戦場に生きる傭兵と祈りを捧げる男(note版)
ヴァルター・ゴーウェンと言う男
ヴァルター・ゴーウェンは旅の傭兵である。
あちらからこちらへと根無し草のようにゆらいで、その先に戦場があれば、弾いたコインの裏表で加勢する陣を決めてきた。
ヴァルターにとって人なんぞは、どこの属国の輩も同じようなもので、蔑んだ目で嫌味臭く見下すか、逆に熱が篭ってどろりとしたような目で、ねぶるように見つめられるかの二択だった。
ヴァルター・ゴーウェンは人ではない。
正確に言えば、半分しか人と認められてはいない。
大陸全土を人間の国に統一され、属国同士が小競り合いを続ける中、ヴァルターのような半端者や人ならざる者は、ほとんど無き者として扱われている。
人が信仰する神は人だけを産み、愛した。
神の子ではない「人ならざる者」は存在すら疎まれ、憎まれるのだ。
ヴァルターはオークの父と人間で傭兵の母の元に生まれ、18になると、かつての母のように戦場へと足を踏み入れた。
血と砂埃の舞う戦場は、ヴァルターにとって居心地の良い揺りかごのようなものだった。
家畜の子と理不尽に石を投げ付けられるよりも、卑下た輩に伸びた黒髪を鷲掴みにされて路地裏へ引き摺り込まれるよりも、よっぽど息のしやすい場所だった。
断末魔が、悲鳴が、子守唄のように鼓膜を揺らして、勝鬨を聞いた夜にだけ、どこの誰かも知らぬ女の腕の中で、幼子のように眠る。
傭兵の世界はある意味平等だ。
腕っ節と名声があればいい。
それだけで、認められるのだ。
ヴァルターのような者にとって、戦場と、そこに住まう者たちの世界が居場所であった。
「ヴァルター? 起きたのかい?」
「……あー……」
ぼやけた頭で娼婦が己の名を呼ぶ声を聞いた。
うっすらと、嫌々開いた目の隙間から朝日が差し込んで来る。
翡翠色の隻眼を再び、ぎゅっ、と絞るようにして、ヴァルターは頭まで布団に潜り込み、その声を聞かなかったことにした。
宿の者に叩き出されるまでは、久しぶりのベッドでぐっすり眠りたかったのだ。
娼婦は聞き分けのない子供にするように小さく笑って、ヴァルターはでかい図体して甘えん坊だねぇ。なんて、少し揶揄うような言葉を呟いた。
「あんただけだぞ、そんな事を言うのは」
「そりゃ光栄なこった! あの冥府の大太刀の馴染みなんか、私じゃないと務まらないさ!」
娼婦との付き合いは10年になる。
ここもまた、ヴァルターにとって少しの安寧が約束された場所だった。
戦場では誰もが恐れる傭兵を、この12も歳下で姉御肌の娼婦だけは、侮蔑でも損得勘定でもなく、まるで駄々をこねる子供のように接している。
それが、ヴァルターには心地よかった。
ヴァルターは、特定の友を持たなかった。
戦場から戦場へと流れ着く度に傭兵の顔ぶれはガラリと変わるものであるし、昨日酒を交わした男の冷たくなった背中を足蹴にして生き残ったこともある。
血で血を洗い流し、命を賭けるにしてはあまりにも寂しい数の金貨を握りしめて、小競り合い続きの属国と属国に挟まれた街に帰ってくるのだ。
ほとんど見捨てられたようなこの街の住人も、傭兵と似たようなもので、5年もすれば行き先も生き死にすらもわからない。
そんな中で、この娼婦とヴァルターはしぶとく生き延びていた。
そこに妙な縁が生まれたのは、必然だった。
友と呼ぶにはお互いを知らず、とは言え付き合いだけは長くなりすぎたような、曖昧な関係が2人にはよく合っていた。
「あんた、もう行くんだろ?」
「ああ」
しぶしぶベッドから起き上がったヴァルターは、娼婦の豊満な胸元に追加でチップをねじ込んだ。
娼婦はまいどあり! と、上機嫌で部屋を後にし、軽やかな足取りで街に繰り出したのだ。
ヴァルター・ゴーウェンはそんな冷徹で、非常に人間臭い男だ。
マサールと言う名の男
マサールは大酒飲みで、帰る家すら知らぬ、旅の傭兵である。
しかし、好んでこの生活をしているわけではない。
そもそも、マサールと言う名前もこの世界に馴染むために、咄嗟に出た嘘であった。
本来の名前は「東堂勝」
本名を無理やりこちら風にしただけのふざけた偽名を、何年も使い続ける羽目になった、哀れな異世界移転者である。
マサールは寒さの厳しい東北の、地酒が美味い町で生まれた。
大酒飲みになってしまった原因は、間違いなく生まれた場所のせいだと言い切れるほどに、故郷の米も水も美味い町だった。
日本酒に魅せられたのは、成人してすぐの頃。
地元の小さな酒蔵の、祖父よりも年嵩のいった男とその息子が細々と作り続けているような、知る人ぞ知る、むしろ地元の者しか知らぬ。そんな酒だった。
