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トランプ就任式にまつわるいろいろの話/inauguration・アメリカ共和国建国など
トランプの就任式がもうすぐ行われる。大統領の就任式は英語でinaugurationと呼ばれる。
augur(アウグル)は古代ローマで鳥を使った占いに従事した鳥卜官のことを意味していた。ローマを建国したのはロムルスとレムスという狼に育てられたという伝承のある兄弟だが、そのうちの二人のどちらの名を国名にするのかを鳥を使った占いによって決めたらしい。アウグルは執政官や法務官とも異なり終身制の高い身分を与えられていたことからも、この役職や鳥卜という行為自体がいかに重視されていたかが分かる。auspiciousは「幸先がいい」という形容詞だが、aus-は「鳥」、spicは「見る」ということだから、「鳥が見えて幸運だ」ということである。
就任式は、一般的には、占い師が人間が定めた事柄に対する神の認可を得る、または得ようと努める儀式であったが、特に、物や人物を神に奉献する儀式であった。就任式司祭が観察した兆候が好ましいと判断された場合、人間の定めは神の認可を得て、就任式は完了した。[ウィリアム・スミス編、「ギリシャ・ローマ古代辞典」、1842年]
漢字においても鳥、とくに隹は重要な要素となっている。軍隊が進んでよいのかどうかを鳥によって占ったため「進」の字には隹が使われているし、口に鳥がやってくれば唯諾の唯となる。虫がついて神意が損なわれると、「雖も」と逆説の意となる。この漢字は現代中国語でも虽然suīrán(〜ではあるけれども)という逆説の接続詞に用いられる。戸に隹を置いて神の意思を図れば「雇」となり、顔を向けて神に尋ねることは「顧」となる。
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トランプが大統領に返り咲いて、多極的な世界になるとは言ってもそうそう良いことばかりではない。アメリカ合衆国を乗り捨てて、新たなアメリカ共和国を作る、そのために1775年にできた大陸軍とその軍規をベースにして、建国250周年である2026年にアメリカ共和国の再独立を果たすという大きな枠組みはそのように実現されるのだろう。1775年にアメリカでは13植民地をまとめた行政機構として大陸軍が創設され、その総司令官がジョージ・ワシントンである。米国の連邦政府なるものよりも先に、バラバラに英国に支配されていた13の植民地を包括する行政機関として創設されたものは大陸軍(The Continental Army)であり、独立戦争を戦う前から英国に対して再三の要求や請願を行ってきた。それでも改善されず、このような圧政に対しては武器を持って立ち上がらなければならないということでできたのが1776年のアメリカである。
日本ではまったく知られていないが、アメリカで独立戦争の頃の有名人を尋ねるとほとんどの人は「ポール・リヴィア(Paul Revere)」と答えるらしい。
この人は1776年の独立戦争最初の戦いであるレキシントン・コンコードの戦いで、イギリス軍が攻撃してきたことを伝える伝令の役割を果たした(とされている)。実際にはレキシントン・コンコードの戦いでどちらが最初に発砲したのかは歴史的にはどちらとも言えないらしい。しかしアメリカはあくまでも「イギリスが不当な要求を続け、最後には武力で攻撃してきたのでこちらも武器を取って立ち上がった」というナラティブの上に建国されている国で、この逸話をベースにしたワーズワースの詩(Paul Revere's Ride、ポール・リヴィアの疾駆)まである。
この独立戦争の成り行きを再現する形で、新たなアメリカ共和国を立ち上げて別の国を作る、というのがたしかに最も現実的な解決策なので、現在のアメリカではいかにも邪悪さに満ちた政治のショーが行われている。これは人々に旧体制の邪悪さを喧伝し、打倒するもやむなしという大義名分を得て、1776年の独立戦争を再現する形で新たなアメリカをつくるということのために行われているわけだ。ただ単に政府を打倒するだけでは不十分で、新たな政権が正当性を主張するためのナラティブも同時に成立していなければ政治権力は維持できない。
中国でも王朝が倒れると次の王朝は歴史書を作るが、それは前の王朝がいかに悪辣で、天意に背いた政治をしていたかを書き立て、現王朝の支配の正当性を主張するために行われるものである。「酒池肉林」の由来となった殷の最後の紂王も、暴君の代表例のように思われているが、出土する人骨の数などを調べても歴代の殷の王と比較して特に多くの人を殺したというわけでもない。ただ、周は殷を倒して政権を取ったことの正当性を主張するために、実際以上にその悪辣さを宣伝する必要があった。
現在の西欧の政権のひどさは誇張なしに悪辣さに満ちていて、どうしようもないものだということはここ数年だけの事情を見ても明々白々であろう。
しかしその乗り捨てられるアメリカ合衆国に従属しているのが日本で、アメリカはアメリカで勝手にやっていくことになるが、うち捨てられた日本には統一的な統治を行うための機構も指導者もイデオロギーもない。日本でも狂ったように増税とまったく人々のためにならない愚策ばかりが繰り返されていて、もうこんな政府ではダメだということが誰の目にもわかるようにショーが展開されている。しかし日本にはアメリカのような、国民全員が共有できるような建国のナラティブというものがない。一応古事記や日本書紀はあるが、古い時代すぎて国民全員に共有できないし、日本書紀をベースにしてどういう政権を作ればいいのかという点も合意できるようなものがない。アメリカは歴史が浅いおかげでそれが比較的やりやすいのである。日本で現実的なのは江戸幕府に戻すという辺りかもしれない。
近代の進歩主義に毒されていると、古に帰るということはとんでもないことに思われるが、本来体制が行き詰まったら古に帰るというのが人類の知恵である。薩長の明治政府でさえ王政復古の大号令から始まっている。江戸時代に戻るというか近代の虚妄をやめるだけでだいぶ人は楽に生きられるはずなのである。日進月歩で進歩しなければならないという進歩主義や、社会に認められなければならないという立身出世主義、効率主義などを捨て、欧米の礼賛をやめればいいだけの話だ。そしてヒューマニズムをやめ、人間が素晴らしいものであって人生も素晴らしいものでなければならないという妄想を捨てることだ。ショーペンハウアーの言うように、人生とは裏切られた希望、挫折した目論見、それと気づいたときには遅すぎる過ちの連続に他ならない。文明を得て、定住農耕生活をするようになった結果、我々は猛獣に襲われて食われたり毒草を食べて死んだりしなくなった代償として、精神を病んで死ぬようになった。そもそも生きるということは悲惨なものなのだ。その悲惨さと向き合ってこそ生きる活力も湧いてくるところ、近代は人間を死と生から疎外された状態において弱体化させてきた。それがなくなれば全体としてはマシな世の中になるだろう。
総じて賢者というものは、いつの時代の賢者でも、結局同じことを言ってきたのであり、愚者すなわち数知れぬ有象無象どもは、いつの時代にも一つこと、つまりその逆をおこなってきたのだが、こいつは今後といえども変るまい。だからヴォルテールは言っている、「われわれはこの世をみまかるときも、この世に生れて日の目を仰いだときと同じく、愚かで悪党であることだろう」と。