ひろしま 島の記憶
「ひろしま」は7本の川を束ねた扇形。
標高1300m近くから複数の川が合流し一つになり、そこから七つに分かれる
それぞれの川幅が広く、緩衝帯の緑地が市街地を縦断する。
その為、広島の空は広く視線は海と山に開かれている。
そこは水だけでなく空気が流れる通り道。
山風・海風の往復が、昼夜、呼吸のように繰り返される。
そして、大潮の潮位差4M。干満の差が瀬戸内の中で最大の広島湾。
1日2回6時間おきに干満を繰り返す。
潮は最下流から上流の牛田、祇園付近まで登る。
絶えず流れの向きが変わり、川であり海でもある境界が曖昧な汽水域。
湾の水は入れ替わりが激しく牡蠣などの海産物に恵まれる。
一方、浅野の時代の水害は66回を数える大災害地帯でもあった。
「ひろしま」はかつて島だった
15世紀の地図を見ると、中洲には現在は公園化され地名として残る、比治島、江波島 後に広島城となる箱島(白島)
デルタの扇の結節点、現在の祇園あたりにはかつて「倉敷」と呼ばれた場所があった。そこには太田川上流の厳島神社所領から産物が集積され、隣接地には「八日市」と呼ばれる市が開設された。
中世海路交易の一大拠点であった厳島門前に向けて、この「倉敷」から船で人と物資が往来した。
時代を経て、見慣れた7本の川は干拓事業によって徐々に構築された、
そして、多くの水害を経ながらレジリエント(復元力のある形)に造形され、原爆でも崩れない土木の要塞として今日その姿を残した。
かつてこの場所には潮の動きとともに広島全体、そして広島湾全体を覆う一つの生活文化圏が存在した。
旧暦6月17日大潮の日に合わせて行われる音の祭典、管絃祭。
現在平和公園のある中島の旧材木町にあった厳島大明神では管絃祭に大きな市が立ったことで知られる。
管絃祭前夜、本川、京橋川には厳島に向かう御供船そして、次の日の夜半に白島あたりでそれを迎え入れる高提灯と火振り。
潮の干満の動きと同期しグルーブする形で川を舞台くり広げられる旧暦の時間の営みの中で、人々は神々の音連れ(おとづれ)を感じたであろう。
それは島であった時代から続く遠い記憶。