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佐々木俊尚のオーマイニュースへの疑問 (上)

引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/blog/archives/2006/08/post_116.html
投稿日時:2006年08月23日22:37

オーマイニュースの大原則は「開かれた多様な言論」。したがって外部からの批判も積極的に掲載していきます。今回掲載する佐々木俊尚さんはネット言論に通じたジャーナリストで、ネットユーザーの立場からの助言を頂戴すべく、編集委員に就いていただいています。

批判の対象は主に「創刊準備ブログ」に映った編集スタッフの姿や、他サイトで取り上げられた鳥越編集長の言葉ですので、市民記者が主役になる本番サイトには必ずしも当てはまりません。しかし貴重な意見なので掲載します。またスタッフからの佐々木編集委員への反論も明日以降掲載していきます。

(編集部)

オーマイニュースへの疑問 創刊準備プロセスから            佐々木俊尚

私はインターネットの世界の取材を専門にしているフリーのジャーナリストで、今回オーマイニュースの編集委員という仕事を引き受けることになった。実名による参加型メディアであるオーマイニュースの枠組みにある種の可能性を感じ、その枠組みは日本のネットジャーナリズムに新たな可能性を拓くかもしれないと思ったからである。

しかし、もちろん――ことはそう簡単ではない。

私が最初にオーマイニュースのオ・ヨンホ代表と会ったのは、今年春のことだった。汐留のパークホテルのラウンジで、オ代表は「日本でオーマイニュースを立ち上げるにあたって、どのようなことに留意すればいいと思うか」と単刀直入に聞いてきた。それで私は日本のネットメディアをめぐる現状について説明し、いくつかの論点を上げてオーマイニュースを日本に輸入することの意味と困難さについて話した。

その後、私は何度となくオ代表と会い、対話を重ねてきた。日本で新たな言論メディアを立ち上げることにはさまざまな難しさがあり、正直なところ、オ代表がどれだけ頑張ったとしても、それらのハードルを乗り越えるのはきわめて難しいと思った。しかしオーマイニュースという新しいネットメディアのフレームワークにはかなりの可能性があると思ったし、さらにそのフレームワークは、日本のネットの空間に何らかの影響を与えうるポテンシャルを持っているとも考えた。そうして結局、オーマイニュースに「編集委員」という肩書きで関わることになったのである。

しかしそのフレームワークに比して、現在のオーマイニュースが持っているリソースとコンテンツはあまりにもお粗末であるように思える。オーマイニュースのこの「開店準備中ブログ」を読む限り、さまざまな期待にはとうてい応えていない――ネットの世界の言論に慣れた人の多くは、おそらくそう感じているのではないか。

いったいなにが問題なのか。「何もかもが……」と言ってしまえばそれまでだが、しかしその問題点をもう少し掘り起こして考えてみたい。3点ある。

(1) オーマイニュースはそもそもどういう立ち位置なのか

韓国では、1990年代末に金融危機に陥り、財閥系が中心となった経済体制が崩壊した。金大中政権は国策としてIT化を推し進め、その中核を担ったのが、386世代と呼ばれた1960年代生まれの若い韓国人たちだった。1950年代から軍事政権が長く続いた韓国ではこの結果、インターネットを利用する若い世代と政治的なリベラル志向が強く結びつき、90年代末から2000年にかけての経済成長を生み、さらには盧武鉉政権を実現する大きな原動力となった。つまりは「革新」的なイデオロギーと、ネットが体現する新しい世代が不可分に結びついたのである。

ところが日本では、保守対革新というイデオロギー的対立と、オールド対ニューという新旧の世代対立がかなりねじれてしまっている。オールドリベラル、もしくはニューレフト的な「革新」イデオロギーはいまやオールドそのものと見なされているし、逆にネオリベラルに代表されるようなコンサバティブ思想はいまやニューの象徴になってしまっている。

そんな中で、日本の言論空間は左右に分解されるのではなく、左右と新旧、あるいは別のさまざまな区分けによってもカテゴライズされたうえで、ある種のマトリックスによって細分化される状況になっている。

マトリックス化された言論空間の中では、自分がマトリックスの中のどのような立ち位置で記事を発信しようとしているのかという「立ち位置」が明確に求められる。そうでなく「自分はそうした言論マトリックスとは無関係に、あくまでも第三者的な立場から客観報道を発信する」という立場を取るのであれば、それは明確な立ち位置のひとつであって、第三者的な客観性がきちんと求められることになる。

では、オーマイニュースはいったいどのような立ち位置であろうとしているのか。「開店準備中ブログ」のこれまでの記事を読むところ、明らかに戦後民主主義的な市民運動スタンスで記事を書いているとしか思えないが、もしその立場を貫くのであれば、その意志は明確にすべきではないだろうか。

たとえば終戦記念日の8月15日に掲載された『オーマイニュース記者が見た「靖国参拝」』という記事。筆者は、北海道新聞で約1年間の記者経験を積んだオーマイニューススタッフの中台達也くんである。フットワークが軽く、文章も巧みで、若手ながら高い能力を持ったライターだとは思う。

