パビリオン・仮屋・市立て
写真は宮島にかつて宮島歌舞伎が行われた芝居小屋「明神座」
場所は嚴島神社のちょうど真裏にあたる大町の三翁神社前。
現在、嚴島神社社務所があるあたりである。
宮島の町名 北之町 中之町 幸町 大町 南町
北・中・南に対し
幸町と大町の町名が不自然に割り込む印象。
大町はかつて奉行所があった場所。
さらに大小の仮設芝居小屋が集積するゾーンであった。
仮屋(かりや)と呼ばれる仮設的な建物が多いのには理由がある。
この町は神社から距離が近く、防火上の理由で建物を建てられない時期もあり、建築が制限される地域であった。
規制を避けるため、仮設として建てられその後、常設化するという流れがあったのかもしれない。
*『かりや』は『ぬりや』と対置されることから、土壁かどうかが基準であるらしい。
写真の三翁神社の屋根と比較すると、巨大構築物であったことが窺われる。公の管轄の中、神事にひもづいた興行。市、富籤、舞台が行われた。
パビリオン【pavilion】としての建築群。
テンポラリーに振る舞える大きな余白を残し、非常時のパフォーマンスを最大化した町それが大町であった。
明治初期に火事に遭い明治8年、大鳥居建設の残材を利用し民間の手で再建された。その後、勧業博覧会に合わせて、明治28年この地に宝物陳列館が建設され、芝居小屋は北ノ町に移設され、しばらく明神座として継承され。
大正に入り宮島劇場と改称し、映画館に姿をかえ、時代の変遷と共にその用を終えた。
管絃祭をはじめ、市立ての神事が時を告げ催される市とにそれに端を発する
仮設興行都市の文化的遺構は規模や形をかえ現代に受け継がれている。
そこで行われる全てを神事化し形式化し秩序正しく執行されるかに思える
アポロン的神事を引き金にそこに立ち上がる劇的空間
さらに時間差でもたらされる市、興行のデュオニソス的連鎖。
ハイカルチャー(High culture)に対する
カウンターカルチャー(Counterculture)
権力者(Authority)と不法占拠者(squatter)
式年サイクルで拮抗する力のダイナミズム
それは一連の祝祭空間の中に潜むもう一つの「宮島の、かたち。」
山王(三翁)社祭礼 舞楽 屋外仮設舞台 芸州厳島図会
社殿奥に見える明神座の切妻屋根 (明治12年頃)
写真と同時代のモノクロ図版の中の芝居小屋 明神座
写真と同時代のカラー図版の中の芝居小屋 明神座
*図は宮島ではなく、安政5(1858)年江戸中村座の内観。
舞台間口は6、7間1000人程度の収容が可能であったと思われる。
北之町の宮島劇場 1959(昭和34)年 写真:亀井勝之氏
明治10年代の宮島 写真:THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY
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