を読むのはいいことなのだが、電子書籍はより表面的な情報を読み取ること、紙の本は共感力とか想像力を培う筋肉が働くらしい。本当にそうだなと最近実感する。

『優雅に叱責する自転車』のページをめくる。文庫本の半分くらいしかない、小さな絵本だ。
なんの意味もない。
起承転結もなけりゃ感動するシーンもなけりゃこれといった教訓もない。
ただ不思議なよくわからん世界の、よく分からん話と絵。
なんの意味もない気がする。
でも、なんかこの時間が好きである。
こんななんの意味もない本が大人から評価され、賞を獲り、海を渡り空を越えてこの日本という場所で日本の言葉に翻訳され、丁寧に画用紙みたいなので製本され、たくさん出版されているのだ。
大の大人たちが、こんな意味のない絵本のためにあくせく働いているのだ。

日本人は非常に効率主義であると思う。
中高時代、それなりに頑張って勉強してきた。全然あの頃に戻りたくないくらいには勉強していた。数学も国語も化学も世界史も…
後ろで男子高校生が、次の学期考査について話していた。
そんな頑張って勉強して大人になった結果、微分も積分も数列も発揮することなく、こんなちっちゃい絵本を作ることになるのか。
働くって、子供のころ思ってたよりもずっと、ばかげた世界なんじゃないかと思う。
こんなよく分からん絵本のために、朝起きて、長時間拘束されて、会議して、メールして、タスクをこなして、お金を得るのだ。
日本は効率主義?本当かよ。本人たちが楽しんでんならいいけどさ、この本のために自分を苦しめるまで働き詰めるなんてばかげてるやん。ゆるゆるやった方がいいもんできるて。
そんな大人たちが、朝から晩まで学問に励む学生を育て、そして彼らもまた大人になり、働き、また人を育てるのだ。

現実は、こんなよく分からん素敵な本のために、人は働き詰めているのではない。もっとあたかも人の役に立ちそうな、しょうもないもののために身を削ってる。洗脳だ。本当にそれを、あなたは信じているのか。


紙のページを、指でめくる。平坦な紙にはいつも微妙な陰影がある。
指で文字をなぞる。文字一つ逃すまいと、読む。それを、感じる。
この前、金子みすゞの詩集を読んだ。
軽やかな音と言葉があつまってできた文章が、
すうっと胸の奥深くに入ってくる。
「言ってないのに、感じる」
詩はそういうものである。直接的なことは言っていないのに、それが私の経験と合わさって、なんとも言えない感情を作者と共有して、その名前のない感情を味わうことができるのだ。そして、私はその時間にひどく安心感を覚える。

最近英語を聞いたり読んだりすることが多いが、まだ全然分からない。
一回聞いただけじゃ歌の歌詞は入ってこないし、本の内容も正確に読み取れるわけじゃない。
となると、「言葉の奥の感情まで読み取る」ことなどまず不可能なのである。そういったニュアンスまで汲み取れるほどまだ文化に精通していない。
だから、空虚なのである。
洋楽を、音やリズムが好きで何度も聞いても、歌詞の感情を知らないので心まで届かないことが多い。(届く歌もある。少なくともノリノリ系の曲は大抵男女の話なのでまじで響かん)

そういう英語の文化が好きだけど、まだ楽しむに全力を注げるわけでもない、表面を取り繕った日本人というのが、今の空虚な私そのものなのだ。

だから、詩などを読んで、この空っぽの心に感情を注ぎ込み、生きている実感を感じさせることが、とても大切だ。


アデュー

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