「発達障害」という不思議な世界
どうも発達障害のグレーゾーンにいる者です
わたくし、ハココ、何を隠そう(もともと隠してない)、特性や障害やトラウマで生活そのものが困難の部類にいて、毎日の通勤や規則正しい生活自体が、どう頑張っても長期的にできないという社会不適合者。
それが申し訳ない気持ちなので、個人的には社会不適合でなんの役にも立っていないのに、この権利ほしい!差別されたくない!配慮してください!って言えるような精神がなくて(そんなの、図太い神経だとか図々しいとか思ってしまう)、なんら社会に寄与しない還元できるものもない、子孫も残さないから少子化にも貢献しない、何にも無い人間なのに、社会の端っこにいさせていただけているのが、もう、奇跡的!ありがたい!って感覚で生きていて。
これらが、配慮される側ではあんまり共感してもらえない考えらしく、正直、権利とかを主張して、当然に配慮されることを望んで良い理由が実は分からないとかいう気持ちでいる、ハココはたぶんマイノリティの中でもマイノリティな存在である(それともみんな無理して声を張ってるのかな?)。
そんなハココがした配慮による理不尽体験
まず、前置きと言うか、配慮に対するスタンスを一応書いて置く。
実経験から、20年必死に必死に努力して出来なかったことがあるので、出来ないことはどんなに頑張っても出来るようにはならないと思います(ハココのどんなに努力しても出来ないことは、最悪なことに基本の生活を基本に沿って送ること。朝起きて夜寝て日中に家事やその他をするみたいなことを毎日すること)。
出来ない事柄が、誰かにそれを代わってもらうことで解決可能で、変わってくれる側(配慮する側)にストレスにならないなら、変わってもらっての解決に、問題なんてあるはもがないです。
ただ、代わりにやってくれるひとが、当然の配慮だとしてくれても、それが当然でないことを、頭の端には置いておいた方がいいと思います。代わってもらったことは、そのひとが本来しないはずのことになっていたかもしれない。それを代わってもらえたことを、当然であるという態度ってどうなの?って思うのです。心がすごーくひろーいひと、人権意識がたっかーいひと、配慮するひとのことが人間として好きとか尊敬できる、配慮される側が負担してでも配慮された側の仕事に価値がめちゃくちゃある状態、とかでないと、感謝されることもない配慮を負担に思われても仕方ないので。
余談。
きっと、自分だけが大変だとかなら、こんな経済状況の社会で、社会不適合者が生活できていること自体、正直、本当に有り難くて仕方ない!から、これ以上の何たらは要求しません。
現在、就労不可ですし、この先可になるかもわかりませんし。そんな人間にこれ以上なんて望むことがどうしてできましょうか!
と思うのだけれど、ネット上で、配慮を受ける側がそんな態度だからこんななんだ!と悲観してらっしゃって。
でも、ハココには正直なにが不満なのかすら理解出来ていないのですが……。
もしかしたら、わたしのこの感情も、性被害で尊厳もろともぶっ壊れたままでいるせいなのかな?とか考えますが。
自分の尊厳が守られないことが当然の状況を経験してしまったせいで。
現在のことを、住む場所ある、食事摂れる、水分も自由に取れる、衣服の自由、お風呂も自由、娯楽もある(図書館とネット環境)、自分のスマホ、個人の自由がある、生きていける、素晴らしい!ありがとう!って思ってるんです。
配慮を当然に出来る健常者なんていねえだろ
当然の配慮を、当然のこととして出来るひとが、この人権意識がめちゃくちゃ低い日本にどれだけいると考えているのか、考えたことはありますか?
