何者にもなれない私達は今日もご飯が美味しい
私は現在、働いていない。
モデルも夜職も何にもしていない。
同居人の帰宅するまでの時間はまさに空白で、無限にも感じられる。「何かしなくては」 と考えれば考えるほど身も心も重力に完敗しソファーの上でみっともなくドロドロに溶けてしまう。
ついこの間25歳を迎えた。節目の歳であることに違いない。私のように自分を商品にしている人間からすればラストチャンスと言える時期なのだろう。イマイチ気持ちが踊らないのは半ば撮られることへの諦めが芽生えてきたからなのかもしれない。
私より若く美しく綺麗な体をしていて、なおかつ発信力やセンスに恵まれている人は大勢いる。元から張り合えるほど頑張ってもいないけれど、周りと比較して勝手に落ち込むのはもう疲れた。
憧れたり羨んだりすることをやめ、「見る側」としての角度から閲覧して初めて私は写真が好きなのだと思った。最初から無理して参加するほどのことではなかった。私がやらなくても誰かがやるのだから。本当に随分、気が楽になった。
大金をかけて工事する予定だった憎い顔面のコンプレックスも不思議と可愛らしく思えてくる。
なんだ、特別美しくなくてもいいんだ。
そんな風に、なんとなく自分なりの折り合いがついた。写ることへの執着が無くなったんだ。ようやく私は解放されたのか。勝手に自分を 「写る人」という枠組みにはめ込んで苦しくなっていたということにやっと気がついた。
もうやめていいんだ。
やりたい人だけやればいい。私に無理を強いていたのは私だった。ヌード写真を掲載して得た意図していない層からのフォロワー数など見せかけの数字であることはわかっていても何も無い私にとっては縋りつかざるを得なかったんだと思う。それも許そう。もう休んでいいよね。
何者かであり続けなくても日々は巡るしご飯は美味しい。それでいいじゃないか。
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