0007 運否天賦の世界で生きる
前回の記事では、人は因果論の世界で生きている。そこでは、運否天賦の世界が不条理で受け入れがたいという話をした。
しかし、そんな運否天賦の世界にもメリットがあるのではないかと思っている。
どんなに黒の目が続いてもルーレットを回せる
人生で嫌なこと、つらいことが続いたらなにかをするのが嫌になる。
それは自分が持っているルーレットの盤面が黒一色と思うからだ。前回述べたように因果論の世界では、そのように考えてしまう。
そうなったら誰だって、そんなルーレットは回したくない。
しかし、もし運否天賦の世界で生きるのであれば、どんなに黒が続いたとしても、それは運が悪かったということだ。
次に赤が出るか、黒が出るかは、また運による。次は赤が出るかもしれないと期待を込めて、ルーレットを回せる。
運否天賦の世界に生きると、どんなに絶望的な状況でも期待を持てるようになる。
驕らずに済む
努力が実を結ぶという因果論の世界で生きると、驕ってしまうリスクが常にある。
努力をすると盤面に赤の目が増えていき、黒が出るリスクは減る。そのイメージを持つのは問題ない。
しかし、それが行き過ぎると努力によってなんでも乗り越えられ、赤一色にできると考えるようになる。
つまり黒を出している人、人生がうまくいっていない人は努力不足と思ってしまう。だからそういう人は困っていても自己責任だと考えるリスクがある。
もしかしたら赤を出し続けている自分は、努力して赤を増やしたから偉いという感覚すら持つかもしれない。
このような驕ってしまうリスクを運否天賦の世界では防げると思っている。
どれだけ赤が出続けたとしても運によるものと考える。つまり常に黒が出る可能性があるということだ。
次は悪いことが起きるかもしれないと考えれば冷静になる。そして黒の目が出てしまった人を見ても、自分にも同じことが起きるかもしれないと謙虚な姿勢になれる。
「勝って兜の緒を締めよ」
こういうことわざが残るくらい、人は驕り油断する。運否天賦の世界に生きれば、そういうリスクを減らせるのではないだろうか。
他者を断罪するリスクが下がる
例えばこんな経験はないだろうか。なにか犯罪をして逮捕された人をニュースで見たとする。
それが凄惨なもの、被害者への同情が強くなるような事件になればなるほど、加害者を断罪したくなる。
犯罪者の思考から、環境、すべてのものが悪であると決めつけたくなる。
被害者が、そのような感情を持つのは自然であるし当然だ。
しかし第三者であるニュースを見た人も同じように感じやすい。
それは人間が集団を維持するために、異端者を排除する本能を持つからだ。
だから第三者が、そんな輪を乱す異端者を排除しようとする。
しかし排除を優先するために決めつけが横行する。もしかしたら加害者に情状酌量の余地があったかもしれない。
犯罪に結びついてしまったのは最終手段であり、そこに至るまでの道のりに避け得ないつらい事情があるかもしれない。
もちろん被害者は、そのように考える余裕はない。しかし余裕があるはずの第三者も、このような推し量りをしたくなくなる。
それは因果論の世界で生きているからだ。
例えば親が虐待して、子どもが死に至ってしまったとする。
このとき親自身が幼少期に虐待を受けていたことが多い。これは虐待の連鎖と呼ばれ、虐待が世代を超えて連綿と続いてしまうことがある。
自分がされていたことを、自分の子どもにもしてしまう。それはそういう親子のつながりを断つのが難しいからだ。
虐待死のニュースを見たとき、あなたは親に対してどんな感情を持つだろうか。親を断罪したくなるだろうか。
もし親自身も過去に虐待を受けていたという情報も一緒に流れてきたら? それでも断罪してしまうだろうか。
もし幼少期に虐待を受けていたが、愛情深く子どもを育てる親があなたの友達にいたら?
