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「彼女と。」の思い出

昨年別の場所に綴ったエルメス 「彼女と。」展の感想の転載です。

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思ったよりかなり受け手に解釈が委ねられていてなかなか感想が絞れなくて、考えこまないと腹落ちしないなあと思う。
選んだのがエキストラにしろアクターにしろ、あの場に行くまで探していなかったはずの「彼女」を追いかけるようになる。
誰もがどこかでそうなりたいと願うような、奔放で、表情豊かで、人を惹きつけ、一度会ったら忘れられない「彼女」。
追うという体験はたとえ擬似でも余韻が強くて、会場を出て日をまたいでも効果は持続した。
エルメスという("彼女"なら皮膚と呼びそうな)装身具がぴたりと似合う人物像が、自然と頭の中に憧れとして存在するようになった。

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ステージを進むごとに、エルメスで彩られた艶やかな世界が「撮影用のセット」として現れる。
そのすぐ後には、使われた衣服や小物を近い距離で見ることができる。
あくまで舞台上の物として存在しているように見えるけれど、そこにいるのは「アクター」と「エキストラ」のみ、つまり舞台上の者だけだ。
あの会場の中では部外者でいることはできず、全ての場所が撮影・録画okと言われ喜んで写真を撮る間も、その「舞台」を作る一員としてカウントされる。

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ところでこの時世、ずっと撮られている。
素人でもそれなりに雰囲気の良い写真が撮れるようになった。
フォトジェニックな物事の価値が急激に上がった。
「撮らなきゃ」と思う人が街にはたくさんいて、何かが常に撮られている。

カメラが特別ではなくなった。
カメラの前だけで取り繕うことも特別ではなくなった。
カットがかかればパフェは崩して食べるし、余計な旗はハンバーガーから抜き取る。
疲れるポーズは崩すし、やり慣れた上目だって下げる。
もちろん作り込んだ一瞬ばかりで上辺を固めるだけではなく、日常の一瞬を宝箱に入れるように集めたり愛でたりしている人もいるだろう。
どちらにしろ、自分にとっての大事なシーンのアルバムをみんななんらかの形で作っている。
日常の中で今だと思ったとき、わたしたちは何らかの形でメガホンをとる。
カットを叫ぶ。
確認して、よし、と思う。
別に撮影に限ったことではない。
地続きの日常の中から拾い集めたエッセンスの標本は、自分の日常をテーマにした「映画」のように今は見える。

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今回追いかけるはめになった「彼女」は結局見つからないけれど、追わされた結果、そういうものを追いかけたい自分が発見される。
「彼女」になりたい。または「彼女」に見合う自分になりたい。
そう思うとき、エルメスはあなたの力になれる、と遠いところで微笑まれているようなシネマ体験だった。

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