『俺ガイル』 再考 (最高) 自己責任論社会で、主人公が求める本物とは?
それでも、俺は、俺は・・・本物が欲しいっ!
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。9 Kindle 版. 』
ガガガ文庫 2014 (Kindle の位置No.3074-3093).
はじめに
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』をご存知だろうか。渡航が原作を手がけたライトノベルであり、アニメも2期に渡って放送された人気作品である。2020年春には『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。- 完 -』と題した3期の放映が決定した。2010年代の残念系作品における金字塔的存在であり、多数の人間を『黙っていれば女の子に囲まれてモテていくキレ者の主人公』になれると夢を見させ、『ただ暗いだけの寡黙なオタク』を増産させた悪魔的な作品でもある。
それほどまでに多くの人間に影響を与えたこの作品であるが、実は考察を加えてみると大変奥が深い。示唆に富んだ台詞回し、主人公を取り巻くキャラクターの魅力、ストーリーの構成などは、深夜アニメにおいて随一と言って良いほどである。『俺ガイル』が2020年春に放映が決定した今、当作品を見つめ直して、その魅力を十分に語りつつ、当作品を読み解いていくことを目的とする。
(当Noteは、早稲田大学文化構想学部 文芸・ジャーナリズム論系演習『思想と文学』のプレゼンテーションを一部抜粋したものである。)
『俺ガイル』とは
まずはじめに、当Noteにおける『俺ガイル』の主題を確定させておこう。『俺ガイル』は、一言で表すと、「主人公の『比企ヶ谷八幡』が、上辺ではない、『本物』の人間関係を獲得していく物語」である。
読者各位は、『本物』という言葉を念頭に置いていただいて読み進めてもらえるとわかりやすくなるであろう。
あらすじ
まずは『俺ガイル』を知らない方のために超絶かいつまんで中身をご紹介しよう。(ちなみにアニメ自体はAmazon Primeで視聴可能である。お目通し願いたい。)
登場するキャラクターは以下の通りである。
(参照:https://www.tbs.co.jp/anime/oregairu/chara/)
雑なグルーピングで恐縮だが、簡潔にまとめさせてもらった。当作の主人公である『比企ヶ谷八幡』、メインヒロインの『雪ノ下雪乃』『由比ヶ浜結衣』の3人で構成される『奉仕部』を中心に物語は進んでいく。『奉仕部』は、学校の困りごとを解決する『便利屋』的部活である。深夜アニメにおける「部活動」は、主人公とヒロインの出会いの場、さらには世界と連結する中間項的な空間として機能するが、『俺ガイル』においても同様だ。『比企ヶ谷八幡』『雪ノ下雪乃』『由比ヶ浜結衣』が、『奉仕部』を媒介にして世間と関わりを持つ中で、その3人における密接な関係性を獲得していく。
公式サイトからあらすじも抜粋しておこう。
過去のトラウマと、独自のひねくれた思考回路によって「ぼっち生活」を謳歌しているように見える比企谷八幡は、ひょんなことから生活指導担当教師、平塚 静に連れられ「奉仕部」に入部する。同じ部に所属する息を呑むほどの完璧美少女・雪ノ下雪乃や、クラスの上位カーストに属するギャル・由比ヶ浜結衣とともに、八幡のやさぐれた価値観も少しずつ変化せざるをえない、そんな経験を通し、果たしてこの先、彼の高校生活はどんな展開を迎えるのか!?