大学を卒業した春、厳密に言えば新卒で入社した会社の新歓の帰り。
日本酒を扱う会社に入社できたことを嬉しがって、ついつい深酒をした夜のことだ。
若干あやしげな足元を気にすることも無く、この酔っぱらいは、自宅へと続く十字路をご機嫌で曲がって……気が付いたら荒野で大の字で寝ていた。
こうして、なんとも情けない異世界転移を遂げた東堂勝は、傭兵団に拾われ、「遠いところ」から来た旅人のマサールになったのだ。
「冥府の大太刀、ヴァルター・ゴーウェンかぁ……明日行きたくねぇ……」
マサールは翌日のことを考えると憂鬱だった。
なんせ、二つ名持ちの悪名高い傭兵に、一時とは言え背中を託すことになるのだ。
冥府の大太刀と言えば、戦場の悪鬼だとか、平気で知人の首を跳ね飛ばしただとか、小耳に挟むだけでも震え上がるような噂で持ちきりの男だ。
一度、戦場で相まみえた時なんぞ、音もなく背後に迫ってきたヴァルターから死ぬような思いで逃げ出したのだ。
その時にできた傷跡は、今でもうっすらと残っている。
マサールは、常連化した宿屋の二階の部屋で、ベッドに倒れ込んだ姿のまま項垂れて、明日が来ませんようにと意味もない祈りを捧げていた。
かと言って、依頼を反故にしてしまえば明日の寝床を失うやもしれぬ傭兵暮らしの者にとって、大した理由もなく選り好みをしている余裕など無いのだ。
大きなため息ばかりついていても仕方ないこともよく分かっていた。
「憂鬱だーーーー……」
そう言いながらも体はむくりと起き上がって、枕元にある木製のジョッキに手が伸ばした。
マサールは、酒がないと何も出来ないと言い張るほど自他共に認める大の酒好きであるが、この世界の酒はマサールにとって水のような薄さで、何杯飲めども酔えるようなものではない。
酒を飲みながら酒が飲みたいと、矛盾した独り言を呪詛のように吐き出して、ひとりでうじうじとするくらいしか、マサールにできる抵抗などなかった。
きっと明日になれば何事も無かったように、宿屋の女将やここを根城にしている娼婦たちに、愛想を振りまくに違いない。
マサールはよく回る舌を買われて用心棒もどきをする代わりに、ほとんどタダのような値段で部屋を借りているのだ。
愛想良くして悪いことなど何もない。
マサールは、大酒飲みで少しばかり世渡りの上手い、すっかりとこの世界に染まってしまっただけの、典型的な日本人だった。
薄暗い酒場の一角に、ヴァルターは居た。
手にした木杯に残る安酒を、何度も口に含んでは舌で転がし、飲み干さないまま置く。
ヴァルターは分かりやすく不機嫌だった。
「……こんな依頼かよ」
依頼主が置いていった羊皮紙を、ヴァルターはもう一度手に取った。
そこに書かれているのは「地主の息子を街まで護衛する」という、やけに穏やかな内容だった。
戦火の中を生き抜く傭兵が、子供のお守りに駆り出されるのか。と、ヴァルターは内心で舌打ちし、残った酒を一気に煽って苦虫を噛み潰したような顔をした。
大して味もしない、酒精を水で伸ばしたような安っぽくてツンとした味にも苛ついて仕方がなかった。
それでも、人として生きる以上、金がなければ生きていけない。
あの安宿にだって、今まさに煽った酒にだって、対価は必要だった。
戦場だけでは稼げない時期もある。属国同士の小競り合いが一段落つくと、つまらない仕事しか残らない。
ヴァルターはこう言った仕事を毛嫌いし、力だけの世界に無理やり土足で立ち入られたような腹立たしい気分になった。
いつも、この気分にだけは慣れない。
つい昨日戻ったばかりだと言うのに、血と火薬で煤けた戦場が恋しかった。
「ヴァルター・ゴーウェンか?」
頭の上から聞き覚えのない声がした。
顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。
二十代後半ほどだろうか、顔には多少の年季が見えるが、どこか柔らかな雰囲気を漂わせている。
だが、その表情は固く、張り詰めていることが見て取れた。
「お前が、今回の同行者か?」
ヴァルターの低く抑えた声に、男はわずかに肩を揺らした。
逃げるような仕草は見せないが、できれば逃げたいと顔に書いているようであった。
「マサールだ。今回の依頼で、お前と一緒に行動するように言われた」
「つまらねぇ子守りだとよ。俺が剣を抜くことは無さそうだ」
ヴァルターは差し出されたマサールの右手をちらりと見て、鼻で笑った。
血なまぐさい戦場に比べ、子守りとさほど変わらぬような護衛など、ヴァルターにとって退屈で、ただ苦痛で、金払いがよくなければ目の端にも入れたくないような話だった。
