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『死ぬ死ぬ詐欺・まとめサイト』の卑劣さを考える

引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/mob/News.aspx?news_id=000000001936

『インターネット』という再現前(リプレゼント)
『馬鹿なんじゃないの?』

悪いけれども、その「まとめサイト」にぼくの持てる感想はそれぐらいだった。

重度の心臓病を患った少女、上田さくらちゃんの海外での心臓移植手術(日本では15歳未満の子供からの臓器移植手術は認められていない)を支援するための募金活動に対してネット上、主に匿名掲示板「2ちゃんねる」で批判が噴出してる、らしい。

匿名の批判者たちは、さくらちゃんの両親がNHK職員で高収入であることなどを理由に、両親たちは自らの資産を使うことなく社会に甘えて募金活動をしているのではないかなどと、糾弾している。

『死ぬ死ぬ詐欺』というのは、彼らの糾弾のキャッチコピーのようなものだ。
ぼく個人の印象を言わせてもらえば、キャッチーなのかもしれないが、まったく含蓄はなくひたすら下劣だ。仮にも、さくらちゃんの命がかかっているのに「死」と言う言葉を、しかも繰り返すのは思いやりが無さ過ぎる。なんというか、口にするたびに胸の中で黒いもやもやが広がってくるようで、邪悪とさえ言ってしまいたくなる。
はっきり言ってしまえば、ぼくはそんな言葉を臆面もなくキャッチコピーに使える人たちの神経を疑ってしまう。

批判者たちの検証能力も有り体を言ってしまえば、他愛もないものだ。単なる下種の勘繰りに過ぎない。
『NHKの職員は高収入だろう』と言っても、決してNHKの職員の給与水準の内情が分かるわけではないから「~だろう」ということぐらいしか言えない。素人の推測にしかならない。
『始めから過剰金を横領しようとしているのではないか?』と言う批判に関しては、もっとお粗末だと言える。
批判者たちに心移植手術の費用についての明確な資産が出来ない限り、横領の基準も分かるはずがないからだ。
さらに言えば、『募金に頼らず、両親の資産を使うべきではないのか?』という批判もお粗末である。さくらちゃんの治療費は今現在もかかっており、術後も当然費用がいるだろう。が、それがいくらぐらいになるのか、実情と言うのは分からない。
つまるところ、お粗末極まることに批判者たちが分かってることなど何一つないのだ。

なにが邪悪であるかと言うと、おそらくこの『祭り』(ネット上の騒動を表すジャーゴン)において募金をしたものなどおそらく一人もいないのだ。
書き込み以外でしたことといえば、募金などではなく、悪戯みたいなことだけである。
いわゆる『2ちゃんねらー』(「2ちゃんねる」のヘビーユーザーを表すジャーゴン)と言うものは本質的にそうである。彼らは集団の力を無邪気に使いそれが自分たちの実力だと自惚れているが、彼ら一人一人ができることと言えば子供の悪戯みたいなことだけである。彼らは本質的に子供なのだ。


それにしても、よく考えれば分かるとおり、彼らの『検証』というのはお粗末の一言なのであるが、ネット上に散見される「2ちゃんねるの人たちの検証能力はすごすぎ」というのはいったいなんなんだろうか。
彼らの何を見てそう思うのだろうか。

思うに、それはやはりある種のネット使用者のあいだで「コード」が共有されているというのが大きいのではないか。

「コード」というのは慣例、規定、符号、暗号などの意味があるが、この場合には例えばある種のジャーゴンであるとか(それも符号や暗号の一つであろう)必ずしもそういう意味には当てはまらない。

この場合の「コード」というのは拠って立つ「ことば」である。
例えば、彼らが「サヨク」の「国旗」や「国旗」などの単語に対する意味の置き方をあざ笑うのと同じである。彼らはそのとき「サヨクのコード」をあざ笑っているのだ。

そして、「コード」は「真理」と繋がっているのだ。
例えば、「サヨクのコード」において「国旗・国家」が必ず「軍国主義」に繋がっているように。それはある側面から見れば真実ではないかもしれない。しかし、「サヨクのコード」に拠って立つ人からすればそれは「真理」なのである。

