「同期の桜」はなぜ団結するのか? ―人気ドラマ、もう一つの見方―

  日本テレビで毎週水曜日に放映される「同期のサクラ」という番組。高畑充希主演、そして「家政婦のミタ」「GTO」などを手がけた、遊山和彦脚本のドラマだけにおもしろい。めったにドラマを見ない私も初回から引き込まれてしまった。

 私なりの見方をすると、ドラマを引き立たせているのはタテとヨコの好対照、つまり会社というタテ社会のなかに放り込まれた新人が、同期というヨコ社会で本物の人間関係をつくり、本音をぶつけ合うところだ。それは日本の会社組織を皮肉ると同時に、あるべき姿を示しているように思える。

 「同期」という言葉は日本特有のものだろう。そもそも新卒一括採用は日本のユニークな慣行だが、「同期」は単に採用された時期が一緒という以上の重みをもつ。その会社にいるかぎり、いや、たとえ会社を辞めても同期とだけはつながっているというケースは珍しくない。それだけ「同期」の間では素顔の自分を出すことができ、人間的な紐帯でつながっているのだ。

 しかし、ほんとうの自分を出せるのが同期の間柄だけなのかというと、そうではない。

 私は以前、国内の会社や役所を訪ね、管理職と若手の両方に対し、部下や自分が「やる気を出す(やる気が出た)のはどんなときか?」を聞いて回ったことがある。すると圧倒的に多かったのが、「プロジェクトチームに参加したとき」という声だった。プロジェクトチームのメンバーとは終わった後でも交流が続いているという声もしばしば耳にした。

 通常の組織の枠を超えて結成されるプロジェクトチームは、目標がはっきりしている。そして上意下達、命令ではなくヨコの調整やコミュニケーションで動く。そこが日常の業務とは異なるのである。とくに日本の組織は上下関係が単なる役割上の関係ではなく、そこに人格的な要素が付随する。俗な表現をすると上司は「偉い」のであり、組織の階層は「偉さ」の序列だといっても過言ではない。

 それは上の者にとって快適な反面、下の者にとっては不快であり、ときには苦痛に感じることもある。少なくとも若手が自由に発言し、ノビノビと仕事をするのを妨げる力として働く。そうしたタテ社会の圧力から解放され、自分を出せる場所が同期の集まりであり、組織の枠を超えたプロジェクトチームなのだ。

 組織のなかの上下関係はどこの国でもあるが、日本のように人格的な序列が存在するのは他の先進国には見られない。ルールに基づく命令と服従の上下関係と人格とは切り離されており、人間的には対等なことが前提になっている。

 人格的な序列をともなう日本型の上下関係は、日本社会の伝統として長く受け入れられてきた。それが組織の秩序を保ち、規律正しい組織人を育成する上で大いに役立ったことも事実である。しかしいま、日本人の「ワーク・エンゲージメント」(仕事に対する積極的な関わり方)や、組織への積極的な帰属意識は世界最低水準である。

 さらに国民の「幸福度」も残念なほど低いレベルだ。ちなみに「幸福度世界一」(2017年)のノルウェーは「世界一フラットな国」だともいわれ、幸福度上位を独占する北欧諸国はいずれも人格的に平等、対等な理念が浸透した社会である。

 わが国の職場ではまた、上司への「忖度」、パワハラ、メンタルヘルスの不調といった、さまざまな病理現象が表れている。これらも人格的な上下関係、「偉さ」の序列と無関係とは思えない。

 「同期」という世界的には特異な存在をとおして、職場や社会のあり方を考えてみようではないか。

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ohtahajime
「個人」の視点から組織、社会などについて感じたことを記しています。