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「文化盗用」という言葉の奥にある、主流・傍流の意識

少し前ですが、文化盗用という言葉が騒がれたことがありました。

文化盗用とは、特定の民族文化を他の民族が使用すること。中でも営利的に使用することを指します。
民族の財産である文化が勝手に使われれば、その民族にとって不快であろうという配慮から問題にされています。つまり、民族文化の尊重の形。


・日本でクリスマスを祝うのは盗用じゃないの?

ただ私は「文化盗用に対して非難が起きた」というニュースを聞くと、どうしても釈然としない気持ちになってしまいます。とくに、その民族ではない欧米人が声を上げるときには。
そこに「主流」の傲慢を感じるからです。

たとえば、私たちが着ている服は洋服。
街で音楽が流れていれば、英語の歌詞が入ります。
キリスト教徒でもないのにクリスマスを楽しみ、バレンタインデーに贈り物をする。最近はハロウィンも盛んになってきました。 
でも、これを文化盗用であると非難する人はいません。

・文化盗用の背景にあるのは文化の階級制

文化的盗用には一方通行のルールがあります。欧米人がアジア・アフリカ地域の文化を取り入れると非難されますが、その逆は問題にならないのです。

そこで感じるのは、文化盗用という言葉の後ろにある
「世界中で使われるべき、普遍的な欧米文化」

「一部民族だけしか使うべきではないローカルな文化」
という階級構造です。

世界の一体化を目指すグローバリズムが、実際には欧米文化を世界標準にしようという流れだったように。
欧米人は、欧米文化は世界に広がるべき「主流の文化」だと考えているように思われます。だから自分たちの文化が使われることについては当然と考えて問題視しないのでしょう。

もちろん文化盗用を非難する欧米人たちは善意で主張しています。民族の文化は民族の宝で、守るべきだと本気で考えていると思います。
だからこそ根が深い。

・侮辱や誤解でなければもっと自由に

穿って考えれば、文化盗用問題は、マイノリティの文化を普遍性がないものとして封じ込める作用をしているかもしれない。
「文化は民族の宝だから、大事にしないと…」
という言葉は、
「その文化はあなた達だけで抱えていてね。広げるものじゃないよ」
という意味にも読めてしまう。

文化は、交流しながら発展するものです。
もちろん、侮辱的な文化の使われ方や大きな誤解、明らかなウソについては抗議すべきです。しかしその民族の人々が不快だと感じていないなら、真似にも、多少のアレンジにも、もっと寛大であっていいのではないでしょうか。

アボカドの寿司に怒る日本人は、もういません。

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