インターネットというのは、既存のメディアとは違い誰でも好きなだけ情報を発信できるメディアである。
であるから、そこで発信されるのは「自分たち」の生の声、「生きている声」なのだ、と思いがちである。
だからそのネガとして、「自分たち」以外の「声」、「死んだ声」をはなから眉唾物としてみるのである。

『自分たちの「コード」で示される情報は「真理」である』、それはネット上でかなり強い力で働く磁場である。
ある特定のネットワーク上のものという外に出てしまえば矮小でしかない言説がしかし、「コード」の力である種の空間において「真理」とされてしまう。
真理であるか、否かの基準が内容にあるのではない、「コード」にあるのだとしたら、「真理」として示されているのは無数の内容ではない、ある特定の一つだけの「真理」なのだ。
そんなふうに、ある特定の「真理」が常に繰り返して示されることを哲学者のジャック・デリダは再現前(リプレゼント)と名づけた。

インターネットというのは、そんなふうにコードの専制が顕著な空間である。
こんな風にある種のコードが横行するのは、なにもOHMYNEWSも例外ではない。

まず、「自分たちの言葉」であるからといって信用する前に、それを疑ってみてほしいのだ。
貴方が「自分たちの言葉」を語りだす前に、それを疑ってみてほしいのだ。
「自分たちの言葉」が、「生きている声」が、どれくらい卑劣か、まず考えてみてほしい。

モバイル版オーマイニュース(日本版)より

この記事の投稿者はO羽S史氏、投稿日時はおそらく2006年9月30日、「社会」カテゴリへ投稿されました。


この記事は正式採用された

の原稿ですね。上記正式採用された記事は2006年10月分の月間市民記者賞を獲得し、原稿料として1万円が進呈されました。

後日順番が回ってきた時にあらためて言及する予定ですが、この月間市民記者賞を受賞した際に鳥越俊太郎編集長(当時)から講評をいただきました。

■■鳥越俊太郎編集長・講評■■
(略)
■O羽記者の受賞記事について
 匿名の書き込み掲示板「2ちゃんねる」のいわゆる「2ちゃんねらー」と称する輩に敢然と正面から論戦を挑んだO羽記者の「死ぬ死ぬ詐欺・まとめサイトの卑劣さを考える」が出色ですね。この記事のいいところは、感情的にならずに自分が分からないところは「分からない」と言いつつ、「2ちゃんねらー」の言い分の最大の卑劣さを「君たちは心臓病の恐怖を一度でも味わったことはあるのか?」というかたちで、間違いなく今病気に冒されている患者のことを推測と憶測だけで攻撃する「2ちゃんねらー」と称する連中の弱点をずばっと切っている点ですね。

 オーマイニュースは「責任ある参加」を基本精神に掲げ、日本のネット社会に広がる匿名文化に対峙する形で「実名文化」を育てて行きたいと思っています。その点で私が当初より少々「挑戦的」な表現で言わせてもらっているように、この辺の衝突は避けられないと思っていました。しかし、こんなに早く市民記者の中から匿名文化と真っ向勝負する記事が出てくるとは思いもしませんでした。O羽記者にはさらにネット社会に潜む問題点について記者活動をしていただくようお願いしたいと思います。
(略)
■編集長賞はO羽記者とM本記者に
 以上5本の記事の中から私は「編集長賞」を決めなければなりません。前回は「公園のベンチ事情」で1発で決まりでしたが、今回は皆さんの記事が充実してきたせいでしょうね、本当のところ困っています。皆さんに上げたいくらいです。が、仕方がない、今回は2本にしました。

 「2ちゃんねらー」とバトルを繰り広げたO羽S史記者とM本H光記者です。N島記者は旺盛な取材精神で今後も記事を書いていただけると思います。恐らく次に機会があると判断し、今回は見送らさせていただきましたが、取材の方法や筆力などで言えば、十分「編集長賞」に値すると私は思っています。

11月の月間市民記者賞はどんなものが出て来るのか。今から楽しみですねえ!

オーマイニュース編集長・鳥越俊太郎

10月の「月間市民記者賞」発表(2006年11月25日掲載)オーマイニュース(日本版)より
引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000003400

一言だけ感想を書きます。

O羽S史記者も2ちゃんねるのコテハンです