ほんとうの自分は見つかるの?ーラカンのシニフィアン連鎖
こんなのほんとうの自分じゃない。もっと自分はきらきらしていて、もっと人気があって、勇気のある人間なんだ。
ほんとうの自分はこんなもんじゃない。自分自身の認識を正しく持つことは難しい。ときに人は、自分を受け入れることができず、ほんとうの自分を探してしまう。
ほんとうの自分はバックパックを担いで歩く旅先で見つかるわけではない。そもそもほんとうの自分なんてあるのだろうか。
ほんとうの自分とは、到達できない架空の自分である。
そういうとなんて空虚な人生なんだとあなたは思うだろうか。
自分の人生を受け入れることができないとき、なにか理想と現実のギャップが生じるときに、人はほんとうの自分を探す。
学校や職場でかがやけていない自分がいる。私生活もなにか心が躍るようなことがない。こんなはずではないと現実から目をそむけるとき、人はほんとうの自分を探し始める。
これがほんとうのわたしであると言うとき、その言葉を保証してくれるものが必要だ。だがそんなものは現実から目をそらした先には見つからない。
これがほんとうのわたし、これがほんとうのわたし、これがほんとうのわたし……。
こうやって何度も繰り返してつぶやいても、ほんとうのわたしが現れることはないし、ほんとうのわたしがわたしであることを保証してくれるものはない。
ラカンは、意味するもの=シニフィアン(言葉)と意味されるもの=シニフィエ(意味)の関係をこれまでの言語学的な前提から刷新した。
これまではシニフィアンとシニフィエは横線で区切られた表裏一体のコインの関係であった。またシニフィエはシニフィアンに優位である。つまり先に意味されるものがあった。木という言葉の前に木という一本の静的な細長い物質(概念内容)をイメージすることができる。わたしという言葉の前に、わたしのイメージがある。
でもそうではなかった。
ラカンによれば、シニフィアンはシニフィエに優位である。
ラカンは、シニフィアンとシニフィエを囲む円状の線を消し、その表裏一体性を消す。またシニフィアンとシニフィエの間に横線を描き足していく。
シニフィアンとシニフィエを区切る横棒はない。囲まれた円から逃れたシニフィアンは横滑りし、固定されない。
シニフィアンは連鎖していく。意味するものは、特定になにか意味されるもの=シニフィエを示すことはない。
わたしはシニフィアンによっては表象されない。ほんとうのわたしという言葉が意味するものはなにもない。そこにあるのは空虚な言葉だけだった。
ほんとうのわたしを保証する「メタランガージュ」は存在しない。他者の言葉は存在しないのだ。わたしを意味するものは流れていく。固定した意味を示すことがない。
わたしをわたしだと言い切れない世界に、わたしたちは生きている。そのなかで、わたしはわたしをどう肯定するばいいのだろうか。
参照文献
佐々木中 2011『夜戦と永遠 上』河出文庫。