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茨城から秋葉原に転校して育った高卒社長のやりたい放題に生きてきた人生 第2話

私は小学校4年から自然豊かな茨城県取手市から東京都の秋葉原にある千代田区立の小学校へ転校することになった。

茨城の学校では、同級生の人数が1学年40人4クラス合計約120人いたが、転校先の秋葉原の学校には23人2クラス、合計46人と三分の一程度の人数になった。全校生徒の合計でも240~250人程度の人数しかいないため、転校生だった私は、かなり目立つ存在になってしまった。

茨城の取手市とは違い、転校先の秋葉原の学校は、秋葉原の電気街まで徒歩1分といった立地の、とても刺激的な環境だった。
取手市には、ゲームセンターもなく、アーケードゲームといえばハイスコアガールに出てくるような駄菓子屋の入り口にコインゲームが置いてある程度だったが、秋葉原には巨大なビル一棟のゲームセンターがあったりと、子供だった私は天変地異が起こったような衝撃だった。
今でこそ秋葉原の電気街は、サブカルチャーの町として、世界的に有名になったが、私が小学校に通っていた1990年当時は、石丸電気やヤマダ電機といった電気屋が軒を連ねていた。

当時は、バブル崩壊前のバブル景気の過熱が絶頂の時で、秋葉原近辺の土地は、地上げが盛んで、もともと住んでいた人が土地を売って引っ越すことはあっても、私のように秋葉原に引っ越してくる例はほとんどなかった。

転校初日の朝礼で全校生徒の前で朝礼台に上り、転校のあいさつをした。

全校生徒の合計でも前の学校の2学年分しかいないこの学校では、小学校1年生から小学校6年生までが、みんな顔見知りのような状態で、少し戸惑いと疎外感を感じた。

この学校は、千代田区立の公立校ではあるのだが、地元の子供だけが通っているわけではなく、足立区や葛飾区、墨田区などに住んでいる家庭の子も多く、地元地域の公立小学校にはあまり通わせたくないと思っている家庭の子供が越境制度を使って千代田区の公立学校に通わせている子供たちが半分近くいた。

越境の子たちの中には、地元の人に住所を借りてまで電車で子供を通わせている家庭だった。越境のどの家庭も基本的には教育熱心な家庭が多い。逆に近所に住んでいた子たちは、ただ近いから近所の公立小学校に通っているだけの家庭がほとんどで、越境で通わせている子と、地元の家の子では、学力差がかなりあった。

私の家の両親は、基本的に放任主義で、特に教育熱心なわけではなく、塾に通わせていれば安心し、あとは放置といった感じだったため、勉強が好きではない私は、塾に通ったふりをし、さぼるようになっていった。


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