私が突破できたワケ。母のこと。
今晩は、発酵心地 OKINAWA愛です。
なんと、私としたことが?風邪をひいておりました。
たぶんね、40度近く出たからね、ただの風邪ではなく、今流行りのやつだったかかな。。病院は行かず、ひたすら寝ながらの自然治癒力を信じて回復を待つ。。。という方針だったので、時間はかかりましたが、なんとかここまで復活しました。いやぁ、でも悔しい・・・風邪なんか絶対ひかない!と思っていたのに、、でも気づいたら最近、スケジュールを詰めすぎて丸1日お休みの日がなかったことに気づき、、そうなると、いつのまにかストレスもたまっていたようで、お酒もついつい量が増えちゃうし、それに伴いつまみも増え、食生活も荒れ気味だったので、きっと免疫力落ちていたんでしょうね。体調管理、スケジュール管理も自己責任。身体が資本であることを痛感しました。
つい数ヶ月前までは、企業に属していたのでもしもの体調不良の時も年休を使うことができました。でも今は転職したばかりで年休なし、そして個人事業主となったら、もちろんそんなんないですしね、本当、健康がいちばん。身に染みます。
ということで、今回のタイトル、私が突破できたわけ。なんですが。
そもそも突破ってなに?って思われるかと思います。私がここで言う突破とは、
自分のコンフォートゾーンから抜け出したことを突破と呼んでいます。引かれたレールから降りて乗り換えた、安定していたところから急な人生の路線変更、とかそんなイメージです。私がそもそも13年間勤めた正社員を辞めたわけ、はこちらを読んでいただけるとわかるかと思うのですが、
今回は、そこにはまだ書いていなかったもうひとつの理由をお話ししたいと思います。なぜこのタイミングでもう一度、突破のお話しをするかというと、11月というのは私にとって一年の中で絶対に忘れられない日があるから。それはね、私の母の命日なんです。急に何を!?と思われたかもしれませんが、私が突破できた一番の理由は母のことがあったから、なんです。母のことをね、インスタでも話そうか、どうしようかって思って、下書きしては消してを繰り返し、あまり詳しくはお話ししていなかったんだけれど、私の人生にいちばん影響したのは、絶対に母のことがあったから、ここで話していこうかなと思ったわけです。
今月、母の4年目の命日なんですが。4年目になって、こうやってやっと文字に起こせるようになりました。だからきっと今が私の中でもタイミングなんだろうと思って。何から話せば、どこまで話せばいいのか難しいだけど、私は1人っ子で、たぶん、私が3歳くらいの時から母一人、子一人でした。自分以外の親子の関係がどんな感じなのかは分からないんだけど、わたしと母はすごく仲は良かったと思う。母方のおばあちゃんの家で一緒に暮らしていて、私は同棲を機に出たんだけどね。私が結婚したのが、2012年11月。そして、その翌年の6月に、母が白血病になったんだよ。その時母は53歳。それから、私の人生いろいろひっくり返ったよね。
今でも鮮明に思い出せる、仕事あがりに母からのメールを見て、急いで病院へ行ったこと、そして一緒に先生の話を聞いたこと。その日から母は即入院で、わたしは夜家に疲れ果てて帰って寝て、朝起きて、昨日のことが夢だったらいいのに、夢でありますようにって願ったけど、現実で。それから、働きながら毎日母の病院へ行くっていう生活が始まって。正社員でバリバリ働いていたから、全部シフトを遅番(15時〜00時)に変えてもらって、朝から昼すぎまで病院へ行って、病院から仕事へ行って、帰って寝る。そして、次の日もまた次の日もこのルーティーンでずっと動いていました。でも、当時はそれが全然嫌じゃなかったし、病院へ行かないほうが落ち着かないから、ほんと行かない日はなかったです。
病気の治療のことを書くともうきりがないので、詳しくは書けませんが、抗がん剤治療をして一度は寛解を維持するも、再発。そこからまた抗がん剤をし、運良く兄弟から移植をすることができ、再寛解を維持。すっごい簡単に書いているけど、治療をする本人も、それを見守る家族って本当に精神的に疲弊する。。がん患者の家族は第二の患者とも呼ばれるそうで、ほんとに支える方も大変で、、自分の生活を維持しながら、プラス母のことも。私の場合、一人っ子だから、完全に私と同じ立場で気持ちを共有できる人はいないんじゃないかな、って当時も思ってて、すごく孤独感もありました。旦那はもちろん気にしてくれないわけではない、でも、私の気持ちを同等に感じてくれることはないって思ってました。私自身も、精神を保つのにギリギリの状態だったんだと今振り返ると思います。
でもね、そこでどうやって精神状態を保てたかっていうと、それは仕事していたからなんだよね。仕事していたから、その時だけは平常心でいられる時間があったし、必然的に周りと話さないといけないから、自分の心を閉ざすことなく精神を保つことができたんだと思います。仕事中も、母の血液検査の結果が、再発だったら電話がなるから、検査の翌日はいつ自分のケータイが鳴るか、生きてる心地がしなくて。実際にケータイも何度もなって、仕事中に主治医と話して、泣いてしまったり、、とかそんなことが日常でした。常に再発を恐れていて、再発したらまた治療を繰り返して、心から休まったことはこの5年間なかったんじゃないかな。再発して、治療中は、命がいつまで続くか、私自身も生きている心地がしなかった。
もちろん、発病したあとも、いい時期もありました。一緒に旅行も行けたし、母は病気きっかけで初めての専業主婦になり、家事をして、わたしと私の旦那のご飯を毎日作って待っててくれて。そう、病気をきっかけに一緒に暮らし始めたんです。
寛解を維持して、幸せに暮らしていた時期もあったのですが、何度も再発を繰り返し最終的にはもう病気を抑えられなくなって。
母がね、生きていたら、たぶん、いや、絶対に「正社員を辞めるなんてありえない」って反対されたと思います。だから、母がいたら私自身も、そもそも正社員を辞める思考なんて出てこなかったと思います。笑 私の場合、職場の環境が悪いとか、人間関係で悩んでて、とかそんな理由で辞めたわけではないので、母がいたら余計に絶対的に定年退職レールにのっかったままだったと思います。それはそれで、また幸せな人生だったかもしれません。
でも、母がいなくなって思ったんです。人って本当、いつ命が尽きるか分からないなって。白血病なんて映画やドラマの世界で自分には関係ないってどこかで思ってて。でも実際こんなドラマみたいなことが起こって。でも、ここへ来ても、自分だけは悲劇のヒロインになるはずはない、きっと奇跡は起きる、母は絶対に死なないっ信じてて。でも、母はいなくなって、神様ってこの世にはいないんじゃないかって急に神を恨み出したりね。何が言いたいかって、人生レール通りに行ったら、幸せが待ってるって思ってても、思わぬところで事故が起きたりするってことで。だったらいつどうなるか分からないから、自分が楽しくなるかもしれない選択をしてもいいんじゃないか?今の時間、幸せだと思える時間をもっと過ごすために、素直な選択をしてもいいんじゃないか?って思えるようになって。
わたしが突破できたいちばんの理由は母のことがあったから。
わたしが正社員を辞めたことを、今も天国にいる母はもしかしたら反対してる気もする笑 でも、見ててほしい、きっと私は今のほうが子ども達と笑って過ごしている時間が多いこと、たくさん夢を描けるようになったことを。
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