小説【魚町の猫】
※2023年 never mind the books にてzineとして発売
小説であり、半ば記録であり、大切な時間の想い出。
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窓から見える建屋の屋上には猫がいる。
薄サバ色、白混ざりのキジトラ、黒。
観光で賑わう一角にその市場はあって、明治頃までは池だったという僅かな窪地へ店々がぎゅっと詰まっている。次第に地域は拡大したけれど、古い町並みはある時点で「新しくなる」を止めている。
そんな場所では夜明け頃から猫が鳴く。というより盛大な喧嘩の声で近隣の朝が始まる。
所謂地域猫の個体と、そうで無いものも含めたら十数匹は暮らしているかもしれない。全体にどれだけいるのかはよくわからなくて、路地とか店の裏手を器用にすり抜ける姿を見かける。
ただ見えるのは一瞬だし、たとえ目があっても何かくれそうか否かを見極
める顔をするくらいで、さっと物陰へ隠れる。
どこかの有志団体が不妊手術を施したらしい猫もいて、片耳に三角の切れ込みが目印で、それが桜の花びらに見えるから『さくらねこ』と呼ぶのだそう。
処置の後再度放される過程とか餌付けの実態もわからないけれど、魚介中心の市場に猫というのはなんだか当然というか、歩く姿がそれだけで絵になる。
窓から見える猫たちを毎日のように見たからか、彼らには所属するグループのようなものがあるのが分かってきた。
他所から新参猫が現れれば、各々縄張りを守る為喧嘩騒動が起きるし、その一触触発は昼日中でも、また周囲に人間たちが居ようとかまわず勃発する。
新型コロナウィルスの蔓延で町に人けが無くなった時も、国内外からの観光客が戻ってくる中でも、猫たちは自適で、さくらネコに該当しない個体たちの活動によって、春先にはわさっと仔猫が増える。
この仔猫を含むファミリーチームは屋根の上には来ない。多分縄張り違いなのだと思う。
そして仔猫が増えるのと同様どんな年も当然冬は容赦なく来るし、トタン屋根も一面ふかふかとした新雪を積もらせる。
そこに点々とついた足跡は、猫たちの生きている証だったし、少しでも暖かな場所を求めて、市場の熱が一番伝わるトタンの上、雪が無く乾いた場所に大抵固まっている。
まるで世界はトタン一枚を隔てて分かれていて、下の世界では暖房が焚かれガラス戸は結露までして暑いくらいの中、海鮮丼だったりラーメン、ソフトクリームだって食べられる。ところがその上では白く静かで冷たい世界に猫たち、そして時折は烏。
動物を責任もって飼うことのできない身なので、手を差し伸べる訳にもいかないし、ただただ今日を生きていることだけを祈るばかりなのだけれど、その日も、とても細くて小さい鯖色をした猫が、ポツンポツンと雪の上を選びながら仲間の黒猫を追っていた。
ただチビちゃんは雪解けの頃姿を見せなくなった。
今まで猫と暮らしたことはないから毛色による呼び方とかはそれほど詳しくないので、分類はいつもざっくり。白を基調にした茶色や縞。キジトラ柄をした体の大きい猫。そしてやや茶の毛を混じらせた黒猫、更にそのチビ猫。
とても仲が良く、頭をごちんとぶつけ合い、毛繕いをしつつ寄り添っていて、猫同士ってこんなにも愛情深いものなのかしらと思っていた。
寒いだろうなとか、今日もご飯にありつけただろうかとかそういう心配をしているのはこちらの都合で、食事は親切な誰かがくれ、寒くなれば最適な寝床を探す。時にはテリトリーを守る必要があるけれど、どんなことがあろうと、彼らは自由に過ごしているのを、生命の驚きくらいの気持ちで見ていた。
しかしそれは勿論、生き死にのことにも繋がってしまうけれど。
例年雪は多いものの、その春の雪解けは比較的早かった。
滴る雪解け水は猫たちのいるトタン屋根から雨どいを伝って勢いよく落ちていく。
チビちゃんを含めあまり見かけない猫も増えて、人の流れも増え、こちらも毎日のバタバタからトタン屋根観察を忘れていたら、下界でばったりといつもの黒猫に出会った。
目が合う。逃げない。
それだけでちょっと嬉しくなった。
トタンの上の世界では白キジトラ猫が寝ていて、時折首を持ち上げる。少しだけ気温が上がったもののまだ寒くて、小さくまとめた体はぽつねんとしていた。
観光の復活した町は一層混み合うようになって、今年はそんなに仔猫たちを見ないし、今までとはちょっと事情が変わった猫たちの世界、そして春。
あのパサっとした毛並みの、薄い鯖色猫のことは、今も頭に浮かぶし、案外どこかで元気にしているかもしれないかもと思うけれど、それだって全然わからない。
そしてこの夏は異例尽くしで、ずっと暑くて全然気温が下がらなかった。とにかく暑い以外の言葉が出てこなくてそんなことだから、多分トタン屋根の上の世界のことも心配だったけれど、と思っていたある夕方、町の一角にある店の窓。
建屋に繋がる店舗のいくつかには時折、屋上の猫たちが現れる。その窓辺に来るのは例の白にキジトラと黒。ここにいる限りは逃げることなくのんびりと過ごせているのもちょっとした奇跡みたいだった。
相変わらずの暑い夕で、やや痩せた身体でのんびりしていたその黒猫は、逃げることもなく、ちょっと話しかけると起き上がって、それからこちらを見てしきりと何かを言っている。
にゃーでもなく、ただ何かを言うようにして口元を動かしてはこちらを見た。お腹が空いていたようでなく、ただただ鳴いている。
ごめんね、わからないよと答えてもまだ何かむにゃ、と口を動かしていたりした。
九月に入ってもまだ暑い。けれどさすがにゆっくりゆっくり秋は来て、ついに温かいコーヒーが美味しくなってきた。
その屋根にはいま白にキジトラ、一匹だけ。突然いなくなってしまった黒。調子が悪そうだったり、毛並みの一部が逆立っていたようだったり、色んな話が町から聞こえてくる。
きっと、どこかでじっと丸まっているかもしれない。屋根に上がれなくなっただけかも。
今日もまだそんなことを思ったりする。
また冬がきて雪がトタンの上を覆うだろうし、その頃には、小さな足跡をつけているのかも。
魚町は今日も異国の言葉が飛び交う。そんなこととは全く関係なしにトタンの一枚上はいつだって猫の世界。