イギリスの侵略を阻止した小早川秀秋 2 ねなしぐさ はじめ 2022年11月21日 12:37 引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=0000000002727三浦按針が観た関ヶ原の合戦の真実K野 Y一2006-10-28 22:39 1600年、関ヶ原の合戦が起きた年。 遭難したオランダの船に航海士として乗船していたイギリス人、ウイリアム・アダムスが日本に漂着する。 当時のイギリスは植民地支配を世界全域に拡大しようとしていた。 ウイリアムがイギリスの密旨を帯びて植民地の候補先を調査していたという証拠はないが、宣教師や貿易商ではなく、航海士としてオランダの船に乗船していたことは絶対に必要な船員としてカムフラージュできたのではないだろうか。 たまたま漂着した日本だが、どこの国にも植民地化されず、独特の文化を発展させていることに興味が沸いただろう。 おりしも支配者、豊臣秀吉の死により内乱の兆しがあった状況で次期支配者の地位を狙っている徳川家康と遭うことになったウイリアムにとって日本の戦力を知る絶好の機会だった。 本来の目的(植民地化の可能性を調査すること)を悟られないように家康の軍事顧問となり、関ヶ原の合戦をむかえる。 家康が率いる東軍と石田三成が率いる西軍の陣形を観たとき、誰の目にも西軍が有利なのに平然としている家康に困惑しただろう。 イギリスには騎士道精神があり、合戦中に寝返るなどということは考えられない。 家康が「西軍には内応している武将がいる」と説明しても信じられなかったのではないだろうか。 ウイリアムの不安は的中し、合戦は内応するはずの武将が動かず、こう着状態になった。 無様に慌てる家康にこの国の戦力の未熟さを確信し、植民地化しやすいと思ったかもしれない。しかし、戦況が一気に変化する。 松尾山に布陣していた小早川秀秋の兵数約1万5千の部隊がゆっくりと山を降り、戦闘態勢を整えていく。 秀秋が戦う相手は兵数約1千5百の大谷吉継の部隊。 秀秋は圧倒的な兵数をなぜか小出しにし、大谷隊に攻めさせては退却を繰り返した。 ウイリアムには、このとき弱冠19歳の秀秋の采配が滑稽に観えただろう。西洋の戦いでは力と力が正面からぶつかり合い、引き下がることを知らない。ところがこれが西軍の家康に内応していた部隊の寝返りを引き起こし、戦況は東軍の勝利に傾く。 その後も秀秋は戦場を駆け巡り、戦闘に参加していなかった西軍の島津隊を攻撃し敗走させた。 まだあどけなさの残る秀秋が奇妙な戦法を使い、壮大な合戦の勝敗を左右したことにウイリアムはこの国の真の恐ろしさを感じたのではないだろうか。 その後のウイリアムは家康の命令に従い、三浦按針として日本人に同化していった。 もしウイリアムが関ヶ原の合戦を観ていなかったら、オランダ人が幕府に直訴していたように、イギリスのキリシタン宣教師による日本占領が現実になっていたかもしれない。オーマイニュース(日本版)より歴史Ifは楽しいですよね。『旭日の艦隊』とか『紺碧の艦隊』とか楽しく読みました。騎士道がどうたらは第4回十字軍を見れば嘘だということがわかりますので、普通に裏切る騎士はいたと思いますよ、名前が残ってないだけで。 ダウンロード copy #OhmyNewsJapan 2