考えたこともない。
配慮に求められることくらい、健常者は簡単に出来ることなんだし、当然に出来るのが当然でしょうに。
とか言う親に育てられた子の価値観が、かわいそうに思う今日この頃。
出来ないことが代わりにやってもらうことが当然では、たとえ自分に出来ないことでもそのひとは、自分と違って出来るようになれたんだし、出来るってことは、そのひとにとってはそんなに大変でもないってことでしょう?とか思うかもしれない。
それが、配慮される側に出来ないことであることに異論はないですが、やってもらっている作業内容が大したことじゃないか、代わることに負担を感じていないか、は配慮する側の気持ちや会得にかけた努力が反映されるべきです。
普通のひとという一括りに、様々なひとがいる。同じひとつの作業の難易度はやるひとによって違う。簡単にできるひとも、努力してどうにか出来るようになったひともいる。
正直、配慮して当然の態度のひとは、配慮する側が負担に感じたり苦痛に思うかもしれない、という当然のことを無視している、無いことにしている、見ないフリで気にしないフリをしていると感じてしまうんです。
出来ないことを、周囲が自然と手伝ってくれる、助けてくれる、そして良好な関係でいられる、のは、支援のある学校の教師、放デイの療育してくれる職員、支援員、福祉のひと、系に囲まれていると、通常で備わっていたることもありでしょう。それは、彼らはそれが仕事なので、当然です。
でも、もし、療育を離れ、会社に入ったら、配慮も業務として別途賃金がプラスされるとかでない限り、別の社員に少し肩代わりしてもらうことを、自分の仕事じゃないのに無賃でやるのは割に合わない、と考えるひと、けっこういます。
自分の仕事ではないことを余計にやるのだから、当然不満があるでしょうに。
見たことあるかどうかわかんないですけど、障害者も発達障害も社会の邪魔!って大声で発信しているひと、けっこういんですよ……。
特別に程度が酷いひとだったのか?
と言うと、バリバリに特性が発揮とかがあるわけでもなくて、割とふつーな発達の偏りで、特性で、それがもう我慢ならない!って言われる可能性が、全然あるんですよね……。
当事者は、配慮が当然の中で生きてくると、何が配慮であったかすら、知らないと言うことも、ありますので、出来ないこと、普通ではない自分を知ることが、社会や会社で働くのには、大切です。
特性を活かして、仕事を得られて、そのスキルがかなりのもので、しっかりと発揮できるなら、少しの配慮に誰も文句は言わないでしょう。配慮して、全体として仕事に良い結果になるなら。
人間としてもし最悪嫌われても、職場ではやっていけるし、自活もできます。
得意なことを伸ばす、苦手はあえて頑張らないで、得意を伸ばす!に全力を注いでも、天才的な発達障害は稀だし、もしそれが健常者とそこまで変わらないなら、どうなるのかなあ……。って、ことがすごく怖い。
キラキラ素敵なひとたちの社会って、なかなか実現できなそうなんで、理想の社会を期待するのは、ほどほどにした方がいいと思ったり、するんですけど……(まあ、個人の意見です)。
当然の配慮ができないのが、人間性の問題、やさしさだとかが足りないって言うなら、人間自体の過大評価だと思う。
やさしくないひとなんて、普通にたくさんいて当然だし。
もちろん当然、知ってると思いますけど……。
出来ることは増やして損はないと思う
でも、なんて言うか、わたしとしては、努力すれば出来ることになるなら、出来るように努力した方がいいと思っている。
努力すればできるって体験も自信になるし、出来ないことも工夫次第で出来ることになるかもしれない。
配慮される側が、配慮されるのが当然で、本当は出来ることになったことかもしれないことも、たくさん努力しないとできるようにならないから、努力にかける時間が無駄。その分得意を伸ばしてって、出来る可能性のあることも出来ないままでいるのは、それで本当に困らないの?って思うんです。
配慮をすることって、簡単なことじゃないのに、配慮が必要なひとや、自分の子供に配慮して欲しい親は、簡単にそれが叶うと考えているかのような発信をしていて、それを配慮する側はどう納得するんだろう?って思っています。
出来る可能性すら探さないで出来ないと当然に言ってくるのと、本当に出来ないことであったと誰もが納得するくらい出来ない証明があるひとの出来ないこと。どちらの方がより手伝いたい、代わりにやることに不満を覚えないで代わりにやってもらえるのか。
障害や、発達の偏り、関係なく、自分がやるから気にしなくていいよと、どちらの方が言ってもらえると思いますか?
