「癌」になって、考えたこと、感じたこと(3)
しばらく間が空いた。もう死にそうになっていて、原稿は書けないのかと思われるのはまだ不本意だ。しかし、本当に死んでしまうと原稿は書けなくなるので、もっと困る。続きを書くことにしよう。
今回は、癌の治療コストとがん保険について書くことにする。幾らか専門のお金の話なので、他の回よりも気楽に書ける。
<治療費を幾ら負担したか>
癌に罹ったという話をすると、いつどうやって癌が分かったかという質問(なぜかこの質問が圧倒的に多い)の次くらいに多いのは、がん保険はどうしていましたか、だった。これは、筆者がお金関連の情報発信を生業としているからだろう。
結論から言うと、筆者はがん保険に入っていなかった。しかし、それで何の問題も無かったし、がん保険に入らないという意思決定は、筆者以外の広い範囲の人にとってこれからも正しい。
もちろん、がん保険に入っていれば、「結果的に」お金が貰えて得をしていただろう。しかし、仮に筆者がもう一度人生をやり直すことが出来るとして、「意思決定の問題」として、がん保険に入るかというと、入らないだろうし、常識のある人間としてはそれが正解だ。一度だけでなく、何度やり直しても、現行の制度や保険の性質がすっかり変わらない限り、答えは同じだ。
さて、では、筆者が幾ら治療費を支払って、その内訳としてどうしても必要な支出が幾らだったかを説明しよう。
上記は過去の話を総括するような言いっぷりだが、残念ながら、筆者の癌治療は現在も継続中だ。切りのいいところで区切って数字をまとめよう。
筆者は、2022年の8月24日に食道癌と診断が確定し、9月上旬から抗癌剤治療で2回入院し、その後10月29日に手術を受けて13日後に退院した。手術を中心とする治療として、この時点辺りで一区切りが付いたと考えていいだろう。
この時点で、筆者が医療費として直接支払ったお金は約235万円だった。入院の準備費用やタクシー代など治療に関連する他の支出もあったが、医療費の領収書を整理してみると、この程度の金額だった。
但し、この中の約160万円は、入院一日当たり4万円のシャワー付きの個室を選んだ筆者の意図的な贅沢によるもので、治療のためにどうしても必要だった費用ではない。
残る費用約75万円は、高額療養費制度の上限を適用しながら大学病院が請求した金額を支払ったものだ。筆者が仮に国民健康保険に加入するフリーランスであれば、この金額が大凡の「どうしても必要だった医療費」になる。大がかりな手術をを伴う治療をしたにも関わらず、「意外にたいした金額ではないな」と、日本の健康保険制度に感心・感謝した。
そして後日、望外で追加の感謝があった。筆者は2022年時点で東京証券業健康保険組合の加入者だったので、同組合が設定している、医療費一回の支払いが2万円を超えた部分を健康保険組合が補填してくれる制度が機能して、結局、筆者がどうしても支払わなければならなかった医療費は約14万円に過ぎなかったのだ。
この種の補填制度は、多くの健康保険組合が備えている。毎月の医療費負担の上限を決めて、これを上回った額を補填する条件が多いようだ。保険組合によって個々に内容が異なるので、国民健康保険ではなく、健康保険組合に加入している方は制度を調べておくといい。
筆者の場合、これに自分で選んだ贅沢費が約160万円加わった訳だが、何れの場合も、受けられた治療自体は全く同じである。
<貯金で楽に間に合う金額>
国民健康保険の場合の75万円であっても、筆者が加入していた東証健保の場合の14万円であっても、たいていの人にとって貯金の一部取り崩しで十分に支払える額だろう。
もちろん、筆者が、がん保険に入っていれば、診断時に数十万円、入院一日当たり1万円などといった保険金が支払われて、より良かったのはたぶん間違いないのだが、保険のメリットを受けるためには、当然のことながら保険料を支払わなければならない。
首尾良く癌に罹れば(?)、それでも差し引きがプラスであった可能性が高いが、保険に加入するか否かの意思決定の段階では、自分が将来どのくらいの確率で癌に罹って、どのくらいの出費が生じるかについては分からない。
ただ、詳しい数字は分からないとしても、諸々の確率その他を考えた時に、がん保険が平均的に見て加入者にとって損で、保険会社にとって得な契約であることは計算しなくても分かる。
平均的加入者にとって保険が得なものなら、保険会社は潰れてしまうからだ。保険会社が栄えていることや、がん保険を高いコストを掛けて宣伝までして売ろうとしていることなどから見て、がん保険の加入自体は、加入者にとって相当に損で、保険会社にとって余裕を持って得なものであることは、状況証拠的に間違いない。
つまり、意思決定の問題としては、がん保険に入らない方が圧倒的に正しい。仮に、不運にして自分が癌に罹ってしまった場合でも、費用は貯金で十分に賄えるのだから、「がん保険という損な賭け」には参加しない方が得なのだ。
<宝くじの二つの格言>
「生命保険は不幸の宝くじである」としばしば言われる。普通の宝くじは、持っている番号が当たりだった幸運な人が儲かるのだが、がん保険を含む生命保険では、不幸なイベントが降りかかった人が保険に加入していて得をするからだ。
それでは、宝くじの当選者が「宝くじは儲かることがあるからいいものだ。くじを買わないと絶対に当たらないのだから、皆さん、宝くじを買うべきだ」と言っていたら、読者は、これを信じて宝くじを買うだろうか。普通に確率の思考ができる人は買わないだろう。
宝くじは、別名「無知への税金」とも言われているボッタクリ商品だ。得だと思って買うのは、相当に愚かな人だ。