しかしこの記事は、客観報道の体裁を一見とりながらも、首相の靖国参拝に好意的な言葉を語る市民に対しては、「持論を展開し始めた」「ニヤリと笑う」「まくし立てた」という表現を使い、一方で批判的な市民については「静かに語る」「静かにそう語った」「言葉を継ぐ」といった言葉遣いをしている。その表現や、前半に参拝賛同意見を載せ、後半で反対意見を畳みかけるようにつなぐその原稿構成を見れば、中台記者がどのような立ち位置で記事を書いているのかは明確だ。彼は靖国参拝に対して、明らかに嫌悪感を感じているのである。

私はそれを肯定も否定もする気はないが、もしオーマイニュースがそういう主観を持っているのであれば、みずからの立ち位置をステートメントとして明示すべきではないだろうか。もしそれをあえてしないのであれば、左右新旧のぶれのない客観報道に徹するべきではないのか。

この点について私は中台くんに、「なぜこれほどまでに意図的な記事を?」と問うた。しかし彼は「読者を誘導するようなつもりはまったくなく、あくまでも公平に記事を書いたつもりなんです」と答えた。この不思議な受け答えは、オーマイニュースの他のスタッフにも共通していて、私が「週刊金曜日のような左翼系メディアにしようと思ってるんですか?」と聞くと、多くは口をそろえて、「そういうつもりはまったくなくて、イデオロギー的に偏ったメディアになっちゃいけないとずっと思ってるんですよね」と口をそろえるのである。私が思わず「じゃあどうして左に傾いた記事ばかり?」と問い返すと、「うーん、気がついたらそうなっちゃうんですよ。どうしてでしょう?」と答えるのだ。

その背景には、日本のマスメディアの記者教育の問題があるようにも思える。オーマイニュース編集部に集まってきているスタッフの多くは、新聞社やテレビ局などで仕事をしてきた人たちだ。彼らは記者としての教育を徹底して受けてきていて、「新聞らしい原稿」「テレビらしい原稿」を書くことに慣れきっている。その「らしい原稿」とはどういうものかといえば、「日本は豊かだけれど、大事な心を置き忘れてしまっている」「マネーゲームに狂奔するヒルズ族」「反戦平和を胸に誓った」といったようなステレオタイプの表現で書かれた原稿だ。こういう原稿を書くのが新聞だとみんな思っているから、無意識のうちに漫然と原稿を書くと、いつしか記事はどんどん左寄りになってしまうのである。オーマイニュース編集局には、この「無意識の左曲がり」が蔓延しているのではないかと思う。

実のところ、客観報道に一見見えながらも実は強烈に主観を打ち出すようなこうした書き方は、新聞のナンパ(社会面に掲載されるようなサイド記事)の王道で、正直に打ち明ければ私も新聞記者時代に飽きるほど書いた。しかしこうした記事は、フラットな土俵の中で読み手と書き手が相対化されるインターネットの時代においては、もう成り立たないと思う。

(*2点目以降の続きは明日掲載します)

【佐々木追記】
この原稿をオーマイニュース編集部に渡したところ、スタッフの間からいくつかの批判や指摘があった。ここではその詳細は記さないが、おそらくそれらの意見については今後、編集スタッフから記事のかたちでアップロードされるはずだ。

また韓国のオーマイニュース代表であり、日本法人社長でもあるオ・ヨンホ氏からはこの原稿に対して、次のような意見があったことを追記しておきたい。

「この原稿は常勤(社内スタッフ)記者の仕事の一部を見ているだけだと思う。私たちの本質は市民記者であって、彼らの持っているパワーがオーマイニュースの本質だ。また市民記者と常勤記者がどのように協力するかによっても、今後の結果は大いに変わってくる。そしてこのブログはあくまでも準備ブログである。28日のスタート以降に期待してほしい」

佐々木氏の使用する用語については一部わかりづらいものも含まれますが、各自で調べていただけるようお願いします。

さて、当時のわたしの立場を明確にした上で上記記事についての感想を書きます。

・鳥越俊太郎・日本版オーマイニュース編集長から「ゴミため」と呼ばれたネット掲示板『2ちゃんねる』の住人
・2ちゃんねらーは売られたケンカは買う(全員ではない)
・日本版オーマイニュースを遊び場と見ており、飽きたらいなくなる予定

佐々木氏の記事の内容に概ね同意するものの、個々の記者の記事構成・表現方法については特に問題視していません。そこに書いてあることが嘘か本当かを見ています。そもそも暴言に近い表現で市民記者さんを煽る人間に表現方法を云々言われたくないでしょうし。

佐々木俊尚氏のこのエントリに関してはブロゴスフィア(これもほぼ死語です)でも取り上げられて議論されていますので、そちらを検索して読んでみるのもよいかもしれません。