明らかに出来ないこと、例えば身体的な障害とかの理由でのそれを、敢えてやらせる残酷さが明白です。
でも、見えないから、努力が足りないって思われる。
そのひとの特性に理解があるひとって最初には誰もいないでしょう。親だって知らないでしょう。
はじめましての他人はもっと知らない。
障害者雇用の現場より
ちなみに、障害者雇用で寄せられる苦情に、配慮すべき事項が聞かされていたものと違う、が結構あるみたいなんです。
いままで、特別に配慮されていたことだって知らないで、それはどこにでも当然にあるなんて勘違いしていたからの、トラブル。
周囲の配慮によって可能だったことや、普通ではあり得ないことを、当然に、自分がしていいこと、と思ってしまっている例。
少しやったら休むことを当然にしてきたら、どこでも当然にしていいと思って、配慮事項と考えなかった結果、勤務中に勝手に休んでる、という苦情が来ました。
それは、知らされずにいて就職を手伝った方にまで迷惑が掛かり、その配慮が必要と知らずに雇った側も迷惑になります。
配慮してもらえる事柄は、当然に配慮されることじゃないことは、起業でもしない限り、当然にならないので、しっかり教えるべきことです。
自分にどんな配慮を周囲に求めるのか、つまり自分がいつも周囲にどんな配慮を当然にやってもらってきたのか、を知らないで、円満に雇用されることは、欲しい配慮をもらうことは、残念ながら出来ません。
自分にどんなことが出来ないのか、自分の普通のどこが普通でないのか。知らないでいるのは、幸せとは言い切れない。
でも、まあ、養育者が一番すべきなのは、あなたは大切、と問答無用で言い続けることですよね。
聞いてくれなくても刷り込んだれ!って。
配慮してその理不尽に悔しくて泣いたこと
というのも、わたしは学習面で困ったという経験がなく、学習そのものが楽しくてしかたないことだった。不得意の教科がなかった子供です。
興味があることをとことん!な特性が、学習にバリバリに発揮されてのケースです。
ので、授業では模範解答しちゃえる子になっていて、教師にこれやっておいて、とか言われる児童だったし、便利だからクラス委員にされて、それもこなしてたし、小学6年生は児童会長だった。なんて、マジやべえ過去。
つまりは、なんて言いましょうか、問答無用で、出来ない子の配慮をする側、頼まれる立場にあったりしたんです(なのに通知表の協調性の評価の低いことと言ったら。涙)。
配慮させられたことに本気で腹が立って、悔しくて、悲しくて、でも仕方ないって思おうとして、でもあとでマジ泣きすることになった。
それは、他の子ができないことを肩代わりしたせいで、体験できなくなった実験について。
きっと大したことじゃないって言われることです。
でも、特性のせいか、恨みが募って、30年近くたっても、悔しい!と思っています。
配慮という理不尽に晒されたのが、グレーゾーンのハココだった
実験の内容は、教室の奥で太陽の光を反対の窓側に立てかけた板に鏡で反射させて、その反射させて光に熱があることを触れて感じる、というもの。
班に分かれてやったのだけれど、わたしのいる班には、わたししか所定の位置に光を反射させることができなかった。班は席順で割り振られた、わたしの意志と関係ないグループで。
他のグループは代わる代わるにやっていて、みんなすごく楽しそう。わたしも早くあの反射の太陽の熱を触ってみたい!
その実験内容を聞いたときから、ものすごくワクワクして、楽しみで仕方なかった。どんな感じかな?どれくらいあったかいのかな?
でも、わたしにそれを体験する番は回ってこなかった。
班の他の子に、わたしもあの光を触りたいと伝えても、他の子は所定の板に反射した光をあてられない。
でも、それをできないのに、その子たちはわたしのおかげで、あの光に触れて、実験の結果を実体験してる。
わたしはその子たちに体験させることしかできないでいる。
どうにか体験したくて、こうすればいいのだ、と何度説明してもできないし、このままの角度で動かさないで持っていてね、と言っても、わたしが窓際に行く前に反射した光は、別のところにいってしまう。
なんで、動かしたの? と聞いても、要領の得ないことを言う。
どうにかやってみようという気配すらないし、工夫しようともしないで。
できないんだもん!ハココちゃんはできるからやってよ!
と、太陽の熱が反射した光を触って、わあ!あったかいね!とはしゃぐ、その子たちを見ているだけの、わたし。
おもしろいからと、その子たちは存分に楽しんだ。
せめて、どんな感じか詳しく聞こうと思った。けど、あったかい。としか言わない。どれくらい?どんな感じに?
わたしは、反射させた太陽光。鏡は熱も反射させるらしくて、反射させた太陽光に触れるとあったかく感じるくらいの熱がある、らしい。という体験が伴わない、ただの文の知識だった。
わたしは最後までずっと、その子たちの出来ないをやるだけで、光と熱に触れること、すごくしたかったことができないままだった。
その子たちはわざとやったんじゃないか?
それにしてはあまりにも自然に見えた。わざとにしては、不自然に。でもそう見えただけなのか?
