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剃刀、薄膜、人間性

作品は、作品としてしか存在の仕方を知らないまま存在しはじめたものだ。
作品は、何よりも実在している。
我々の仮定的実在性の微かな影は、あれらの真っ白な光によるものだろう。

自身の仮定を、実在へと具現する営み、これを芸術という。
自身の仮定を、補強・拡張するものを具現する営み、これを工学という。
その仮定とは、即ち人類の自我である。
非質量・非実体の自我を、質量・体積の具現の場へ産み落とそうとする時、自我は必然的に分裂する。
見る自我と見られる自我とに裂け別れるのである。
主体としての私は、客体としての私に俯瞰され、表現される。
人間的行為というのは、自我の重ね合わせによって成り立っている。
ではその人間という仮定はどのように行われるのか。
それは、言語に他ならないであろう。

かつての祖先が、森と、その木々と、獣と、虫と、大地と、空や天候のように、人間の意識外で活動していた巨大な実体を、細々に、仮定的に分裂せしめたのは、紛れもなく言語である。
言語は、非実体の場においては剃刀のように振る舞い、実体ある自然を裂き、非実体と実体の境界上において、裂けて独立したそれらを覆う不可視の薄膜として振る舞い、実体の場においては形を持った文字となる。


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