そういう人もいるんだから、虐待をしてしまう親は努力不足だと思うだろうか。
もしかしたら愛情深く子どもを育てた親は、あなたのような友達が近くにいたから虐待の経験を乗り越えられたのかもしれない。
一方、虐待をしてしまった親は友達にも恵まれなかったかもしれない。
そのような出会いがあるかどうかは運によるものだ。
運否天賦の世界に生きるのであれば、第三者であるにもかかわらず断罪したくなるという気持ちを抑えられると思っている。
虐待の経験を乗り越えた人は努力したから、乗り越えられなかった人は努力が足りなかったから。
これは因果論だ。
虐待死を起こしてしまった親、虐待を乗り越えて子どもを愛せた親。その差はあらゆる環境に対する運が悪かったか良かったかの違いによる。
これが運否天賦の世界だ。
運否天賦の世界に生きる方が、差別することなく手を差し伸べやすくなるのではないだろうか。
運否天賦の世界で生きるのは、人生にクッションを敷くようなイメージだ。
人生の喜びによる驕りを抑えつつ、どん底に落ちてしまったときに自分を責めすぎない。
そして他者の行動も運が影響していると考えて、感情に振り回されすぎないようにする。
人生で起きうる乱高下を受け止めてくれるイメージ。それが運否天賦の世界だと思っている。
運否天賦の世界のデメリット
運否天賦の世界の考えは直感に反する。因果論の世界で理解するとエネルギー消費が少ない。
輪を乱す個体は、理由はなんであれ排除した方が集団で生き残る確率はあがる。サバンナで草が動いたとき、理由を考えずに逃げ出すのと根底は同じだ。
思考のエネルギーを節約して生存するために決めつけをする。
この直感に反するのが運否天賦の世界で生きることのデメリットだ。つまり自然には身につかないから労力をかける必要がある。
理由をつけて世界をわかりやすくしたい。そんな本能とも言える因果論に立ち向かうからだ。
運否天賦の世界で諦めるわけではない
運否天賦の世界に生きる。それは黒が出たら甘んじて受け入れるというわけではない。どんな状況でも赤が出ることを願ってルーレットを回すということだ。
例えば学校でいじめを受ける。勤めた場所がブラック企業だった。親が毒親だった。そんな環境では黒の目が出続ける。そんなときに因果論の世界だと盤面が黒一色に思える。
そうなると誰かに相談したり、立ち向かったり、逃げ出したりという次につながる行動が取れなくなる。なぜなら、どうせルーレットを回しても黒の目しか出ないと思っているからだ。
運否天賦の世界に生きるというのは、これまでが黒ばかりだったとしても、次の行動では赤の目が出るかもしれないと思うためのイメージだ。
また悲惨なニュースに怒りを覚えても問題ないし、当事者なら怒りを覚えることは当然だ。
第三者であるにもかかわらず怒りで我を忘れて断罪する。そうならないように運否天賦の世界をイメージしてブレーキをかける。
ニュースを見ても、加害者は黒の目が続いてしまったかもしれないと想像して一旦立ち止まる。
怒りを覚えるのは自然な感情だ。ただ怒りや恨みの感情は自分自身すら傷つける。負の感情に飲み込まれると、世界全体がどす黒く見えてくる。
その感情に踊らされないために運否天賦の世界を生きる。
すべてが運によるものだと意識しても、原因探しをすることは必要だ。大切なのは無理やり原因を見つけないことだ。
原因が見つからないときに、運が悪かったと受け入れる。
つらい目や嫌な目にあったとき理由を求める。なにがいけなかったのか。誰が悪かったのか。
因果論は本能のようなものだから自然と原因を探す。
それが改善につながる場合もある。防犯意識が低かったから、泥棒に入られたのかもしれない。それならば防犯グッズを導入する。事故や災害でも対策不備があれば改善する。
しかし理由が見つからないときは運否天賦の世界をイメージする。
原因が見つからないのであれば、たまたま不運が重なったと受け入れる。そうすれば公正世界仮説で被害者を責めることもなくなる。
そのうえで、不運が重なったときにも問題にならない対策を考える。フェイルセーフ、フールプルーフのような対策が取れないかを考える。
具体的なイメージ
実際に運否天賦の世界を考えるときには具体的なイメージが必要だ。なぜなら自然には身につかないものだからだ。