けど、実際、その子たちは、勉強とかできなくて、成績は一番下とかで、得意な科目もなくて、運動も苦手な子で、発言することも得意じゃなくて、今まで班で話し合うときも全然意見を言ったりしなくて、わたしの意見しかなくて、話し合えたこともないし、班で書いて提出するものもわたしが書くことにされて、何を書くのか相談しても、わかんない、しか言わないで、普通に世間話みたいな会話もしない。
わたし以外の三人がみんなそう。先生が決めた席順だったのだが、最初に感じた、おかしいな、が気のせいでない事に気づく。
どうしてか、勉強が全然出来ない子たち(しかもみんなが知ってる公然のワースト3)と、普通に出来るわたしでの組み合わせにされていた。
他の班はバランスが取れてる。出来る子、出来ない子、普通の子、普通の子、みたいに分けられてるのに、明らかにおかしいじゃんか!
なんで? なんで、わたしには、勉強することに、何にもしないひとのお世話がついてきているのか。
意見も言ってもらえないから、班での話し合いがわたしはできないでいた。
班でプリントやるのにも、相談してもわかんないしか言われないから、わたしがひとりでやってる。
それでも別に良かったのだけれども。
あの実験!わたしは何にもしたいことができなかった!すごくしたかったのに!他の子は、出来ないからってやらなくて、わたしがやれないことに謝りもしない!
下校の時に思いっきり泣きました。
どう訴えればいいのか、わからなかった。わたしができなかったことを不満に思っていることを、言っていいのかもわからない。どうしてこんなことになっているのかもわからない。
ただ、あまりにも理不尽に思えた。いままで、席順の不自然さに気づいてはいても、偶然かな、とか思ったし、したいことがそこまで制限されていると感じることもなかった。
けど、自分のすごくしたいが、まったくできなかった!
わんわん泣いた。なんで?なんで?なんで?
どうしてやらせてもらえなかったの?
意地悪されたの?でも、本当にできないなら、仕方ないし……。
わんわん泣き続けて、通常でも30分以上かかる通学路をもっと時間をかけて歩いて、家に着くころ泣き止んで。
あの席順には、とにかく悪意がある!とハココは結論付けました。
ちなみに、現在は、先生の意図として、ハココなら、あの三人がまとまっていても、学習に困らないし、成績に影響がないことを見越してだと考えます。
ワースト3の三人は、飛びぬけて、どの教科も出来ない子で、運動も、音楽も、図工も、道徳の意見発表にも、なんにも意見を言わないし、なんかよくわかんないときに、変なことを言うような子でした。
他の班にこの中の誰かが一人でも混ざったら、班の運営が上手くいかなくなるような、困った子になってしまう子。
だから、三人をまとめて同じ班にして、ひとりでも勉強に困らない、話し合わなくても、そこそこの意見を班の意見として発表できる、この子たちを連れて課外学習に行くのにも引率できそう(実際に、連れて行ったり案内したりして、時間厳守もした)。だからハココにお願いされた可能性を考える。
たぶん、担任も困っていたのだろう。どうにも難しい児童だな、と。
ちなみに、結果、家に帰った当時のハココはあまりにもな損をしたと思ったので、5年生になった頃から先生に文句があるときは、自主学習(自学)という名のしたい勉強をしてきなさい用のノートに、感じたこととしての作文という宿題をすることにした。
このことで、とにかく納得がいかない。教師たちが押し付けている理不尽。どうしてこうしなけばならなかった?なんのために?必要性があったのか?これについては、事実としてこのような間違いもある。だからこう思っている。と言う作文と言う先生への不満の文章。
とても嫌な児童だろう。今思い出しても、大人なら反論できるという内容でもない。事実として、本当に大人が間違っていたことで、それを提示して、どうしてそう思うのかを書き、それを理不尽!と思ったわたしの気持ちを、悔しい!あんたら、その発言のおかしさに気づいてないの?とか、書いているものだ。
作文には、いつもは、自学に対して、もう少し勉強って感じのことしなよ、という、申し訳程度の〇しかつかないかった、ハココ(実際、勉強らしいことじゃなくて、とりあえず1ページ、最低半ページを埋めるだけを目標にしてた)の自主学習ノートに、五重丸よりも多いがつけられた。