目の前の男は、どう見ても傭兵には見えない。
鍛えてはいるようだがヒョロっとした痩躯で、余りにも頼りない。
わざとらしく逸らされた目も、ヴァルターの苛立ちを積もらせた。
「あんたにとっちゃそうだろうが、俺にとっては身入りのいい得な仕事でね。そんな風に不機嫌にされちゃやりづれぇよ」
マサールはそう言ったが、その声にはやはり微かな震えが残っていた。
ヴァルターはその様子を無言で、じろり、と睨めつけた。そして値踏みをするように、足先から頭まで視線を這わす。
「……まあ、いい。お前の仕事ぶりを見てから判断してやる」
ヴァルターは立ち上がり、剣の柄に手を置いた。
その動作だけで、マサールは息をヒュッと詰めて後ずさった。
ヴァルターの体は一際大きく、鍛え抜かれた筋肉も相まって、歩いているだけでも威圧されていると感じてしまうほどだ。
平均的な身長に僅かに足りない程度のマサールにとって、目の前でヴァルターが立ち上がると巨大な壁のように見えるのだ。
「何を怖がってんだ。あんたを斬るつもりはねぇよ、契約があるうちはな」
そう言って、ヴァルターは軽く肩をすくめると、少し馬鹿にしたように笑って、マサールの前を通り過ぎて酒場を出た。
朝焼けの空が少しずつ色を濃くしていく。
「行くぞ、マサール。のんびりしてる暇はない」
ヴァルターはマサールを振り返り、着いてきていることを確認すると、登ってくる太陽に目をすぼめながら歩き出した。
登り切った朝日を背に、ヴァルターたちはくたびれた驢馬に引かれる簡易幌付きの荷車に揺られていた。
四頭立てとは言え、荷車のほうが三人の体重に負けかけて軋んだ音を上げている。
地主とは言え見捨てられたあの町の人間が、まともな馬車や馬を持っているはずもない。
まるで、農作業にでも出るような見てくれの、粗末な荷車に大の男が二人と泣き疲れて眠る子供が一人。
地主の息子、アレンはヴァルターを見るなり泣き叫んで、体力が尽きるまで泣き続けて寝落ちたのだ。
一見するとヴァルターの不機嫌な相貌と相まって、まるで人さらいのようにも見えた。
ヴァルターは手に持っていた地図を丸め、御者をしているマサールの肩を叩き、そのまま手渡した。
「マサール、街道に出たら山沿いの道へ迂回しろ」
「なんで? 川沿いのルートの方が近いだろ」
「そっちは鉄砲水で橋が沈んだ。橋の手前を盗賊が狩場にしているから面倒だ」
「あんた意外だな」
「どう言う意味だ」
「黙ってるかと思った」
「……お前は見た目より性格が悪い」
マサールは今朝までの怯えっぷりを忘れたかのように、ニタリとイタズラが成功した子供のように笑った。
この数時間で、マサールの中でヴァルターの印象はすっかり変わっていた。
不機嫌な顔に脅すような言動が変わったわけではないのだが、眠るアレンに上着を1枚掛けてやっているのを見て、少し試したくなったのだ。
マサールはそう言った己の感覚を信じていた。
きっと、ヴァルターは自分たちを悪いようにはしないと確信があった。
ヴァルターは少し不機嫌な顔をして、乗り出していた体を元の位置に戻し、懐に入れていた煙草に火を着けると、ゆらゆらと煙を吐き出しながら、同じような景色が続く荒野に視線を向ける。
見捨てられた町から都会の街まで、丸々一日半。
1回の野宿を挟んで、二回目の夕日を見る頃には到着する予定である。
近頃は盗賊に加え、山の方から魔物も降りてくると聞く。
つい最近まで小競り合いが激化していたせいか、山に逃げた脱走兵の味を覚えた魔物や獣が麓の村まで降りてくることがあるのだ。
魔物と言えば、獣より、下手をすれば盗賊よりも達が悪かった。
人語を理解するほど知能があるものもいれば、人を惑わすものも、単に恐ろしいほど怪力のものもいる。
ヴァルターの身の丈よりも遥かに大きな熊を相手に立ち回るより、小脇に抱えられるような魔物のほうが厄介であった。
動物の括りに入れられないもの、悪魔に魅入られたとされるものを総じて魔物と呼ぶ。
それを専門に狩る狩人は魔物狩りと呼ばれ、繰り返し魔物の血を浴びる度に、人ならざる力を宿すと言われていた。
実際に魔物狩りは強者が多かった。
人から人へ話が伝わる度に、魔物への恐怖と相まって尾鰭がついた噂話なのかもしれないが、ヴァルターはそんな強者でさえ手を焼くものと、お荷物二人を連れて、かち合いたくはなかったのだ。
「なあ、ヴァルター。あんた、何でそんなに戦場にこだわるんだ。平和で実入りのいい護衛だって、俺たち傭兵にとっていい仕事だろ?」
「敵の首を切り落とす瞬間が一番生きてんだよ」
ヴァルターはちらりとマサールを見て、さほど興味も無さそうに言った。
