幸福の決定要素は、実は一つだけだった

 たいていの人間は幸せでありたいと願う。では、幸せを感じる「要素」あるいは「尺度」は何なのか。既に、多くの人がこの問題を考えている。
 私は、このほどこの問題に暫定的な結論を得た。人の幸福感は殆ど100%が「自分が承認されている感覚」(「自己承認感」としておこう)で出来ている。そう考えざるを得ない。
 現実には、例えば衣食住のコスト・ゼロという訳には行かないから「豊かさ・お金」のようなものが必要かも知れないが、要素として些末に見える。また、「健康」は別格かも知れないが、除外する。
「自由度+豊かさ」、「富+名声」、「自由度+豊かさ+人間関係」、「自己決定範囲の大きさ+良い人間関係+社会貢献」、「自由度+豊かさ+モテ具合」、などなどいろいろな組み合わせを考えてみたが、まとめてみた時に何れも切れ味を欠いた。

<「モテ具合」の特殊性>

 ただ、一点「モテ具合」という項目が異質で且つ重要であることが分かった。
 各種の経験や豪邸の所有のような自由はお金で買える。名声も買えないことはない。「トロフィー(的)配偶者」のような人間関係までもお金で買えないことはない。しかし、ナチュラルにモテるという状態をお金で買うことは、難しい。そして、「ナチュラルに」モテているのでないと、本人は、自分の富や地位がモテていることが分かるので、かえって精神的に屈折してしまうことさえある。
 関係者がまだ活躍中の方々なので業界や氏名を秘するが、20年近く前、ある業界の社長Aは、同業界の社長Bを嫌っていた。傍から見ると、仲良くすることが共通の利益に見えるのだが、B社長の会社を仲間はずれにして業界グループを作ろうとするなど、気が合わない。
 私は、事情に詳しい同業のC社長に訊いてみた。「例えば銀座で飲むとして、Aさんは大いにお金を使わないとモテないけど、Bさんはお金を使う前からモテている。A社長は、この差が気に入らないのではないですか?」。C社長は「ヤマザキ君、鋭いね。難しく言うとケミストリーが合わないというということなのだけど、根源はそこだよ」とにっこり答えて、具体的なエピソードをたくさん教えてくれた。世間的には、どちらも成功していてそこそこ以上のお金持ちなのだが、相対的により「幸せ」なのは圧倒的にB社長の方だ。
 女性において「モテ」がどれくらい大切なのかは、実感としては分からない。だが、たぶん、男性の場合に近いくらい重要な要素なのだろうと推測できる。

 私の観察はどうしても男性に偏るが、有名人や世間的には成功者でも、「この人はモテなくて性格がひねくれている」、「この男は若い時にモテなかったので、こじれた性格になったのだな」と思わせる人物が実に多い。もちろん、実名は挙げないが、あの人も、あの人も、モテなかったおかげで性格が歪んでしまったことが手に取るように分かる。
 私自身は、20代、30代の切実にモテたかった時期にモテなかった悔しさをそれなりに味わっている。だが、「モテない」の度合いは幸い性格を歪めるほどには酷くなかった(と思っているが、どうだか?)。その後「モテ」が生理的にそれほど切実でなくなってから、状況が少し改善した。従って、「モテない男」の気持ちはもともと良く分かるし、「モテる男」の気持ちも少しだけ分かるようになったつもりでいる。
 人間観察から断言するが、男性の場合、たとえば40歳時点で、「3000億円持っているモテない事業家」と「3000万円持っていて徹底的にモテるフリーランス」を比較すると、後者の方が圧倒的に幸せだ。

<「自己承認感」を確信させる3つの例>

 どうやら、人間の幸福感は「モテ」にかなり近い場所に根源があるらしい。
 さて、それを「自己承認感」だと確信するに至る思考実験には、3つのサンプルがあった。経済学者、自爆テロのテロリスト、ウォーレン・バフェット氏である。
 先ず、よくある疑問だが、「経済学部の最優秀に近い学生は、実業界に就職したら大いに稼げるだろうに、どうして経済学者を目指したりするのだろうか。それは、経済原理に反していないか?」というテーマがある。
 効用関数は融通無碍なので「経済原理に反する」ということはないのだが、一見、不思議な現象ではある。
 それは、「経済学の研究に加わっている自分と、仲間内から貰える賞賛に大きな価値があると感じるから」だろう。「フェラーリを一台貰うよりも、いい論文が一本書けて最高レベルの学術誌に採用され、仲間に賞賛される方が遙かに嬉しい」と思う経済学者は少なくあるまい。
 「仲間内の賞賛」は、大きな経済価値の期待値に勝る喜びなのだ。
 因みに、この構造が見えたことが、若き日の私が進路として経済学研究者を避けた原因だった。「人間関係が狭い人生になるな」と思ったのだった。経済「学」への憧れと熱意は大学2年生から3年生に移るくらいの時点で消失した。当時の東大経済学部は、ゼミの指導教官だった浜田宏一先生(当時助教授)、冴えた講義と論文が最高だった根岸隆教授、若くて優秀な研究者でおそらく良い指導者でもあった石川経夫助教授など、魅力的な指導教官がいたのだが、「経済学者の世界」はどうにも小さく狭く見えたのだった。