かなり変わった児童だと思われただろうし、不満を伝えられているから、問題ない、とされたかもしれない。
三十年近く前のことだけれども、いまでも昨日のことのように、思い出す。
ものすごく不公平だったって。
あの実験を、あの距離ほど反射させる距離をとって、どのくらいの熱が伝わったのか、結局現在も体験できていない。
思い出すと、いまだに怒りがこみ上げる。子供のハココの怒り。
こだわりの強さが、やべえ。と思いますが。
いま当時のその理不尽について思うこと
当時、発達障害という概念はなかった。
支援教室はあったけれど、授業中に騒ぐことがいけないと理解できない子や、知的障害の子だけが対象だった。
発達の偏りということを誰も知らない。
勉強が出来ない子、なんかうまくやれない子。
どう扱っていいかわからない困ったなあな子。
もしかしたら、ハココもそうだったのかもしれない。そうだとしたら、困った子たちの監督者としても上手くやれて、ひとりで学習することにも学力に問題がなかった、ものすごい適任者で、同類なのだし、都合が良かったのだろう。
そして、それでも、まあ仕方ない、なんて思われていたのかもしれない。
ハココは優等生の見本みたいな優等生だった。
勉強に苦手がない。運動も何をやっても学年で上位。図工は得意。音楽も得意。リコーダーは楽譜をみれば、学年的にちょうどいいくらいの曲な初見でもそれなりに吹ける。
授業中、みんなが答えに迷う問題の正答は、ハココに回ってくることが、クラス内でで当然とされていた。
協調性もリーダーシップもある人気者でガチの優等生の男子児童よりも、運動以外の成績はハココが上で、その子と近所で放課後はよく一緒に遊んでいて、その男子と仲がいいという立場が、ハココに優等生としての価値を余計に上乗せした。ふたりでクラス委員をやることもよくあった。
友達、というかクラスメイトに変な質問をされて戸惑ったりした。
その仲良し男子のことじゃない。ハココがその子に何にも思っていなくて、ただの友達なのは明らか過ぎた。
ハココちゃんって、テストでどれくらい儲かってるの?何がもらえるの?
さっぱりわからなくて、どういう意味か尋ねると、100点のテストに、プレゼントの約束、お小遣いアップ、臨時収入、などの価値があるから、みんなは100点を狙っているらしい、という話だった。
何ももらっていないことを伝えると、嘘だー!だって、そんなの100点取るのに頑張るの馬鹿みたいじゃん!本当はあるんでしょう?
本当にそんな報酬はなかった。それに、特別頑張って勉強したつもりもなかった。新しいことを知るのが楽しいから、授業をとにかく真面目に受けていただけ。
ハココちゃんって塾はどこ?それとも公文?
行ってないと伝える。うそー!行ってないのにそんなに出来る訳ないじゃん!本当のこと教えてよ?私も一緒に通いたいの、ハココちゃんみたいに勉強できるようになりたいから。
塾にも公文にも本当に通っていないから、そう言うしかなかった。
ハココちゃんは習字どこで習ってるの?
三年生のときから、硬筆、毛筆で、クラスで金賞をもらっていたから、聞かれた。
習ってない。と伝える。嘘でしょ!だって、私は毎週お習字通ってるのに金賞もらったことないのに!本当は通ってるんでしょ?
本当に習字は習っていない。その証拠に、普段の字は、下手ではないけれど特別上手くもない。文字がいつでも綺麗な習字を習っていることは違う。お手本の真似がちょっと上手いだけ。
ハココは習い事を一つだけしていた。市の合唱団。アルトかメゾソプラノのパートの担当。週に一度、公民館で練習する。市の立派なホールで年に一度定期演奏会がある。市の行事で合唱を披露することもある。お揃いの衣装もかわいいし、合唱はすごく楽しい。
それについてを、誰も羨ましがりもしなかった。
ハココの勉強法を聞かれたとき、本当に困った。
自宅では宿題以外をやっていない。授業をしっかり聞いて、集中して、しっかり見やすい、板書をただ書き写すのではない、自分流のノートを授業中に作るだけ。チャレンジだとか通信講座もやってない。
本当だった。
ねえ、今日のテスト勉強、何ページくらいやったの?私は3ページ。ハココちゃんは?