(参照: https://www.tbs.co.jp/anime/oregairu/story/ より)
魅力的なキャラクターもこの作品のファン獲得に一役買っている。
余談だが、ここで僕の推しキャラクターを紹介しておこう。
『一色いろは』という女
彼女に女性観を狂わされた同志がいたら僕にDMをしてほしい。一色いろはは、奉仕部に依頼を持ってくるサッカー部のマネージャーで、比企ヶ谷、雪ノ下、由比ヶ浜の一学年下の後輩にあたる。主にアニメ2期から物語に絡み始めるこのキャラクターの魅力は、『あざとかわいさ』だ。とにかく可愛い。この写真を見てほしい。
『普通に可愛い女子高生キャラクターじゃん』とか『割と中の上くらいのヒロインだね』とか、そう言った感想を口にした各位はよく反省をしてほしい。彼女はとにかく可愛いのだ。可愛くて、あざとくて、少し切ない。アニメではあやねるがCVをしているので、その可愛さは格段に上がる。『PSYCHO-PASS サイコパス』や『ニセコイ』など多数の人気作でメインを務めるあやねるに、脳天持っていかれたオタクたちは今どこで、一体何をしているのだろうか。
『俺ガイル』と『スクールカースト』
話が逸れたが、魅力的なキャラクターが多数存在している『俺ガイル』の構造分析をここからしていこう。
早速だが、『俺ガイル』においては『スクールカースト』の概念が非常に重要となる。『スクールカースト』はおそらく耳なじみの深い言葉であるが、ここで定義をはっきりさせておく。
教育学者の鈴木翔氏は、スクールカーストのことを、「クラスメイトのそれぞれが『ランク付け』されている状態」であると定義した。
(鈴木翔『教室内カースト』光文社新書2012 p27 )
「当たり前だろ」との声が聞こえてきそうなので、もう少し踏み込んで現場レベルに落とした定義を探すと、森慶一氏は以下のように定義をしている。
主に中学・高校で発生する人気のヒエラルキー。俗に一軍、二軍、三軍、イケメン・フツメン・キモメン、A、B、Cなどと呼ばれるグループにクラスが分断され、グループ間交流が行われなくなる現象
(森慶一『学校カーストがキモメン生むー分断される教室の子ども達
『AERA 2007年11月19日号』)
少し分かりやすくなった。経験がある方もいるだろうが、クラス内で自分のランクが決まってしまい、その階級によって断絶が行われる状態のことを示している。『スクールカースト』によって、いじめや不登校と言った問題が発現するため、問題視する学者も多い。
そして、スクールカーストの本質には、『振る舞いの規制』がある。「カースト」とは、インドにおける身分制度から派生したものだ。身分が規制され、結婚の可否や職業選択の自由がその身分によって阻まれることになる。言い方を変えれば、「身分に応じた振る舞いや行動を強制される」ことになるのである。教室内で、一軍は一軍なりの、二軍は二軍なりの行動が強制される。そして、上の身分の人間に対して、下の身分の人間が逆らうことは当然許されない。
このスクールカーストの概念が、『俺ガイル』には色濃く存在している。
以下は、『俺ガイル』におけるスクールカーストを図式化したものである。
最上位には、『葉山』『三浦』と言ったキャラクターから、ヒロインの『由比ヶ浜』までが立ち並ぶ。彼らは最上位の存在として教室内に君臨する。
一方の『比企ヶ谷八幡』は最下位である。八幡は、彼なりにぼっちとしての生活を過ごしている。しかしながら、彼は作中では、『ぼっちこそが最適化されており、過ごしやすいものである」と高らかに発言をしており、カーストを全く気にしないそぶりを見せている。
“ 彼らの仲間意識というのは相当なもので、自分の群れ意外とはあまり話さない。単独行動時に他の群れに交じろうとしない。それを考えると結構排他的であり差別的だ。つまり、逆説的にぼっちマジ博愛主義者。何も愛さないということはすべてを愛することに等しい。やべぇ、マザー比企谷と呼ばれるのも時間の問題だろこれ。”
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。3』ガガガ文庫 2011 p157
このような発言もしている。ぼっちやカーストという概念は、八幡には何も関係がないように思える。
カーストの弊害
ところで、『スクールカースト』による弊害とは何か。いじめや不登校といった社会問題に繋がることはもちろんのこと、先に示した『振る舞いの規制』が根本の問題である。
端的に言えば、振る舞いの規制によって、態度やキャラクターに規制が入り、上辺だけの人間関係が多発する。
アメリカの社会心理学者である、ジョージ・ハーバート・ミードは、自己と他者の行動について、主語『I』と主格の『Me』を例にとって、以下の考察をしている。