マサールは驚いたように言う。
「あんたほどの男が傭兵の病にかかってるって?」
はぁ、とマサールはため息をついて、頭を掻きむしった。
マサールには、あの血と埃の臭いのする戦場に生を見出す感覚が全く理解出来なかったのだ。
戦場に酔ったように命を散らして行く傭兵は少なくない。
その大半はヴァルターのように名を上げる前に、怒声と土埃の中、地面に倒れて二度と起き上がらない。
それでも、僅かばかりの金銭と引き換えに何度も戦場に向かう者たちを傭兵の病にかかったのだと揶揄するのだ。
「悪いか? 生憎、これ以外の生き方は知らないもんでな」
「あんたの自由だが、俺には理解できねぇわ」
そう言って二人はまた無言になった。
アレンはすぅすぅと眠り続け、荒野は何の変わり映えもしないまま、時間だけが過ぎていく。
時折、ポツポツと言葉を交わしながら、荷車は進んで行くのだった。
日も落ちかけた頃、目を覚ましたアレンはマサールの影に隠れるようにして荷車に揺られていた。
昼頃に一度目を覚ましたアレンは、起きるなり視界に入ったヴァルターの姿に再びしゃくりあげ、慌ててマサールが御者の交代を提案したのだ。
マサールは、そこまで悪い奴じゃあなさそうなんだけどなぁ、と内心思いつつも「おじちゃんの顔怖いよなぁ? でも上着掛けてくれたのおじちゃんなんだぜ」なんてアレンに声をかけ、ヴァルターの反応を伺った。
ヴァルターは、一瞬ちらりと二人を振り返っただけで、何も言わず御者に徹している。
その姿を見て、急に怒鳴りつけられることはないと認識を改めたのか、アレンも少し気を和らげたように見えた。
アレンは、栗毛色の髪に琥珀色の目の小さな子供だった。
街にいる母親の元で暮らすために、父親のいるあの町から一人で出ることになったのだ。
小競り合いが終わったばかりで、脱走兵や仕事を失った傭兵があちこちで盗賊になり、町周辺の治安は以前よりさらに悪化していた。
そこで、離れて暮らしていた母親の元へ避難するような形でアレンは町を出たのだ。
町で一番目と二番目に有名な傭兵の紹介と護衛依頼の仲介をしてくれ、と言うのが傭兵のまとめ役に来た地主からの依頼であった。
一番目は言わずもがな、ヴァルター。
二番目は、意外にもマサールだった。
マサールもまた、名の知れた傭兵であった。
ヴァルターのように二つ名や武勇伝はなくとも、依頼の達成率はほぼ百パーセント。
安請け合いも無理な報酬の釣り上げもしない、一度受けた依頼は投げ出さない。ならず者だらけの傭兵には珍しい男だと、人から人へと評判が回っていた。
「今日はここで野宿だ」
ヴァルターが荷車を止め、荷物を担いで、街道の端にある広場へと足を進めた。
マサールとアレンもそれに続く。
広場には前の通行人がそのまま残して行ったのか、石で組まれた竈が五つ。それを囲む椅子のような切株があった。
少し離れた場所には土嚢と薪が積んであり、簡単な屋根も建てられている。
このあたりは街最寄りの休憩所なので、街も少しは手を入れたのかもしれない。
三人は屋根の下へと荷物を下ろし、それなりの広さがある広場を見渡した。
「誰もいないな」
「ああ。ここはあの町にしか繋がってないからな、この時分に通る奴なんかいないだろう」
ヴァルターは荷物の中からマッチを取り出し、竈に薪を放り込んで、乾いた針葉樹の葉を火種にして火を付けた。
火種が移ると、薪はパキパキと音を立てながら燃え上り、ヴァルターの顔を照らした。
「マサール、お前は飯の用意をしろ。俺は先に寝る」
「おう。できたら起こせばいいな?」
「ああ」
そう言って、ヴァルターは屋根の下まで移動して、寝袋を広げた。
寝袋と言っても、端切れを縫い合わせただけの質素なもので、背中側に縫い付けたツギハギの革が、硬い地面の感触を僅かばかりに和らげる程度のものだ。
その中に入らず、上にごろりと寝転がったヴァルターは、数分もしないうちに寝息を立て始めた。
「傭兵には肝の太さが大切だって言うが、まじかよこいつ……」
「おじちゃん、お腹空いた」
「おう、アレン。ちょっと待っとけよ。美味しいスープを作るからな。ライ麦パンもあるぞ!」
日も落ちて。
パチパチと竈の火の音と、獣避け用んに分けた焚き火が音を立てている。
マサールとアレンはスープが茹だるのを待つ間、切り株に腰掛けて、余った具材に香辛料をふって焼いたものを、ヴァルターには内緒でこっそりと摘んでいた。
慣れないことばかりで気を張っていたせいか、ひと段落ついたところでアレンの腹が盛大に鳴ったのだ。
肉の欠片にかじりつきながら、アレンは今何故ここにいるのか、ぼぅっと考え出した。