幸運な人が儲かるくじでも、不運な人が儲かるくじでも、この理屈は変わらない。「がん保険に入っていて助かった」という経験者の話を聞いて感動して、自分もがん保険に入ろうと思う人は、相当に判断力が弱い。
考えてみると、そう難しい話ではない。しかし、それでもがん保険に入ってしまう人がいるのは、癌という大きな不安材料に対して、保険に入ることが何らかの対処を行ったことのように感じて安心するからだろう。しかし、がん保険に入ったからといって癌に罹る確率が小さくなる訳ではない。保険加入のような冷静に判断すべき経済行為は、漠然とした安心のような「感情によって」ではなく、保険の必要性を冷静に判断して行うべきだ。
<加入していい保険の必要条件>
保険それ自体は、(1)滅多に起こらないことだけれども、(2)起こった場合の損失が破滅的に大きい、リスク・イベントに対して、人が集団で対処する巧妙で賢い仕組みだ。
しかし、(3)平均的にはかなり損な賭けなのである。保険の仕組みを提供するにはコストが掛かるのだから、当然だろう。
保険を利用することが経済的意思決定として正当化されうる必要条件は、上記の(1)と(2)を満たすことだ。
例えば、自動車事故を引き起こしてしまった場合の補償に備える自賠責保険や、延焼の責任を問われることもある火災に備える火災保険などは、多くの人にとって(1)、(2)を満たしていて(必要条件)、他に代わりうる手段を持たない(十分条件)である点で、加入が正当化されるし、必要でもある保険だろう。
二人に一人は癌に罹ると言われているわが国におけるがん保険や、多くの人に訪れる老後の生活費を賄うための年金保険などは、必要条件を満たさないので、保険会社が大規模な計算間違いでもしない限り、明らかに要らない保険なのだ。
庶民レベルで生命保険が必要なのは、貧乏で且ついざという時に頼ることのできる家族や親類などを持たない夫婦に子供が生まれた時に、一家の稼ぎ手が加入する死亡保障の保険くらいだろう。もちろん、「保険は損!」なのだから、子供が成人するまでの期間限定で、掛け捨ての保険がいい。
尚、この目的の保険について、生命保険評論家の後田亨氏が筆者に教えてくれたのは、所得保障保険(就業不能保険などと呼ばれることもある)だ。やはり子供が成人するまでの期間、掛け捨てで加入するといいという。所得保障保険は、満期が近づくと保障額が小さくなるので、保障額が期間中一定の死亡保障保険よりも保障が小さくなり、必然的に保険料が安くなるからよりローコストで備えることができるのだという。筆者は、「なるほど」と感心した。
<癌治療で、実は最大のコストとは?>
筆者が罹った食道癌は各種の癌の中でも厄介なのものに属するだろう。発見は遅れがちだし、手術は大がかりだし、転移しやすい。筆者の場合、何れもその通りだった。
この食道癌で手術を行う治療を一通り行って、40日間ほど入院して、「どうしても必要な治療費用の自己負担」は、国民健康保険の場合で75万円、筆者が加入していた東証健保では14万円程度であったので、普通の貯金のある人は民間生保のがん保険に入る必要はないという点は納得して貰えただろう。がん保険に使えるお金があれば、積立投資にでも回しておく方がよほど賢い。
日本の健康保険制度がよくできていることと、保険というものの本質が「損な賭け」であることが理由だ。
繰り返すが、筆者が入院の際に使った個室代の一泊当たり4万円掛ける40日の160万円は、筆者が自分で選んだ贅沢である。
では、この一連の癌治療のコストはこれだけなのか、というと全く正しくない。おそらく最大のコストを見逃している。それは、機会費用だ。
2022年の9月初旬にはじめて入院し、間隔を置きながら都合三回入院して、10月29日に手術を終えて、食事などが不自由ななりに病後の人間レベルでだが普通の生活が出来るようになったのは11月末くらいからだ。
この間三ヶ月ほど、主として、過剰な親切への対応や情報過多を避ける為に、対外的には癌で療養中であることの公開を控えて、筆者は言わば世間から隠れていた。
講演や動画出演はもちろん、コンサルティング的な仕事もできないし、新しい仕事の種を蒔くような活動も出来なかった。この逸失利益は小さくない。これは、機会費用としてカウントすべきコストだ。
仮に、筆者の年収を3千万円としよう。この間にも対応できた仕事の稼ぎが半分だとすると、3カ月分の機会費用は375万円と計算できる(3千万円を2で割って、さらに4で割って計算した)。
経済的な損得勘定を正確に把握しようとすると、実質的に払った医療費が幾らであったかといった問題は些末とまで言わないまでも、細かな問題だとさえ言える。読者諸賢も、病気治療の費用を見積もる上では、病気治療が必要ない場合に獲得可能なはずだった経済価値の中で取り込み損ねたコストを機会費用として認識する必要があることに注意されたい。
尚、拙文中何度も贅沢だと書いた個室の費用だが、筆者は個室を利用できたおかげで連載の原稿を1本も落とすことなく入稿できた。この間、休載や中止にしていたら、その後に続かなかった連載があっただろう。その場合、将来の原稿料だけでなく、連載原稿を書いていることによるビジネス上のプラス効果をも失うことになる。
毎日個室代以上に稼ぐという思いつきの目標は、入院して早々に無理だと分かって放棄したのだが、将来の効果まで考えると、個室代も単なる贅沢だけではなかったことが分かる。
一般に、意思決定とコストの問題は見かけ以上に複雑で、考えてみると面白いことが多いのだが、自分の癌治療もなかなか興味深い題材であった。