 さて、「仲間内の賞賛」に価値が高いのが、経済学者の世界だけに限るわけではないことは、お分かり頂けると思う。他の学問でもそうだろうし、各種の芸事やスポーツ、文学やアートの世界でも同様だろう。
 「私は、仲間の評価ではなく、自分自身の作品(研究)に満足しているので、他人の評価は自分の幸福感に関係ない」と言い張る人がいたら、「それは勘違いでしょう。もう少し素直に考えましょうよ」と言ってあげたい。
 そもそも、それぞれのジャンルは過去から現在にかけて多くの他人が創り上げてきたもので、どんな芸術があり、どんな研究が研究として価値を持つかといった諸々が「他人によって作られた価値観」に依存している。人間は、自分だけで自分を満足させられるほど高性能には出来ていない。その証拠に、「他人の評価は関係ない」と言い張る当人が、作品や論文を世間に発表するではないか。

 もう一つの気になる思考実験は、自爆死するテロリストに関する考察だ。彼らは、宗教に「洗脳」されて、「来世の幸せ」を信じて、自死をも厭わずテロに及ぶと一般的に理解されるようだが、これは本当だろうか?
 思うに、宗教の「効用」は、来世の幸福への期待になどあるわけではない。現世で仲間から得られる自己承認感にある。「全ての」と言い切る自信はないが、多くの宗教は、信者が来世的な幸福をリアリティを伴って信じているからではなく、現世においてグループ内で自己承認感を得る「現世利益」を得ことによって成り立っているように見える。ある種の信者にとって、これを急に失うことは、自死をもってでも避けたい事態なのではあるまいか。
 私は無宗教なので、宗教に辛すぎるかも知れないが、宗教を信じる人の脳ミソが、自分や他人を説得できるほど理路整然と自分や他人を説得できるほど来世の幸福を説明できるとは思えない。「来世」は、ただ「そうであるかも知れないことが否定はできない状況」として逃げ道のために存在するならそれでいいのだ。宗教的テロリストは、おそらく自分が現在得ている仲間内からの評価を失いたくないために、来世の幸福の可能性を頼りに、自死を伴うテロに及ぶ。
 こう考えると、将来若者に戦場に行って貰わなければならないと思っている年寄り達が、教科書の歴史記述に拘る理由が少し分かってくる。子供時代の刷り込みの効果は大きい。騙されるなよ、子供達!

 これらを考えて、「自己承認感」で他人や自分のあれこれを整理してみた時に、他の説明要因は殆ど必要がないことに気がついた。例の「モテ」も自己承認感をわかりやすく感じさせてくれる一要素として十分に包摂されている。内外の大金持ちの傍からは無駄に見える派手な振る舞いも、他人に見られて自己承認感を得たいということだと理解できる。ご苦労なことだ。
 尚、この自己承認感には、他人との比較に陥りやすいという、回避の難しい認識上の問題を伴っている。なかなか、「そこそこ」では、安心と満足を同時にもたらしてはくれない。
 また、自己承認感の重要性を利用すると、「場を与えて、適当な段階を伴って評価を与えること」で人をコントロールすることが容易であることも分かる。宗教以外にも、会社だけが自分の「場」となったサラリーマンが、会社にコントロールされることや、そのために会社が社員の世界を閉じたものにしようとすることの意味も見えてくる。「自己承認感」は洗脳のエンジンにもなり得るのだ。
 こうした「自己承認感の罠」を回避するための方法は、別に書いてみたいテーマでもあるが、若い人には「世界(上記で言う「場」)を2つ以上持て」とアドバイスしておく。

 さて、自己承認感が満足に直結していることで、人は様々な行動に走る。世間的には、お金持ちの奇矯な行動がが目につく。だが、お金持ちの代表格の一人であるウォーレン・バフェット氏は、どうして豪邸を構えたり、女優を妻にしたり、宇宙に行ってみたりしないのか、という疑問が湧く。
 年齢によって分別が備わったのかも知れないが、彼はかなり前から大金持ちだ。なぜなのだろう?
 筆者の仮説は、おそらく長年のビジネスパートナーにして7歳年上の「バフェットの右腕にして、同時に左脳」のような存在であるチャーリー・マンガー氏の影響が大きいというものだ。マンガーは、長年バフェットと共に勉強を重ね、一緒に仕事をして、叱咤もすれば、励まし、褒めてもくれる、バフェットにとって「価値ある自己承認感を与えてくれる人」であり続けているのではないか。
 だから、バフェットは「見苦しい金持ち」にならずに済んでいるのだろうと筆者は考えている。

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