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取捨選択をするのは

庭にいるといろんな鳥の鳴き声が聞こえる。
何の鳥だろうと鳴き声を検索しようとしたけれど、なかなか上手くいかない。
ホーホケキョのようにある程度の知名度がないと検索しても引っかからない。
私の耳がおかしいのか、カタカナへの変換の仕方がおかしいのか。
試しに夫に「あの鳥の鳴き声はなんて聞こえる?」と聞いてみた。すると私とは全く違うカタカナに変換した。

1年程前、2人で庭にいたとき、私は鳥の鳴き声を聞いていて、夫は道路向こうにある空き地でゲートボールをしているお年寄りたちの声を聞いていた。「休日なのに。」と。
幼稚園の近くに住む人が苦情を言っているのと同じだ。以前テレビでそのニュースを見ていた時は「そんなの気にならない。」と言っていた。
夫は息子が大きくなり、小さな子供の声に慣れ、気にならなくなったのだと思う。

人は全ての音を聞いていても自然と取捨選択をしているらしい。その判断基準は何だろうか。
意識して耳をすませると確かにたくさんの音が聞こえてくる。春休みの子供の声やお年寄りの声、鳥の声、車の音、工事の音、、ヘリコプターの音がすると何故か探してしまう。

「死に近い人は神様に近いんだから、あのお年寄りたちは神様だよ。神々は遊んでるんだよ。」
それ以来、夫は「神々の遊びが始まった。」と言うようになった。
今では彼ら神々の声は夫の耳に入らなくなった。


同じように、目にするものも夫とは違う。
2人で散歩していると、私は花や雲、鳥などを見ている。夫はすれ違う車、建設中の家、汚れた壁などを見ている。
夫は車好きで、運転中でも「あの車どう?」と聞いてくる。私も当たり前にその一瞬すれ違うだけの車を見ているはずと思っている。
建設中の家を見ては間取りを想像し、汚れた壁を見ては「ケルヒャーしたい。」と呟く。

テレビやSNS、仕事、趣味などでも人は見たいものを見ている。気になるものを見ている。みんな違う。

私はドラマを見ていても、光の差し込むタイミングや音楽の効果的な使い方、奥の方にいる人の表情、小物、絵などに目が行く。
堤幸彦監督のトリックに出てくる看板や半紙の文字、福田雄一監督のドラマでのつられて笑っちゃう俳優さんなどは、最高に楽しい。

人は関心を寄せるものに目が行き、そこから価値観が生まれる。そして新しいワクワクに出会うと見えてくるものが変わり、今まで見ていたものが色褪せてやがて目に入らなくなる。
このnoteでもいろんな方が私の noteにやってきては去っていく。くるもの拒まず去るもの追わず。

ところで取捨選択はいったい誰がやっているんだろう。私は意識して取捨選択をしたことはない。


そんなことより今はチュッチュキチュカチュと鳴く鳥の正体を掴みたい。


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