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佐々木俊尚のオーマイニュースへの疑問 (下)

引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/blog/archives/2006/08/post_118.html
投稿日時:2006年08月24日22:00

(2) オーマイニュースは何を書こうとしているのか

かつてマスメディアの記事は、「多くの人が拠って立つと信じている基盤」があるという前提の上で書かれていた。「みんなが平等で幸せになれる社会こそが善である」「政府のやることは悪で、市民のやることは善いことである」という牧歌的な土台があり、その土俵の上でお互いの気持ちを確認できる記事であれば、それで良かったのだ。

しかし高度経済成長もバブル経済も終焉を迎え、総中流社会は崩壊した。人々の拠って立つ基盤は失われたのである。身も蓋もなくなったこの新しい世界では、民主主義という言葉ひとつをとっても、それがどのような定義で語られているのかを厳しく問い詰められる。アメリカのブッシュ大統領の語る民主主義と、イスラム圏に住む人たちの語る民主主義、共産中国の人たちが語る民主主義は同じ用語であっても、その意味は著しく異なっている。

だからこそ、この時代におけるジャーナリズムは「なぜ私がこの問題について怒りを覚えているのか」「なぜ私が感動したのか」「なぜ私はこれを批判するのか」という前提を、きちんと説明しなければならない。書き手と読み手がお互いの共通基盤を手探りしながらさぐりあて、それを確認しなければ安心して記事を読めなくなってしまったのだ。

つまりは「こんなに感動した!」「良かった、良かった」とよりどころのはっきりしない感情を垂れ流すだけの記事は、もう求められなくなっているのである。もちろん感動はジャーナリズムの大切な要素であり、書き手に感動のない記事は読む側を感動させることはできない。しかしその感動にも、共通基盤が必要だということを忘れてはならない。共通基盤という認識の欠如した記事には、その書き手にきわめて近いイデオロギーを持った読者しか感動することができないのだ。

「開店準備中ブログ」で書かれてきた記事は、果たしてこのような書き手と読み手の共通基盤を探ろうという努力があったのか。おそらくそれらの記事の大半は、きわめて限られた特定の読者層にしか訴求できなかったのではないか。

(3) オーマイニュースはブロゴスフィアとどういう関係を持とうとしているのか

オーマイニュースの鳥越編集長は、阿部重夫『FACTA』編集長のインタビューで、次のように語っている。

「新聞だって、雑誌だって、ちゃんとあなたは(発行兼編集人)阿部という名前を出しているでしょ。何か問題があれば、あなたは訴えられるわけでしょ。これが、やっぱりメディアの基本なんですよ。責任ある発言、責任ある参加なんですよ。それを安易にいっぱいアクセスして欲しいからといって、匿名でも何でもいいからいらっしゃいとやったら、これはもう根底からメディアとして崩れますよ。ブログはそれでいいんです。匿名掲示板とか、ブログの存在を全く否定する気はない。彼らはそこで遊んでいればいいし、楽しんでいればいい。ただ、寄せられたコメントをお読みになって分かりますように、同じ批判でもちゃんとした批判もあります。しかし明らかに自主的偏見とか、差別的、あからさまな人種的な、これはとても読むに耐えないというようなものもたくさんあります。そういうものは、僕らは全く受け付けません」

この「ブログはそれでいいんです。彼らはそこで遊んでいればいいし、楽しんでいればいい」という発言は、ブロゴスフィアで活動している人たちをいたく刺激した。鳥越編集長はなぜそこまでしてブロゴスフィアに反感を抱いているのか? 「開店準備中ブログ」が炎上し、批判的なコメントが大量に寄せられたからだろうか。

私は今回、この点についてまだ鳥越編集長と話していないから、その真意は今のところよくわからない。だがこの発言だけを見れば、鳥越編集長はブロゴスフィアとは一定の距離を置き、既存のブロゴスフィアとはまったく別の新たな「オーマイニューススフィア」を作ろうとしているように見える。だが果たして、今のやり方でそれは可能なのか?

現在、Web2.0的な考え方が広く認識されるようになり、メディアと受け手(視聴者、読者)のフラット化は著しく進んでいる。メディアが垂れ流してきた言説にブログが鋭い批判を加え、逆に今まで表舞台に出ていなかったマイナーな言論がブログによって陽の当たる場所に出てきたケースも少なからずあり、ブロゴスフィアとマスメディアの補完関係は今後もいっそう進んでいくように思われる。

もちろん、ブロゴスフィアの中には荒らしもあれば、妄想としか思えないようなひどい言説もある。だがそれを切り分けて、「このブロガーは良い人だから認めてあげて、コメント欄もトラックバックもOK」「このブロガーは妄想だから、私のところには来ないで」と障壁を作ることはできない。すばらしい言論も平凡な意見も、あるいは妄想系のヨタ話もすべてがひっくるめてブロゴスフィアであり、フラット化というのはそれらをすべて引き受けなければならないということなのだ。言い方を変えれば、その覚悟がなければインターネットのジャーナリズムは実現できない。

オーマイニュースには、その覚悟があるのかどうか。実名主義はオーマイニュースの最大の武器であるのは間違いないが、しかし匿名と実名を切り分けたからと言って、秀逸な意見とそうでない意見を切り分けられるわけではない。基本的には匿名-実名と、秀逸な言論-妄想言論というのは別の次元の話であって、実名にしたから素晴らしい発言ばかりが寄せられると期待するのは、それこそ幻想でしかない。

……以上、これまでの「開店準備中ブログ」を読んできて、私なりに感じたことをあれこれと書いた。実のところ、オーマイニュース日本版に対する私の個人的気持ちとしては「本当にちゃんとしたものができるのか?」という不信感でいっぱいだ。

しかしそれでも、この記事の冒頭にも書いたように私は韓国からやってきたこの新しいメディアにいまも大きな期待を抱いている。オーマイニュースのスタッフたちにも「このままではだめだ」という危機感は強い。今月28日のオープンは間もなくやってくるが、オープンの時点でオーマイニュースの枠組みのすべてが固定されるわけではない。私はこのメディアの可能性をまだ信じていたいし、スタッフたちとも協力していきたいと思っている。オーマイニュースの現状に落胆してしまった人も、しばらくはウォッチし続けていただければと思う。 (了)

わたしは鳥越俊太郎氏というサービス精神旺盛な人間が好きです。ITmediaの記事での「ゴミため」発言もリップサービスと承知しています。このエントリでも取り上げられている阿部重夫氏のブログでのブロゴスフィア関連の発言もその範囲だと認識しています。

どうでもいいことですが、鳥越編集長へのインタビューで「ゴミため」発言を引き出した岡田記者は内心ガッツポーズを決めてたんじゃないですかね。わたし的には大金星です。

日本版オーマイニュースにおいて、わたしは最後まで役割を果たせた自信はありますが、まわりの評価はどうだったのでしょうか。わたし気になります。