アレンは不幸とは言えないが、幸福な子供ではなかった。
三歳の頃には母親が、あちこちの女に手を出す父親に、愛想を尽かして出ていった。
四歳の終わりには弟を連れて継母がやって来て、何かされたわけではなくとも、アレンが察する程度には家の空気が変わった。
それまでアレンを取り巻いていた大人たちが、弟のご機嫌を伺うようになって、子供たちもそれに倣ったのだ。
アレンはその時から10歳に至った今日まで、ひとりぼっちだった。
そして、今も一人寂しく、少しばかりの生活費と今後の養育費の取り決めをした契約書を持って、ヴァルターとマサールに預けられている。
他の明日のことすら分からないような浮浪児や、母親にすら見捨てられてゴミ置き場に転がっている赤子に比べれば、アレンは恵まれていた。
しかし、己があの町では幸福な部類に入る。と、諦めるにはあまりにもアレンは幼かったのだ。
アレンは眠っているヴァルターを見て、ぽつりと呟いた。
「マサールおじちゃん。ヴァルターおじちゃんも寂しかったの?」
アレンは聡い子供だ。
よく人を見て、心の内側にあるようなものをいとも簡単に見つけ出してくる。
アレンは現在のヴァルターの中の孤独を見つけたのかもしれなかったし、自分と近いような、遠いような何かを見つけたのかもしれなかった。
「……もしかしたら、そうかもな。起きたら聞いてみな?」
「やだよ。怖いもん」
そりゃ、違いねぇ! と、マサールが膝を叩いて笑った。
――でも。
アレンが続けた。
「僕、ヴァルターおじちゃんみたいになりたい」
「怖くて、寂しそうなのに?」
「うん」
アレンはヴァルターのことが恐ろしかった。
それでも、その背中はアレンの目には大きく映ったのだ。
アレンが本格的にヴァルターへの印象を変えたのは、今日、昼を過ぎた頃の話に戻る。
荷車を止め驢馬に草を食わせ、自分たちも軽く昼食を取った後。
さて、先を急ごうかと言うところで、突然草むらから魔物が飛び出して来たのだ。
体高1mはあろうかと言う巨大な兎の魔物。
比較的弱い部類で、人里にも度々降りてくるため、食肉として狩られることは多かったが、それでも一般人にとっては大熊に会ったのと大差ない。
アレンは魔物を見たことがなかったが、魔物に出会ったら逃げながら神に祈れと、耳がタコになるほど聞かされてきた。
獣のようにジリジリと後退れば逃げ切れるなどと考えてはいけない、出会ったら神の救済を祈るしかない。
魔物はそう言う生き物だった。
いきなりの遭遇に、アレンは理解が追い付かなかった。
頭が真っ白になる。まさにそんな状況だった。
マサールの体も固くなり、姿勢を低くして腰の短剣に手を掛ける。
じり、と緊張した空気が音を立てた気がした。
額から顎にかけて汗が一筋、たらり、と流れた。
「いい所に来たな」
そんな中、ヴァルターが笑った。
荷車で小さく凝り固まった体を伸ばしながら、背中に回していた大太刀に手をかけ、ゆったりと、リラックスした様子で荷車から降りた。
すらり、と抜かれた刃が晴天の空を反射して、アレンは目をすぼめた。
そして、
とぷん
その音だけを残して兎の首と胴体が離れて転がっていた。
ただそれだけだ。
「マサール、血抜きを手伝え。今日の晩飯はこいつで決まりだ」
冥府の大太刀と、二つ名が付くほどに戦場で暴れ回り、生き残る強さ。
アレンが恐怖を感じる間もなく、ヴァルターの手によって、危険は去ったのだ。
今は、竈の上に乗せた鍋が、ふつふつと煮立って、鍋の蓋を持ち上げている。
その度に、乾燥トマトと兎肉の美味そうな香りが鼻に届いた。
アレンは憧れたのだ。
男なら誰しも一度は夢見るものの形に。
マサールは吹きこぼれそうな鍋を見て、慌てて切り株から立ち上がると、蓋を取って匙で掻き回し、未だ寝転がっているヴァルターと背中側にいるアレンに声をかけ、焚き火の明かりを頼りに食事を始めたのだった。
パチパチと焚き火の爆ぜる音がする。
ヴァルターはひとり、火の番をしていた。
辺りはしんとしていて、静寂が耳に痛かった。
ちょうどいい枝で焚き火を掻き回すと、空気を孕んだ炎が火の粉を上げながら燃え上がった。
時折、薪を足しながら、暗闇の中で揺れる草の音を聞いている。
マサールとアレンは、ヴァルターと交代ですっかりと夢の中にいた。
余程疲れているのかアレンからは、すぅ、すぅ、と寝息が聞こえ、多少のことでは起きそうにない。
昼間は晴れだったこともあり、うっすらと汗をかくほどであったが、荒野では日が落ちれば一気に冷え込む。
風が出れば体感温度もガクっと下がり、毛布なしでは過ごせないほどだ。