ただ完全な運否天賦の世界に身を任せるのは、直感に反して難しい。だから因果論も併用したイメージを使う。
因果論で採用するのは努力によって赤の目が増えるという部分だ。
しかし、どれだけ努力をしても赤の目は少ししか増やせないとイメージする。努力によって盤面を赤一色にできるという考え方はしない。
自分は努力によって赤の目が10%は増やせると考えている。つまり努力によって赤の目を増やせたとしても、赤60%、黒40%までにしかならないというイメージだ。
だから努力することに意味はある。しかし努力すればなんでも乗り越えられるわけでもない。常に運の要素が排除されない。
この因果論の世界と運否天賦の世界の折衷案であれば、運否天賦の世界で生きつつ努力に対する意義も見出せる。
人生のルーレットが赤50%、黒50%で不変。それでも努力したり前を向いて生きていけたりする。
そこは究極の到達地点だと思っている。努力が盤面に影響を与えないのに、努力できる超人性を感じるからだ。
自分はまだその地点には達していない。努力が無駄だと思いたくないし、運否天賦の世界のメリットも享受したい。
こんな自分が持っているイメージが、努力で増やせる赤の目は10%程度という考え方だ。
盤面は複数あるというイメージを持つ
これは盤面が黒一色だと思ってしまったときに有用なイメージだ。
つまり現状で黒が出続けている環境にいるときだ。こんなときにたまたま運が悪いだけで赤の目も存在するという運否天賦の世界を思い描くのは難しい。
そんなときは別の環境ではルーレットは新しいものが用意されると考える。つまり人生のルーレットは複数あると考える。
例えばブラック企業に入ってしまったとしたら、仕事におけるルーレットでは黒が出続ける。仕事というルーレットの盤面は黒一色に思えてくる。
こんなときに次は赤が出るかもしれないと思うのは難しい。
そんなときは盤面が複数あるとイメージする。具体的にはプライベートのルーレットは違う盤面と意識する。
仕事のルーレットが黒一色だと、ついプライベートのルーレットも黒一色だと思ってしまう。
すると家に帰ってもなにもできなくなる。仕事のことが頭を離れないし、気が休まらない。そんな風にプライベートを侵食してくる。
そんなときに、なんとか自分のルーレットを守るイメージを持つ。
黒一色の盤面が生まれてしまったとき、自分の中に新しいルーレットを生み出す環境を作る。
趣味の世界を作り、その世界は新しいルーレットだと考える。赤が出る可能性を想像して期待を込める。
もしかしたら、あまりにブラックすぎて自由時間がほとんどないかもしれない。そうだとしてもトイレの時間、風呂の時間、寝る前の時間。そういうわずかな時間をかき集める。
そんな自分だけの時間のときに、新しいルーレットをイメージする。そのときに赤の目が出ることを期待して、次につながる行動を考える。
黒一色の盤面にされてしまったときに、次のことを考えるのは不可能に近い。そのルーレットは黒一色だから回す意味がないと思ってしまう。
だからなんとか自分の時間をかき集め、そのときだけはルーレットを新調するイメージを持つ。
いつか黒一色のルーレットの世界から逃げ出せたら、改めて運否天賦の世界で生きることをイメージすればいい。
イメージを使いこなす
このようなイメージを持って自分は人生を捉えている。これは自分の人生でコントロールできない出来事に巻き込まれたのがきっかけだ。黒の目が出続けて、打ちのめされ、盤面が黒一色になってしまった。お先真っ暗と思っても人生は続いてしまう。
そんな状況で少しでも生きやすい世界にならないか。そのことを考え続けていたら生まれたイメージだ。ある意味、これは自分が綴った物語でもある。
運否天賦の世界といっても自分は完全に博打打ちの世界に生きるわけではない。
原因や結果という因果論も使いこなしつつ運否天賦の世界も利用する。この相反するものを同時に持つのは難しい。
だからルーレットというイメージを使った。努力で盤面を少し変えるということが想像しやすかったからだ。
またこのような相反するものを受け入れて、バランスを保つために使っているイメージもある。それは綱渡りのイメージの世界だ。このイメージについては次の記事でまとめたい。