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失われた時を求めて1 海上都市の住所

  

    
1959年(昭和34年)7月22日(旧暦6月17日)管絃祭
場所は会場(博多屋)の目の前の海岸線 有ノ浦(尼ノ洲)
モノクロ写真2枚の合成パノラマ
その光景は現在の見慣れた砂浜と防波堤の海岸線とは大きく印象が異なる。
現在の防波堤の位置から約8Mセットバックした位置が当時の海岸線で深さのある雁木である。
海との関係はフラットで、船足場が陸地に渡され、海に対して開いた印象
そこにいる船の大半は停泊する場所住所のように毎年決まっており、1週間以上滞在する人も多かった。
船舶数は昭和20年代と比べ既に減少傾向にあった。
とはいえ昭和50年代初期は千隻を超える船舶数であった。
その後減少を続け、平成13年には68隻、現在は神事に参加する江波(広島市)と阿賀(呉市)からの関係船数隻のみとなった。
一年の大半を海で暮らす海上生活者(家船)が瀬戸内から姿を消し、次いで漁業従事人口の減少、雁木の砂浜化防波堤の建設。
手漕ぎ→動力化→エンジンの方式の変更、砂浜への着岸が困難となるなど、社会的背景は大きく変わった。
陸上の市の賑わいと共に、海岸通りを挟んで、1年に一度出現する、
式年の仮設海上都市が確かにそこにはあった。

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