六年生のときだった。はじめて知った。テストって、テストのための勉強をするものなの!?すごく驚いた。そしてもしかしたら今日のテストがいつもと違うすごく難しいものかもしれないと考えた。
でも、いつも通りの社会の単元終りのテストだった。ハココは100点だった。その子に言えないことかもしれないって思った。
テスト勉強しないで100点がデフォルトなのは、普通のことではなかったのか?どうしてかわからなかった。テスト勉強を3ページもやったその子は、80点に届いていなかった。なんか、変だな?って思う。おかしいな。なんか変だな。
クラスの女の子と遊ぶことがなくなっていた。
その子たちと遊ぶのが全然楽しくない。さっぱりわからないけれど、急に下級生を仲間に入れて、その子のための遊びに変えたり、ただお話するだけの休み時間になってた。
つまらなくて、五年生の頃からクラスの垣根のない男子のドッヂボールに混ざった。投げるのは威力はないから攻撃はしない。キャッチを専門にした。全力で投げたボールをハココにキャッチさせないことを、目標にする子もいたくらい、防御に特化してした、しっかりと戦力だった。内野にハココひとりからの逆転もあったくらい。
なんでとれるんだよ、このボールが!お前、さては女じゃないんだろ!女に取れるようなボール投げてるのはそっちじゃん!すっごく楽しかった。
よくわからないけど、五年生六年生の合唱団の定期演奏会に、男子が一人で最前列に座ってた。仲良しの子。でも合唱に興味ないのになんでくるんだろ。まあいいや。
きっと、ハココの気づかないところで、ハココは変な子って言われてもいただろうし、ハココは女の子の話が全然できなくてつまんなかっただろうし、男子とドッヂボールしてるのが他の子には意味わからなかっただろう。
そして、なぜハココは勉強してないなんて嘘つくのか?って、思った子もいるかもしれないし、放課後に遊ぶ相手をいつも探しているし、本当に遊んでいるし、塾に本当に行ってないのかも?でもそんなわけない。
そこで出てきたのは、ハココちゃんって有名な家庭教師がついてるんだって。という根も葉もない噂だった。
しかし、噂が事実でないことを、仲良しの成績2番の男子が証明してしまう。
ハココは授業受けるまで、その日の内容全然知らないよ?授業前には新しく出る言葉の読み方も間違えてるし。あいつ、マジでただ頭がいいだけなんだよ。普段は勉強なんて全然してない。授業だけだぜ?自学のノートすら大した内容ねえの。
2番手が1番手のことについて、勉強をしていない証言をするメリットがなくて、彼が嘘でそんなことを言ったりしないという彼への信頼によって、事実であるといこと知った他児童は、ドン引だった。
いつも授業の前やあとに授業について、仲良しのその男子と少し話していた。すごく有意義な時間。
少数の単元が始まる前に、ねえ、これ「こすう」って読むのかな?ちげえよ「しょうすう」って読むの。なんで知ってるの?まだ授業でやってないのに。わたし騙されないぞお!絶対こすうだ!という授業前の会話。
授業後、本当に「しょうすう」だった。ねえなんでわかったの?××くんはやっぱり頭がいいんだなあ。習ってなくても読めるんだもんね!わたしの勘は外れだったしさ!
そのときの、彼のなんか部妙な表情の意味が本気で分からなかった。
彼にとって、授業だけで今日の部分をすっかり、一番出来る存在になっていたハココがわからないと思っただろう。
けど、彼はハココが嘘をついていない証人にいつも名乗り出てくれた。誠実に、戦いたいって思っていたのだろう。ハココの能力に誤魔化しがないという状態を作って、絶対に勝つ!って思ってくれた。
勉強せずにすべてが得意科目の化け物的に頭の良い変な奴。何でも出来てすごい。彼は友人としてライバルとして、切磋琢磨することを楽しんでくれた。
そんな、ありがたい存在だったこと、気づかなかった、当時。
発達の偏りを疑った。そして気づいた
再び、あの理不尽体験について考える
あなたが、もし、発達障害に関りがあって、その親だったりして。
発達に偏りがあったりで、それが普通に頑張ったくらいで出来ないことなら、出来る子が代わりにやってあげればいい、それだけのこと。
って言うなら、わたしは鏡で光を反射させる係だけをやるしかない。
それが当然であるなら、わたしの学習に対して持っていた気持ちとこだわり、実際に体験したかった強い思い、そういった、別のことができる、出来ない子より多くのことが出来る方の、そのこだわりによる苦しい思いなんて、あなたにとっては、たかがそれくらいのことなんでしょう。
わたしの気持ちを無視した発言ですが、それで良いんですよね?
わたしは、その子の出来ないことが容易く出来たから、やってあげる側でいることが、わたしのすべきことなんですよね?
学習が、勉強が、ものすごく好きだった。
その実験をちゃんと体験したかった。
本当にやりたいことに執着する気持ちは、よくある特性として理解していただけるかと思うのですが、わたしがそのものすごいこだわりをどう飲み込んんだのかもどうでもいい類のことなんでしょうね。だって、わたしはそれをやるにが当然だったっていうんだから。
それが、わたしにとって、どんなに辛かったか、悔しかったか。
約三十年が経過したいまでも、昨日のことのように悔しくて悲しくて、あまりの理不尽に泣いたことも、ありありと思い出せる。
その気持ちも、出来ない子のために、仕方ないものなんですか?