ヴァルターは少しばかり埃っぽい毛布を肩から掛けて、焚き火で温めた酒をひとくち、ふたくち、チビチビとやっていた。
ヴァルターにとって、酒は水とさほど変わりが無い。
味が着いた水と思っている節がある。
流石に、自分の顔と変わらないような大きさの小樽を再利用したジョッキで二、三杯もやれば気分が良くなるが、野宿用のカップごときでは寝酒にもならなかった。
ヴァルターとマサールは見た目も性格も真反対であるが、酒に不満を抱いていることだけはよく似ていた。
そして、美味い酒を知っていると言うことも。
ヴァルターは十八になったころに、成人祝いとして母から渡された酒の味が忘れられなかった。
喉を焼くように強く、鼻から抜ける燻したような煙臭さが未だに記憶に焼き付いている。
あの味に比べたら、そこらの酒場の安酒なんぞ、ツンとした臭いのする水のようなものだった。
思い出したように、パチパチと火の粉を上げる焚き火をかき混ぜてから、ヴァルターが立ち上がった。
手に持ったカップを草むらに放り投げると、大きく屈伸をしてから、何のこともないかのように傍らにあった剣を抜き放った。
すらりと、小さな音を立てて抜き身になった幅広の刀身に炎が映り込んでいる。
「おい、出てこい。酒を浴びせてもまだ臭うぞ」
「クソ! 殺れ!」
その声を合図に、草むらから野盗どもがわらわらと飛び出し、ヴァルターに剣を向けた。
ヂリ、と殺気が首筋を刺し、ピリピリと張り詰めた空気が漂う。
先頭にいる野盗の頬に、たらり。と、冷や汗が伝った。
だが、まだ動かない。
動いたら死ぬ。
いつの間にかマサールは飛び起きて、眠そうに目を擦るアレンを背中に庇っている。
アレンは未だ何が起きているのか理解できていないのだろう。
状況を判断するのに約五秒。
両手は反射的に双剣を引き抜いていた。
マサールの額にも冷や汗が滲んでいる。
それを横目で見たヴァルターがニヤリ、と笑った。
「そのままそうしてろ」
ヴァルターの足元から、もやもやとした影が立ち上り体を覆って行く。
とぷん、と音がして、ヴァルターの姿が闇に溶けた。
そして、一閃、二閃、暗闇の中から太刀筋が焚き火の明かりを反射して、噴き上げた血の香りが広場に充満した。
「アレン、目を開けるなよ」
「う、うん」
背中にアレンを庇いながら、マサールはヴァルターから目を離せないでいた。
見失ったと思えば次の瞬間には野盗の首が飛び、目が追いついたと思えばまた見失う。
これが、冥府の大太刀の真髄か。と、マサールは乾いた笑いが出た。
「マサール!」
ヴァルターの声にマサールがハッとした。
反射的に顔の前に双剣を突き出す。
「おご……ッ!!」
やった。やってしまった。
野盗の手から獲物がカラン、と音を立てて地面に落ちた。
喉元に深く突き刺さった双剣の片割れから、マサールの腕に向かって、どろりとした血液が垂れて行く。
真っ黒に開いた瞳孔と目が合った。
聞こえるのは、自分のひゅ、と詰まったような息と、野盗のゼェゼェと言う呼吸音だけだ。
たった数秒の間が永遠にも感じられた。
「何やってんだ、汚れるぞ」
そう言って、ヴァルターが野盗を蹴飛ばす頃には全てが終わっていた。
広場はすっかり血と臓物で酷く汚れ、鼻が曲がるほどの臭気で満ちている。
「マサール、片付けを手伝え。子供にやらせるつもりか?」
「わかってらァ!!」
片付け、とは。
血の匂いに獣や魔物が引き寄せられないように亡骸を焼いて、骨が粉になるまで焼き尽くすことだ。
賞金首であれば首だけ持ち帰ることもあるが、この野盗たちの顔は手配書には載っていないようだった。
価値もないようなものだけ道の脇に放り投げて、懐を漁る。
食いっぱぐれて身を落としたのだろうか。大したものもなく武器すらも錆だらけで手入れがされていないのがよく分かる。
亡骸を積み上げて、薪を組んだら油をかけて筵で覆い、しっかりと縛り付ける。
そうすれば、亡骸があぶられてはね回ることを避けられるからだ。
亡骸が燃え切るまでには時間がかかるものだ。
マサールとヴァルターは順番に井戸に水を組みに行き、頭からそれを被った。
もうウトウトとしているアレンは、流石にあの町の子供であったし、すっかりと目が覚めてしまったマサールのほうが繊細であった。
独特の臭いをさせながら、めらめらと炎が揺れている。
しばらくボーッとそれを見つめていたマサールは、急に思い出したかのように目を閉じて、手を合わせながら頭を垂れた。
「何してんだ」
「祈ってんだよ」
「何に?」
「わからん」
目を開けたマサールは、眉に皺を寄せて、何とも言えないような顔をしていた。
「わかってんだけど、わからん」