Iとは他者の態度に対する生物体の反応であり、Meとは他者の態度の組織化されたセットである。他者の態度が組織化された「me」を構成し、人はそのmeに対して「I」としてリアクトする。
(ジョージ・ハーバート・ミード『精神・自我・社会』稲葉三千男、滝沢正樹 中野収訳 青木書店 1973 p187 )
かいつまんで恐縮だが、ここでジョージ・ハーバート・ミードは、「人間は、他者に期待されている事柄によって、その行動様式を変化させていく」ことを示している。(詳しくは、『精神・自我・社会』を読んでほしい。)
これをスクールカーストに当てはめていくと、例えば、二軍と定義された、つまり二軍であると他者に期待された人間は、それに準じた振る舞いを行うようになる。二軍は一軍の人間に逆らわないような期待をされ、行動を規定される。すると、子供達は、自分のカーストを守るために、最下位カーストのぼっちにならないために必死に取り繕い、常に上位カーストのご機嫌伺いをして、希薄かつ上辺だけの人間関係を構築するようになってしまう。
『俺ガイル』の主人公『比企ヶ谷八幡』は、この『上辺だけの関係』を徹底的に嫌う。
誰かの顔色を窺って、ご機嫌とって、連絡を欠かさず、話を合わせて、それでようやく繋ぎとめられる友情など、そんな物は友情じゃない。
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。1』ガガガ文庫 2011 p233
八幡は、この「スクールカースト」社会のアンチであり、そこに対して切り込んでメスを入れようとする人間であるかのように見える。事実、彼は上辺だけの関係性を保とうとする事象に対して、「ぼっち」の特性を生かした問題解決を行うシーンが多数ある。かの有名な『海老名さん修学旅行告白事件 』を例にとってみよう。
これは、第二期アニメにおける名シーンであり、奉仕部の崩壊の引き金を引くことにもなる事件である。事の顛末を以下のスライドにまとめたので、見てほしい。
事の始まりは、八幡のクラスメートの『戸部』から、同じくクラスメートである『海老名』さんに告白がしたいので協力して欲しいとの依頼を受けたことである。
この問題に対して八幡は「自らが告白現場に乱入し、海老名さんへ告白。それにより戸部の愛の告白を茶化し、なかったことにする。」
ことをアンサーとして実行した。依頼人である戸部の願いは端に起き、
告白を阻止することで、海老名や戸部を含む最上位カーストの関係性を維持することになった。
個人の悩みよりも、グループの円滑な交友関係を優先し、比企ヶ谷自体は笑い者にされることになる。結果として自分自身を犠牲にしての問題解決は、由比ヶ浜と雪ノ下の怒りを買うことになる。
しかし、自己を犠牲にして全体最適を図る問題解決は、八幡自身が望んでいることであるのだろうか。
この図式は、『俺ガイル』の最大の主題である『本物』とも密接に関わることとなる。
『俺ガイル』における最大の主題=『本物』とは?
ここまでのポイントをいくつか絞ってまとめてみる。
・『俺ガイル』最高。とにかく『いろはす』がありえん可愛い
・『比企ヶ谷八幡』、メインヒロインの『雪ノ下雪乃』『由比ヶ浜結衣』の3人で構成される『奉仕部』を中心に物語は進んでいく。
・『俺ガイル』にはスクールカーストが色濃く関係し、主人公の八幡自身は、スクールカーストに対するアンチテーゼとして機能する。
・『比企ヶ谷八幡』は、自己を犠牲にして問題解決を図る
そして、冒頭にも述べた通り、『俺ガイル』は、「主人公の『比企ヶ谷八幡』が、上辺ではない『本物』の人間関係を獲得していく物語」である。
この物語では、『本物』がキーワードとして扱われる。以下は、『俺ガイル』屈指の名シーン、「『本物』の獲得シーン」の抜粋だ。アニメで見てもらえるとなお良い。
俺は言葉が欲しいんじゃない。俺が欲しかったものは確かにあった。それはきっと、分かり合いたいとか、仲良くしたいとか、一緒にいたいとか、そういうことじゃない。俺はわかってもらいたいんじゃない。俺はわかりたいのだ。わかりたい。知っていたい。知って安心したい。安らぎを得ていたい。わからないことはひどく怖いことだから。完全に理解したいだなんて、ひどく独善的で、独裁的で、傲慢な願いだ。本当に浅ましくておぞましい。そんな願望を抱いている自分が気持ち悪くて仕方がない。だけどもしも、もしもお互いがそう思えるなら、その醜い自己満足を押し付け合い、許容できる関係性が存在するなら。。。そんな事、絶対に出来ないのは知っている・・・そんなものに手が届かないのも分かっている・・・それでも・・・それでも、俺は、俺は・・・本物が欲しいっ!
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。9 Kindle 版. 』
ガガガ文庫 2014 (Kindle の位置No.3074-3093).