発達の偏りが理由で、そのことに対して興味もなっかた子はすごく楽しんで、発達のこだわりから、説明を聞いた瞬間から、そもそも授業内容すべてに興味しかない、その子の当時一番の楽しい事柄の一部を体験できなかった。
そのわたしの気持ちは無視?
配慮する側に、発達の偏りによるこだわりがある状態なんて、あり得ない状況だとか考えたりするひともいるかもですが。確かに、現在は、小学校でそういう事態になること自体は、可能性は減っていると思います。
当時の話、だから、現実として、いまの問題として語ることに意味がないって、思われるかもですが。
大人の発達障害さんは、あまりにも見過ごされている
現在も、ハココは、自分より出来ないことが多いひとのサポートに回ることが結構あります。
たぶん、ハココが社会に適合しない人間だと、見抜いてるひとは少ないです。わたしが、自分から出来ないことが多いのだと言っても、嘘だ!って反応がばかりが返ってくる。
近所では、やさしそうで、しっかりしたお嬢さんって言われる。お嬢さんって年齢ではないですし、その言葉であるから、わたしより年齢が上のひとと話すことが多いです。
田舎に住んでいるので、余計に、お年寄りが多い。
そして、古い考えで凝り固まった、やっかいなおじいさん、とか、地位とかがないからこそ、自分は男であるから優れている、ということにしがみついて威張るおじさん。
そんなのの、上手いことご機嫌を取りつつ、会話出来て、たぶん俺のことをちゃんと評価できてそうな、珍しくできた若い女だ、こいつになら話も通じそう、とか思われるスキルを、どこで得たのやら、とは思いますが、きっとその男性たちも、自分が気づかない、周りも知識がなく指摘できないでいる、大人の発達障害者さんたちに思えます。
空気を読まない、読めない発言、こだわりが強い、なにより、誰かの善意があって、働けたりできるひとたちで、人付き合いも大してできなくて、結婚もしていないことも多くて、けど、自分は悪くないのに、どうして?って生き難かったひとたちが、わたしの住んでいる近くに、少なくい数で、いるのです。
ハココの出来ないの歴史がはじまったのは
わたしの出来ないの歴史は、十四歳で、あることをきっかけに、不登校、そして学習意欲も失くしたことにはじまり、どんどん崩れて行った中で、通いはじめた精神科で、これをがんばってみよう、まずはこれをがんばろう、って言われ続けた、まずは、と言われることが、二十年、安定して出来なくて、どんなに頑張ってもできなくて。
体力がないせいだろうか?と、毎日ウォーキングをしっかりやってみて……出来なかったな。食事のバランスに気を付ければ……できなかったな。しっかり睡眠の質を……違ったな。タンパク質を多めに取り入れて……違うか。打ち込めるものがあれば……趣味と特技が増えただけだったな。もっと違うことに打ち込んでみて……また趣味で特技が増えただな。せっかく打ち込むならもともと一番好きでもあって特技のことを極める勢いで……だめだ。特技が上達しライフワークに格上げされただけだった……。
そんなこんなを二十年、精神科に通いつつ、主訴による様々な症状に対処しつつ、まずはこれをできるように、ができすに、二十年が経った。相変わらず、わたしは、まずはこれをできるように、が出来ないままにいました。
あるときに読んだ「夜と霧」というホロコーストについて書かれた本の内容が、自分にとっての普通の考え方で基本的なことであったのに、ネットの感想はには、わたしが普通と定義するひとたちにとって、生きる意味を見つけられた気がするものらしかったことに衝撃を受けました。
こんなことも知らないで社会で生きていられてるって、どういうことなんだろう?