「俺にはお前がよく分からん」
マサールの言うことに頭が痛くなったように顬をグリグリと揉みながら、ヴァルターは巻いたばかりの煙草に火を着けた。
この一服がたまらねぇんだよなぁ、と呟くヴァルターにマサールはお前こそよく分かんねぇな、と返して、どうでもいいような話をしながら、いつの間にか寝ていたアレンを膝に朝日が昇るのを待ったのだ。
昨日の名残りが、ぶすぶすと煙を立てて燻っている。
結局、目が冴えてしまったマサールは、火の番をしていたヴァルターの隣で朝を迎えた。
二人して荷物の底から酒を取り出して、大して意味もない雑談で盛り上がったような気もするが、酸っぱくなりかけた安酒ばかり飲んでいたせいか、どうにも頭がすっきりしなかった。
安酒の悪いところはこれだ。
例え酔うほど飲んでいなくとも、起き抜け一番に頭痛が襲ってくる。
ぼりぼりと頭を搔くと、昨日落とし残した乾いた血がぽろぽろと落ちて、マサールはどうにも気分がわるくなった。
昨日は戦いの興奮と酒ですっかり頭から抜けていたが、血と言うものは思いがけないところまで跳ねるもので、翌日気分悪くなりたくないのなら、何度も頭から水を被って全身丸洗いするのが一番である。
井戸のほうへ視線を向けると、ヴァルターも同じようにすっきりしない表情で雑に顔を洗っていた。
それだけではすっきりしなかったのか、結局半裸になって頭から井戸水を浴びているが、ちらりと横目で見た顔は、昨日よりも険しくなっている。
二人して、今回の酒はハズレもハズレだ。
そんなハズレをちゃんぽんしたところでハズレにしかならないものを、野盗を倒したばかりの沸いた頭で判断して、何もかも間違いだらけの悪酒を飲む羽目になった。
頭痛のあまり半分しか開かない目を無理やりこじあけて、ヴァルターが顔を拭いながら歩いて来るのを確認してから、マサールも立ち上がる。
すれ違いざまに間近で顔を見て、どちらからともなく、お互いにひどい顔だなと乾いた笑いが漏れた。
酒の力は偉大だ。
物事を良くする時もあれば、時には取り返しも付かないほど悪くもする。
だからこそ、恐ろしくも偉大だ。
ヴァルターとマサールの場合は、どうにか良い方向に転がったようだった。
最初の印象はアレでも、野盗に対してきちんと仕事をしたマサールをヴァルターは認めたし、マサールも早々にヴァルターの本質を見抜いていた。
結局のところ、二人とも(ついでに言えばアレンも)孤独で似たもの同士でしかない。
マサールもヴァルターを真似て、頭から水を勢いよく被った。
「冷てえ!」
「当たり前だろ、まだ日が昇ったばかりだぞ」
さっさと服を着たヴァルターが、ガシガシと頭を拭きながら呆れたような声で言った。
辺りはすっかり明るくなったが、肌に当たる風はひんやりと冷たく、井戸水で行水するにはあまりにも低い。
マサールは寒さと自分の頭を伝って石畳に落ちた水の汚さにゾッとして、ガチガチと鳴る奥歯を無視して、二度、三度と井戸から水を汲み上げている。
「お前寒くなかったのか!?」
「寒い」
ケロッとした顔でヴァルターが答えた。
マサールは忌々しげにヴァルターを見て、筋肉量の違いに気が付き、眉間に皺を寄せ、苦虫を噛み潰したような顔をした。
マサールもそれなりに鍛えてはいるが、それなりだ。
元より筋肉が付きにくいひょろりとした体格で、つまるところは、ただのやっかみであった。
マサールの大声で起きたのか、アレンが眠そうな目を擦って起き上がったが、いい歳をした大人が半裸でじゃれているのを見て二度寝を決め込んでそのまま寝転がった。
あの町の子供達は皆、傭兵同士の筋肉についての話が面倒なことをよく知っている。
知らないフリが一番である。
結局、アレンが再び目を覚ました頃には太陽は随分と高くなり、眠そうな顔をしたロバを急かして、町への道を駆けぬけたのだった。
あれからまた、特に変わり映えのない荒野をヴァルターたちは進んでいた。
魔物や野盗なんぞ、この人通りが盛んとは言えない街道近くにそうそう出るものでもなく、牧歌的とまでは言わないが、つまらない景色が目に飛び込んでは流れていくを繰り返していた。
日は地平線の縁に引っかかって、今にも沈んで行きそうなほどに傾いている。
丘を登りきった先に、隠れていた風景が三人の目に入った。
堅牢な石壁と堀に囲まれた、まるで砦のような街だった。
遠目で見ても、立派な見張り台まで付いた街の入口は、天辺にはためく国旗と相まってまるで城門のようにも見える。
これでいて、この国ではそこまで栄えた街ではないと言うのだから、帝都に行けばどれだけ立派なのかと想像すらできないほどである。
「ギリギリ間に合うか?」
