「癌」になって、考えたこと、感じたこと(5)
さて、客観的に「持ち時間」を予想し、これに対応して、一方で「希望」も捨てないことが、共に重要だということが、もともとの筆者の主張であった。
この考え方は、幸福の追求がぎりぎりまで出来ること、と「人生の通算成績」は死後に持って行くことは出来ないということの二つの強力な事実によって支えられている。
とは言え、「予想」される持ち時間が、急に短縮されてしまった場合にこれにどう向き合うかは精神的にもハードな作業だ。
筆者は、先ず2023年の3月に再発が分かった時に余命平均ベースで半年、悪いケースで3か月の「持ち時間」を覚悟した。その後、11月から12月にかけて急速に体調が悪化した時に、平均で2か月、最悪で1か月と意識した。このような場合、何をするかの選択は、最悪のケースの方を意識して行うべきものだろう。
2年、3か月!、1か月!!。原理は同じはずなのだが、1か月ともなると、向こう側からも時間がこちらに迫ってくる感じがする。
しかし、このような時こそ、原理に立ち返るべきだ。
最期の日のぎりぎりまで幸福は追求できる。一方、他人はその人を過去の業績その他で評価しようとするかも知れない。実は、このズレを上手く利用することが良い人生を送るコツになるのではないか。「本人」にとって、他人からの評価は「サンクコスト」に過ぎないからだ。
いくら努力しても過去の蓄積を「本人」は将来に持ち込むことが出来ない。
過去は「他人」のもの、最期の一日は「本人」のものだ。お互いに機嫌良く過ごす上で邪魔になるものは何もない。
上機嫌なら全て良し、と思うがいかがだろうか。