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傘が苦手だ。
傘そのもの、それ自体が苦手というのもあるし、傘をさす行為が苦手というのもある。私は傘を上手に扱うことができない。

まず、どんなに注意深くさしたところで、足を濡らさずに居れた試しがない。大抵の場合、膝から下は十分に濡れる。直接の雨と、自分の靴が跳ね上げる雨、それから傘から滴る雨。雨の日のパンツはもれなく膝下から色が変わりみっともないし、雨粒たちは当然だと言わんばかりに靴の中にも入り込んでくる。濡れた靴下は言うまでもなく不快だ。夏でもつま先が冷えてしまう。
それから、鞄が濡れる。手に持っても、背中に背負っても、肩からかけても、だ。かなしい。

次に、傘は置き忘れをしやすい。普段は滅多に失くしものをしない質だが、傘だけは別だ。どんなに注意をしようとも、容易く意識の外へといってしまう。まるで何かの呪いに掛かっているかのように、たちまち忘れる。
気に入りのものをどこかへ置き忘れたとき、それに気付いたときのあの圧倒的な悲しさ。ほとんど打ちのめされたような気持ちになって、しばらくそれを引きずる羽目になる。それが愛らしく小花の散った淡い水色の傘であったり、しっとりとした濃紺に上品な金色の縁取りが映える美しい傘であったり、また大切な人から贈られたものなどであれば、なおさら。
なので最近では、使う傘は500円くらいまでのビニール傘と決めている。コンビニやスーパーやそこいらで買える、安価の割に大きくしっかりした作りのビニール傘。並んでいた中で一番大きなサイズの物を手に取り、今すぐ使われますか、はい使います、といったやりとりを店員と交わして手に入れた、剥き出しのビニール傘。これならば、例え置き忘れてもさほど落ち込まなくて済む。まあ、安かったしね。ビニール傘なんてまた買えばいいじゃない。そんなふうに自分を慰めることができる。
それに加えてどういうわけか、ビニール傘は失くしにくい。これは本当に、どういう理屈か自分でも分からないのだけれど、これまでの幾たびもの経験から断言していいだろう。私は、高価で素敵な傘ほどすぐにどこかに置き忘れるのだ。(高価と言っても500円と比べれば、くらいだが)気に入りで大切で、雨の日にさすのを思わず楽しみにしてしまうような傘ほど。
その点ビニール傘は、比較的忘れにくい。失くした時のショックを和らげたい一心からだが、ぞんざいに扱ってもいい、というビニール傘への酷い仕打ちとも言うべき思い込みが、私の無意識に働きかけて効果を発揮しているのかもしれない。効果とは一体何の効果だろう。リラックス効果か何かだろうか。なんであれ、ビニール傘は不思議と、失くならないのだ。

便利で使いやすいビニール傘。しかし私はビニール傘は好きではない。ビニール傘というものは、わけもなく私の心をうんざりさせる。頭に思い浮かべただけで、バサバサ、だかペサラぺサラ、だかビニール傘を振ったときのあの侘しい音が聞こえてくる。頼りなく薄く、水の切れも悪く、雨に濡れるとしばらく濡れそぼったままでそこにある。乱雑に扱われて骨の折れたもの、露先が骨から外れてぷらんと遊んでしまっているもの、錆びや汚れで骨とビニール部分が茶色や黒に変色したものなどを街で見かけると、心なしか自分までくたびれるのだ。丁寧に扱われることなく老いてくたびれて、夢も希望もありませんといった風情で街を行く冷たいビニール傘は、雨に浸った靴の中のようにじっとりと私の心を湿らせる。雨の日の憂鬱を大きくする。だから、もういいや、という少し投げやりな思いで私はビニール傘をさすことにしている。本当はさしたくないけど、雨なんだし、仕方ない。ビニール傘、仕方ない。忘れちゃっても、仕方ない。これはもう一種の自己暗示だ。

ビニール傘を使用する上で唯一困るのは、自分のものと他人のものの区別がつきにくいという事だ。ビニール傘は、長さや持ち手の色の違いなど多少の差はあれど、大抵そっくりな姿でどこの店先の傘立てにも立っている。これだと思って手に取った瞬間に、握った感じの違いで別の人の傘であることに気が付くこともある。そこで私はビニール傘の持ち手(大きなビニール傘なので、持ち手もごつっとしていて幅があり、大きい)にマスキングテープを貼ることにした。これも、さあどれにしようかなどと悩むことなく、何となくくらいのテンションで選ぶことにこだわりを持った。間違っても、とっておきのシールなどで丁寧にデコレーションしてはならないのだ。持ち合わせの中から適当に選び取ったマスキングテープは、赤と青と白の重なったチェック柄。それも、ぐるぐる巻きつけたりこれ見よがしに貼るのではなくて、あくまでさりげなく、例えるならばスーパーのレジで小さな箱のお菓子をひとつだけ買ったときなんかに貼ってもらえるような、いかにも無造作に貼られた印テープ、あの感じ。
チェック柄のテープを貼ったビニール傘は、たちまち私だけのビニール傘になる。もう、大量のビニール傘たちがひしめき合うごちゃごちゃの傘立ての中へ放り込んだとしても、一目でここよと訴えかけてくる。私の傘。どこにでもある安いビニール傘は、もうそれだけでどこか得意げな、取り澄ましたような表情に見えてくる。他のビニール傘とは違う、けれどめかしこみ過ぎてはいない、あくまで私はビニール傘ですからといった控え目な様子がまた好ましい。

するとどうだ。使い続けるうち、憂鬱だったビニール傘にもほのかな愛着がわいてくる。置き忘れにくいビニール傘は比較的長い間私の手元にあって、何度も雨の日を共にする。繰り返し使ううちに、かつては無個性なビニール傘であったことを忘れてしまうほどに、自分の持ち物としてしっくりくるようになる。もうこの傘は、そこいらの500円のビニール傘とは似ても似付かない。だって持ち手に赤と青と白のチェック柄のマスキングテープが貼ってあるし、大きくてごつごつして、繊細で美しい傘たちよりもよほど広い範囲で雨から私を守ってくれるし、それになによりほら、こんなにも私の手に馴染むのだし…。

そんなふうにビニール傘との信頼関係を築き、私の傘、と親しい気持ちを持ちはじめ、自分の悪癖をすっかり忘れた頃に、果たしてまた私はやらかすのだ。駅を降りて家まで歩いている間に、または帰り着いた直後の玄関先で、はたまた食後の居間でお茶を飲みながらくつろいでいる時間に。
あっ、傘がない。

置き忘れたビニール傘は、おそらくもう二度と手元には返ってこないだろう。電車内で忘れて駅の忘れ物センターにお世話になり、無事に取り戻せた傘は過去に一本か二本、あった。しかしビニール傘はそうはいかない。仮に電車内で忘れたとして、忘れ物センターまで赴き、あの、ビニール傘なんですけど、マスキングテープが貼ってあって…などと説明することは憚られる。私は薄情だろうか。
何度も握るうちに手垢で汚れて色がくすみ、端の方から少しずつよれていっていた、あのチェック柄のマスキングテープが今もまぶた裏に浮かぶ。頑丈でくたびれてバサバサとした、大きなビニール傘。歴代の傘の中でも結構長く手元にあった、ビニール傘。
あーあ、なくなっちゃったな。
何の気なしに口にしてみると、じわじわと、やがてはっきりと、私はまたしても圧倒的な悲しさに打ちのめされる。
これだから、傘というものは、苦手だ。

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