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0006 『人生は運次第』という言葉に隠れる真実──捉え方で物語は変わるのか?

人生って、本当に運が大きく関わると思うんです。どんなに頑張って築き上げたものでも、どうにもならないことであっさり崩れてしまうことがあります。

そんなときは、「もう努力する意味なんてないのかも」と思ってしまいます。私自身も、この考えに苦しんだことがあります。

でも人生は続いていくから、なんとか前を向いて生きたい。そう考え抜いた結果、たどりついたアイデアを紹介したいと思います。

それは、「人生は運次第」という言葉が指している運って、誰にでも平等に降りかかる“本当の運”とは違うんじゃないかということ。

むしろ、もし本当の意味で運がすべてを決める“運否天賦の世界”があったら、もっと希望が持てるんじゃないか…というお話です。

「人生は運次第」は本当に運任せ?

まずは、世間でよく耳にする「人生は運次第」という言葉と、本当に運のみで決まる“運否天賦の世界”の違いについて考えてみたいと思います。

「人生は運次第」って、ちょっと暗い響きがありますよね。たとえば「親ガチャ」とか、「才能がすべて」みたいな言い回しも、結局は運が悪いとうまくいかない、という意味合いを含んでいます。

でも、本当に運だけで決まる世界だったら、勝つか負けるかは単なる確率の問題になります。そうなると、誰にでも勝つチャンスも負ける可能性もあって、むしろ平等ですよね。そこに厭世的なイメージは本来ないはずです。

ところが、「人生は運次第」と言うときには、その平等な感じは出てこない。どうしてだと思いますか?

それは、人が普段“因果関係”をもとにストーリーを組み立てるのが得意だからです。

運否天賦の世界と因果論の世界

この違いを考えるために、人生をカジノのルーレットに例えてみます。

赤と黒が半分ずつのルーレットを回して、赤が出たらいいこと、黒が出たら悪いことが起こるとします。たとえば、

  • 最初のルーレットは「どの国に生まれるか」。赤が出れば先進国、黒が出れば戦争中の国。

  • 次のルーレットは「どんな家に生まれるか」。赤が出れば愛情いっぱいの両親、黒が出れば冷たい家庭。

そのあともずっと、赤ならいいこと、黒なら悪いことが起こる――これが“運否天賦の世界”です。そこでは文字どおり運で結果が決まります。

一方、「人生は運次第」と嘆いている人が目の前にいると想像すると、その人は自分のルーレットの盤面をどう見ているでしょうか?

きっと黒が多い盤面を思い浮かべているでしょう。「こんなにうまくいかないのは、運悪く黒一色のルーレットを与えられてしまったからだ」と思うわけです。

でも実際には、盤面全体が見えるわけではありません。連続して黒が出たから、「きっと黒い目ばかりのルーレットなんだ」と考えるんです。

なぜなら人は結果を見てから「原因」をあとづけする“因果論”でストーリーを考える傾向があるからです。

運否天賦の世界のルーレットと、因果論で見るルーレットの違い

  • 運否天賦の世界

    • 赤も黒もあり、どちらの目が出るかは運で決まる。たまたま黒が10回連続で出ることだってある。

  • 因果論の世界

    • 出た目から盤面を想像する。黒が続けば自分は黒一色のルーレットを与えられたと考える。そして「そんな盤面を与えられた自分は運が悪い」と考える。

どちらの世界でも黒が続いたときに「運が悪い」と感じます。でも、実際にイメージする盤面は違っています。

この違いは「結果がこうだから、きっと原因はこうだろう」と、筋道を立てる癖があるから起こることです。

努力と運は表裏一体

もうひとつの例として、よく運と対比される“努力”の話があります。

「努力したから成功した」という言葉を見ると、運よりも努力が大事って感じますよね。でも、実はこの「努力が人生を左右する」という考えも、“人生は運次第”という考えと表裏の関係にあると考えられます。

たとえば、何度も赤が出て結果的にうまくいったときに、「これは努力で赤い目を増やしたからだ」と思う。そうすれば「努力が報われた」って納得できます。でも本当は運によって赤が出続けただけかもしれません。

けれど、素直に「偶然赤が続いただけかも」とはなかなか思えない。だから「努力したからだ」と原因づけしたくなる。そのほうが、自分にも人にも説明がしやすく、前向きな気持ちにもなれるからです。

なぜ人は理由を欲しがるのか

人は、何事にも理由をつけたくなる生き物です。良くないことが起きたとき、「やっぱり自分は不幸の星の下に生まれたんだ」と考えると、ある意味でホッとすることがあります。理由づけできるほうが、自分の気持ちの整理がつきやすいのです。

逆に、ただただ運が悪くて不幸なことが重なったと思うと、「理不尽だ」「なんで自分だけ」とつらさが増してしまいます。だからこそ、人は不幸が続いたときに、自分のルーレットが黒一色と考えてしまいがちです。

同じように、いいことが続いたときにも「偶然なんて認めたくない。自分の努力が実ったんだ」と思いたい。そのほうが自分自身の存在価値を感じやすいからです。

因果論がもたらす危うさ

こうした“因果論”は、科学や社会制度を発展させる原動力でもあります。原因と結果を考えるからこそ、事故や災害の対策が進んだり、問題があった法律を変えたりすることもできる。

でも、時には人を傷つけることもあります。その典型的な例が“公正世界仮説”です。これは「いいことをすればいい報いがあり、悪いことをすれば悪い報いがあるはずだ」という考え方です。

たとえば、夜道で暴漢に襲われた女性がいたとき、本来なら加害者が悪いのに、「夜遅くに出歩くあなたが悪い」と被害者を責めてしまうケースがあります。これは、理不尽な不幸が起きたとは思いたくないから、被害者にも“原因”を押し付ける形です。

公正世界仮説は、自分自身に対しても向かうことがあります。たとえば小児がんの明確な原因はまだわかっていないのに、「自分の育て方が悪かったせいかもしれない」と親が自分を責めてしまうことがあります。「運が悪かっただけ」という理不尽が受け入れがたく、原因を求めてしまうんです。

運否天賦の世界を受け入れられるだろうか

私たちは、理不尽さを嫌って、どうしても理由を探そうとします。それは生きていくうえで心を守る手段でもあるのです。

  • 「自分の人生に不幸が続くのは黒一色のルーレットだから」

  • 「幸せなのは努力して赤い目を増やしたから」

こうした因果論的な考え方には安心感があります。でも、その裏には「運否天賦の世界=本当に何が起こるかわからない不条理な世界」を恐れる私たちの姿が垣間見えます。

それでも、あえて“運否天賦の世界”を受け入れるとしたら、どんなメリットがあるのか。次の記事では、そこにフォーカスしてみたいと思います。

まとめ

  1. 「人生は運次第」という言葉は、本当の意味での運任せではなく、因果論のストーリーによって説明できる。

  2. 運否天賦の世界では、赤(幸運)も黒(不運)も平等に起こり得る。しかし、そこに人は不条理を感じる。

  3. 努力と運は対立しているように見えて、その実“ストーリーをつくる”という点で表裏一体の関係。

  4. 公正世界仮説のような因果論の考え方は、社会を発展させる一方で、ときに被害者をも責める危うさももつ。

  5. それでも理由を欲するのは、人が不条理を受け入れるのがとても難しく、何かに納得したいから。

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一昌平
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