「驢馬たちが次の丘で根をあげなきゃな」
街の入口は日が落ちてから一時間もしないうちに橋が上げられ、出入りができなくなる。
かつて、この一帯でも内紛が激しかった頃の名残りで、街の守りは平時であっても鉄壁だ。
朝から急がせたせいか、体力があるはずの驢馬たちも足取りが重く、明らかにスピードが落ちている。
このままでは街の石壁のそばで二日目の野宿をするはめになる。
言葉にせずとも三人の心の内は同じであったし、アレンに至っては大人二人に振り回されて少々しらけていた。
門限に間に合わず、街の外側で野宿をする者は少なくないが、それ専門のコソ泥を警戒する手間が煩わしいので、できれば日が落ちる頃には街に入ってしまいたい。
「ヴァルター、あんた重いんだから降りろよ」
「ふざけるな、お前が降りろ。少しは歳上を敬え」
その時だった。
丘の反対側から、こちらに近付いてくる影がアレンの視界に入った。
「ねえ、あれ、人じゃない?」
ヴァルターとマサールも、目をすぼめるようにして遠くを見据えた。
影は人間の形をしているように見えたが、夕日を背にしているせいか、ゆらゆらと形を変え、大きく左右に揺れているように見える。
「……ただの旅人にしちゃ、あの動きは妙だな」
ヴァルターが眉をしかめ、手にした大太刀を背から下ろし、柄を握りしめた。
チリ、と空気が張り詰める。
影はさらに近づき、輪郭がはっきりとしてきた。
夕日に照らされているはずなのに、その肌は異様に灰色がかり、まるで枯れ木のように硬質であることが見て取れる。
そして、顔の輪郭がはっきりした頃。
虚ろな眼窩の奥で、ぼやりと人魂のような光が赤く輝いた。
「死者だ……!」
ヴァルターが低く唸った。丘の向こうから現れたのは、かつては人間だったもの。
恨みを持ったまま死んだ人間が、地脈から魔力を吸い取り仮初の命を得た、人ならざるもの。
アレンが恐怖に声を失っている間に、死者はすぐ目の前にまで迫ってきていた。
ゆらゆらと大きく揺れているくせに、その動きは妙に俊敏で、こちらに向かって迷いなく突き進んでくる。
――間違いなく、獲物として認識されている。
「アレン、荷車の後ろに隠れろ!」
「おい、ヴァルター! こいつら一体だけじゃないぞ!」
マサールの警告と同時に、丘の向こう側からさらにいくつもの影が姿を現した。
腕がないもの、顔面の欠けたもの、異様に首が長いもの、はち切れそうなほど膨れたもの。
姿は様々であったが、眼窩の奥から染み出るような怨念を抱いた赤い目だけは、どのものも同じであった。
「クソ、この報酬じゃ割に合わねえな」
ヴァルターがため息を吐き、嫌悪を隠しもせずに、背中の大太刀を鞘から抜き去り、飛びかかってきた死者の頭を飛ばした。
「そんなこと言ってる場合かよ! たった一日半でこんなに危険な目に合うことあるか?! 最悪だ!」
マサールも遅れて双剣を抜き放ち、額に冷や汗を垂らしながら、迫ってくる影たちを睨み付ける。
「このままだと間に合わないよ! 街にいっても入れない!」
「言われなくても分かってる! こんな団体様はお断りだろうよ!」
マサールは言い返しながらも、荷車から飛び出した。
もう間もなく日が完全に沈む。
堀の橋が上げられる前に、この死者たちをもう一度冥府に送らねばならない。
「かがめ」
先に飛び出したはずのマサールのすぐ後ろにヴァルターが迫る。
反射的に屈んだ頭の上を、大太刀が一閃。
ビチャビチャと何かが飛び散る音と、胃がひっくり返るような臭気が鼻をついた。
マサールが顔を上げると、ヴァルターは既に次の標的を見定め、大太刀を振るっている。
脇を抜けてくる小者の眉間に剣を突き刺し、ヴァルターが取りこぼした獲物を仕留めて行った。
「おい! こんな悪趣味なもんばっか寄越すな! 後味が悪くて仕方ねぇ!」
「うるせぇ、そいつらの丈が足りねえんだ」
言葉とは違って、マサールの表情は何かを憐れむようだった。
的確に、ただ、的確に。
死者に痛覚などないとしても、これ以上苦しまぬように、確実に頭を破壊していく。
「あー!! なんまんだぶなんまんだぶ!」
表情が険しくなる分だけ、口は軽くなった。
そうでないと、やっていけないとでも言うように。
「マサール、アレンを乗せて走れ!」
視線の先で、道が開けた。
マサールは双剣を引き抜き、体勢を崩さぬまま荷車の方向へ駆け寄る。
怯えるアレンを乱暴に抱え上げ、荷車の上へ放り込んだ。
『しがみついてろ!』と怒鳴る間にも、死者が迫る音が背後から聞こえる。
その瞬間、遠くから甲高い鐘の音が鳴り響いた。街の門の締め切りが迫っている合図だった――。