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エッセイ 粟立つ
粟立つ。
髪の毛がさかだち、
全身の毛穴が開き、
感情の回路が開き、
涙腺が開く。
日常の会話、
映画の中のセリフ、
記憶の中のワンシーン。
突然、僕の琴線にふれる。
そして、粟立つ。
感動より先に、粟立つ。
感動はあとから、ゆっくり、やってくる。
粟立つと、全身がしびれるようになり、
一瞬、恍惚状態となる。
*
辞書で調べると、粟立つとは、
寒さや恐ろしさのために、体の毛穴がふくれて、
皮膚に粟粒ができたようになる。鳥肌になる。
とある。
確かに僕も、恐怖で髪が逆立ち、
粟立つという経験もある。
でもこんな経験は少ないのではないか。
僕の中では、
感動を先触れするときに
粟立つような気がする。
それは、僕への知らせ。
僕にとって、喜ばしいものを知らせてくれる予告。
例えば、本屋で本棚を見て回っているときに、
ふと手にした本で、
なぜか突然、粟立つことがある。
例えば、映画のタイトルをながめていた時に、
なぜか突然、粟立つことがある。
ぞっと、するのではない。
髪の毛の毛穴が開く感覚がして、
ぞわぞわと頭のてっぺんから、身体に軽い電気が走り、
それを読めと、それを観ろと、それをやれと、
なんとなくいわれている。そんな気がする。
気が進まない、足が向かない、手がでない、
そんなときは、その通りにする。
考えるではなく、感じる。
孔子はこう言われた。
わたしは十五歳で学問に志し、
三十になって独立した立場を持ち、
四十になってあれこれと迷わず、
五十になって天命をわきまえ、
六十になって人のことばがすなおに聞かれ、
七十になると思うままにふるまって
それで道をはずれないようになった。
巻第一 為政第二 四 出典
天命とは、天のさだめごと。
人間の力を超えた運命としての意味をいう。
孔子の言葉の意味はわからないけど、
わからなくても、感じることが大切なのだ。
僕の行きたくないと感じることを、
僕が行かないといわなくても、
僕は行かなくてもよくなってゆく。
そして、感じることに従えれば、
道をはずれないのだと思う。