茨城から秋葉原に転校して育った高卒社長のやりたい放題に生きてきた人生 第1話
2021年9月現在、私は現在42歳。創業してから15年ほどたつ、私と役員含め、従業員6人の小さな会社の社長をしている。
生まれは茨城県取手市、育ちは東京都千代田区外神田に位置する秋葉原近辺。
公立の小学校、中学校に通い、都立高校を卒業する時に進路を決める際、進学出来る学力もなく、かといって就職する気にもなれず、足りない脳みそで自分の進路を考えた結果、高校在学中にアルバイトしてお金を貯め、高校卒業してすぐの18歳の6月にスノーボードをするために、夏でもスノーボードが出来るニュージーランドへ行き、3か月間生活をした。
その後、カナダやスイス等へ数か月間滞在しながらスノーボード三昧の生活をしていた。
スノーボード三昧の生活をするのは24歳までという親との約束の期限があったため、24歳になった時に、務めようかどうか真剣に考えたのだが、自分の将来の夢というか、やりたいことを考えたら、体が動くうちに引退し、スノーボード三昧の生活を送るという目標ができた。
それを叶えるためには会社に就職して過ごしていたら無理だと悟り、27歳までアルバイトをして、お金をため、弟と一緒に勢いで会社を設立して今に至る。
私にとっては普通に歩んできた普通の人生だ。
しかし最近、どうやら自分は世間一般から見たらちょっとずれていると感じることがある。
ずれたまま人生を生きてきたのだとすると、自分という人間はどのようにしてずれてしまったのか。別に後悔しているわけでもないし、むしろ今のところ楽しく人生を過ごしてはいるのだが、自分という人間を探索するために、柄ではないのだが、自分の人生を振り返るために文章にしてみようと思う。
私は1979年3月6日に茨城県取手市で産まれた。
私の母方の実家が茨城県取手市にり、祖父の住む一軒家の隣に、私たち家族の住む二階建ての一軒家があった。
私の父は、サラリーマンをしており、当時、茨城県の取手市から、新宿へ片道2時間ほどかかる道のりを毎日通っていた。
私の祖父は、父方、母方共に会社経営をしていた。
2人の祖父は、事業で成功を収めており、今思えば父も母も、そして私も、周りからは良い家庭環境で育ったいわゆるボンボンに見えていたはずだと思う。
私の住む家のまわりには親戚が多く住んでいた。その理由は、戦後にラバール(今のパプアニューギニア)から帰国した私の母方の祖父が起業し、事業で成功を収めた祖父は、私の両親や母の兄などに自宅近所の土地を分け与え、住まわせ、親戚同士のご近所さんが暮らすこととなり、親戚一同自然豊かな茨城県取手市の外れで和気藹々と仲良く暮らしていた。
私が4歳の時に、母は次男を身ごもり、私は父型の実家のある東京都の神田近辺にある従妹の家に預けられた。
父方の実家も、すでに亡くなっていた父方の祖父がネジの卸問屋の事業で成功をおさめ、その事業を父の兄(私の叔父にあたる)が継いだ。その叔父は、バブルで一儲けした際に千代田区の神田近辺に自社ビルを建て、そのビルの最上階に私の従兄弟2人とその両親と家族4人で住んでいて、その叔父の自宅に、次男が生まれるまで預けられた。
そしてその二年後、三男が生まれ、私は三人兄弟の長男として、成長していった。
私の住んでいた家と祖父の住む家の間には、15メートルほどのプールがあり、夏には庭にあるプールで遊び、誕生日やクリスマスにはその時当時大流行していたファミコンやPCエンジンを買い与えてもらい、何不自由なくやりたいことをとことんやり、小学校3年生まで、取手市で親戚や友達と過ごしていた。
その当時は自宅にプールがある環境が当たり前だったが、今思うととんでもないボンボンだったのだと思う。
小学校4年になる時に、父方の母(祖母にあたる)が体調を崩し、次男が生まれたときに預けられた叔父の家から車で10分ほどの場所、秋葉原近辺にある祖母の住まいに引っ越すことになった。
茨城県取手市の片田舎から、打って変わって東京都千代田区にある秋葉原近辺にある父の実家へ引っ越すことになり、私は少しブルーになった。