趣味のブログ(一昔前はテンプレを改造してまったくのオリジナルにして、webデザインを将来の夢だと言ってたひとに、これがオリジナル!?って驚かれたりしたくらい、当時の流行?のプログラミング言語を独学でやっていた)のだけれども。
ブログについて、しっかりと記事を書いてみようかな、と思ったりしたのも「夜と霧」が発端でした。
そのために、ルポだとか、何らかの当事者が書いた本とかに興味を持って、たまたま、流行?だったからと、発達障害についての本を最初に選んだのですが。
「夜と霧」そして、この「されど愛しきお妻様」はターニングポイントになったかもしれない。
この、発達障害の妻と、わたしが、まさかの「そっくり!」って知ったことで、変わりはじめました。
自分は、勉強で困ったという経験も、コミュニケーションをとれないとかもないし、臨機応変も出来なくもないし、マルチタスクは得意な方だしって。
なのに、お妻様はまさに自分と「おんなじ」である、ということ。
もしかして、わたしは発達に偏りがある系のひと?って、そうであったら、どう頑張ってもできないことが、わたしにとっての、どう頑張っても出来ないことってことになるのかも?って。
そうであれば、救われると感じました。二十年の試行錯誤、でも、一時期は、長ければ三ヶ月はできること、短いと一ヶ月続けるのが精一杯で、力尽きてできなくなって、少なくとも三日間ほぼ寝たきりで、生命維持すら危うい生活になってしまう原因?って。
わたしが出来ないことは、本当に、普通なら、本当に少しの努力と習慣化で出来るようになること。
ただ、朝起きて、日中を活動時間にして、その中で生活のこと、家事、買い物、趣味、などをして、夜に眠る。というだけのことをやり続けること。
わたしは、どんなにも必死に必死に頑張って頑張って、それをすることができるのだし、だからやればできるんだし、それを続けるだけって、主治医にすら言われてきました。
やるぞ!ってやったら、出来る。ほら、やっぱり出来るんだから自信もって続けよう。でも、続けると、突然どうしてか出来なくなる(電池切れの如く動けない)。
工夫を加えて、再度、やるぞ!ってやって、出来る。いい感じですね、続けましょう。続ける、が突然どうしてか出来なくなる(電池切れの如く動けない)の繰り返しの二十年でした。
もしかしたら、発達に偏りがある可能性はないですか?
と主治医に聞きました。誰かに指摘されたことでもありますか?と聞き返されました。だから、自分しか疑ってもいないだろう、と伝えました。
それから、自分の出来なさのプレゼンを熱を込めて、もう必死にやりました。台本もなく、その場で作り上げる言葉で、自分が如何に出来ないのか、プレゼンしたんです。主治医に。
わたしにとって、三つ目の病院で、六人目の主治医です。わたしの都合で主治医を変えたのは、病院を変えたときだけでした。
その誰にも疑われたことすらない、自分の発達の偏りがある可能性を、疑っていないらしい、自分で主治医にプレゼンするしかなかった。
如何に出来ないか。それをやろうとどれだけ必死に頑張ったのか。もしかしたらそれらが、特性である可能性はないのか。
わたしにとって、人間らしい生活、朝起きること、夜眠ること、昼間に活動すること。その基本的な生活をやることが、すごく体力を消耗する。脳内の体力を。基本的な人間らしい生活をすることは、全速力で長距離僧走に挑んでいるのと同じ。全速力であると気づかずに走っていて、ある瞬間体力が0
に等しいことに脳が危機を感じ、強制停止。それが寝込む期間。まさに電池切れ。でも、出来ることだって、この前ま現に出来ていたし、また、全速力で長距離に挑む。強制停止。その繰り返しだったのではないか?
わたしの説明に、ちょうどいいペースで走る工夫は出来ないだろうか?
と言われまして、わたしにとって本当に長距離に適したペースを保ってた進み方では、基本的な人間らしい生活ができませんよ? 全速力で走り続けることが、基本的な人間らしい生活をするのに必要なんです。
本当に、なぜ、こんなにも出来ないということを、どんなに頑張っても出来ないんだと、自分でプレゼンしなければならないのかと悲しかった。
けれど、発達上の特性にいくつも当てはまることを、主治医は認めて。
その上に「個性なのでは?」
という最悪な言葉にされましたことで、泣きだす羽目になりました。
誰にも歓迎されない特性を、個性といわれて、安堵できるひとがいるでしょうか?
どんなに残酷な言葉であるか、考えてください。主治医は黙ってしまった。
簡単なテストで、ですが、グレーゾーンの判定です。
それい以上は難しいのを理解して、訴えたのがわたしのプレゼン内容でした。
有名な、アイスクリーム課題のようなもの、わたしは解けてしまうから。類似の問題も全部解ける。簡単に。読書が好きで、純文学が好きで、論理の問題なども好きで、空想も好きで、思考が趣味。
わたしには、出来ないことが、半端に出来た。すごく頑張れば出来た。
たくさんたくさんの努力で出来るようになったものもある。
社会に出るなら、一番活躍しやすいらしい、そんなIQであったりすると、ネットで無料で出来るメンサのIQテストで判定されたりしたって、わたしが社会で活躍できていない事実があるだけだった。
こんなにも生き難いのか。そう思う。
これが発達障害なのか?と。
だからと言って、この出来なさを、どうして相手に配慮をしてもらうことを当然に相手に求めて良いという考え方が、できない。
共生社会はどうすれば実現できるのか。
簡単に説明するような、メディアからは、現実を聞けない。
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