・・・これを引用しただけで泣いてしまう。とにかく全員見て欲しい。
さて、このシーンに至った経緯を整理しておく。以下の図をご覧いただきたい。
ざっくりまとめたが、八幡のこれまでの問題解決プロセスや思考フローに対して、奉仕部のメンバーから疑問を呈され、自問自答し、答えにたどり着く図式となっている。
八幡は、これまで自己を犠牲にして全体最適を図る問題解決をしてきた。しかし、ここには大きな矛盾が生じている。八幡は、スクールカースト的による上辺だけの人間関係を嫌っていたものの、本人自身の問題解決方法は、逆説的に、もっとも行動の規定をされた状態となっているのである。
わかりやすくするために、八幡の言動から読み解いていこう。八幡は「人間は犠牲が付き物である」との発言をしている。
「いや、人という字は人と人が支え合って、とか言ってますけど、片方寄りかかってんじゃないっすか。誰か犠牲になることを容認してるのが『人』って概念だと思うんですよね。
渡航. ガガガ文庫 やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。6(イラスト完全版) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.2316-2318). Kindle 版.
一人の敵=犠牲となる人間の存在により集団が団結することは歴史を振り返っても散見され、「犠牲」の容認についても理解できる。
しかし、ここで問題となるのは、八幡が進んで自らを犠牲にする行動を取ることにある。彼は、彼自身をスクールカースト外の存在であると自己を勝手に規定し、犠牲となることで、上辺だけの関係の継続に一役買ってしまっているのである。彼が、『ぼっち』という立場を生かして、スクールカーストの概念から逸脱した行動を取っている、と思われていたが、一周回って八幡自身が最もスクールカーストに囚われているのだ。
このことに気づいた八幡は『本物』の関係を求めることになる。
『本物』ってなんだよ
では、『本物』の人間関係とは?という話になる。これに関しては、八幡の『本物』の定義が参考になるのではないか。再掲してみよう。
俺は言葉が欲しいんじゃない。俺が欲しかったものは確かにあった。それはきっと、分かり合いたいとか、仲良くしたいとか、一緒にいたいとか、そういうことじゃない。俺はわかってもらいたいんじゃない。俺はわかりたいのだ。わかりたい。知っていたい。知って安心したい。安らぎを得ていたい。わからないことはひどく怖いことだから。完全に理解したいだなんて、ひどく独善的で、独裁的で、傲慢な願いだ。本当に浅ましくておぞましい。そんな願望を抱いている自分が気持ち悪くて仕方がない。だけどもしも、もしもお互いがそう思えるなら、その醜い自己満足を押し付け合い、許容できる関係性が存在するなら。。。そんな事、絶対に出来ないのは知っている・・・そんなものに手が届かないのも分かっている・・・それでも・・・それでも、俺は、俺は・・・本物が欲しいっ!
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。9 Kindle 版. 』
ガガガ文庫 2014 (Kindle の位置No.3074-3093).
『自己満足を押し付け合い、許容できる関係性』 を八幡は欲しがっている。
八幡は、上辺の関係性の保持に留まらない関係性を求めていることになるが、ここには、現代の日本における、自己責任・自己決定社会の隆盛も関わってくる。
『ぼっち』はいわゆる自分一人で生きていくことを強制された装置であり、いつも隅っこにいて、自分一人で勉学や日々の活動を余儀なくされている。
そこには、日本型の、内田樹で言うところの、『血縁共同体や地縁共同体のような中間項的な共同体』は存在していない。
(内田樹『下流思考 - 学ばない子供達、働かない子供達 -』講談社文庫 2005 p125)
誰にも迷惑をかけることができない中で生きており、自分で決定することを求められ、自分だけが責任を負う社会において、主人公の八幡が求める『本物』は、そうではない相互扶助的な関係性であるかもしれない。
スクールカーストとは社会の縮図であるとよく言ったものだが、「ぼっち」やカースト上位の人間に限らず、『本物』の迷惑をかけていい存在を求めているのかもしれない。現代の失敗できない社会に対してのリスクヘッジともなり得る共同体を、彼は求めているのかもしれない。
まとめる
正直、八幡が求める『本物』に関しては、まだまだ考察の余地があるのでここからさらに知見を深めていきたい所存である。(もうあまり時間はないのだが。)
・『俺ガイル』の主人公『八幡』は、スクールカーストに対するアンチテーゼとしての機能を果たしていると思われているものの、逆説的に、自らがスクールカーストの枠にハマっている。
・八幡は、相互扶助的な関係性としての『本物』を求めているのかもしれない。
『俺ガイル』最高だから皆見ようよ
とにかくみんなで『俺ガイル』を見たい。各位必ずAmazon Primeなりに登録して見ましょう。3期も始まる『俺ガイル』が世界の共通語になる日が来れば幸いだ。