創作エッセイ(40)暗喩とは
私の文によく出てくる暗喩。英語でメタファーとも呼ばれる表現方法です。
具体的に挙げると「彼女の笑顔は太陽のようだ」と書くのが直喩。「太陽のようだ」と具体的に例えている。「彼女の笑顔が部屋中を照らし、みんなの不安を吹き飛ばした」と書くと暗喩である。「~のようだ」を頻繁に使う描写は幼稚な印象を与える。
この暗喩というのは、描写だけではない。
物語構成における暗喩とは
物語の構成で、この~は~を暗喩しているというケース。いくつか例を挙げてみる。
例)「ミス・リトル・サンシャイン」
2006年の米映画。アカデミー脚本賞を獲っている。
7歳の娘オリーブの子供用美人コンテストの決勝出場のため、家族全員がニューメキシコ州のアルバカーキからカリフォルニアのレドンドビーチまで旅をすることになるロード・ムービーである。旅の足は、フォルクスワーゲンの黄色いマイクロバスなのだが、ギアが壊れていてセカンドからしか繋がらず、みんなで押さなければならない。当初は文句を言っていた家族だが、旅の間に、それぞれの問題に気持ちの決着を付けていき和解する。この黄色いバスが、「家族」の暗喩になっている。「押さなければ走り出せないポンコツ車の話」が、ラストでは「みんなで協力すれば、ポンコツ車でも旅が出来る話」になっているのだ。
例)「プルガサリ 伝説の大怪獣」
1985年の北朝鮮映画。韓国から拉致されたシン・オンサクが監督。映画通と自称する金正日の命令で作られた。この作品に出てくる怪獣プルガサリは想像上の不可殺(プルガサリ)の生き物で鉄を食べて成長する。高麗王朝末期に主人公の娘アミの血で命を受けた怪獣は刀など鉄を喰い巨大化し民衆の側に立って王家の軍隊を倒す。しかし王朝が倒れた後も怪獣は鉄を食い続け、民衆にとってのやっかいものになってしまう。鐘の中に隠れたアミを誤って食べてしまった怪獣は、それを悔いて海に身を投げるという話。
実は、この映画で民衆の側に立って革命を成功させた怪獣プルガサリとは、金日成・金正日、二代にわたる金親子の暗喩に他ならない。後年、それがばれて監督はアメリカに亡命。作品は政治的な理由で世界公開を見送られたという。
例)「ゴジラ-1」
ご存じ現在ヒット中のこの作品。以前も書いたけど、今回のゴジラは「戦争それ自身」や、「必ず戦争を始めてしまう人間の業」などを暗喩している。だからこそ、何度でも蘇る。物語全体を通して、「抗え」というのは、国を挙げて戦争に邁進してしまった記憶から「逃げずに向き合え」ということかなとも思える。
暗喩だからこそ
このように、暗喩を深読みすることで作品の深さなどに気づくことが出来る。倍速視聴では気づけない。たかが映画や小説なのに、という声も聞こえそうだが、読者や観客はそれでいい。でも、作者や評論家はそれでは困る。
優れた作品ほど、声高な説明や説得や叫びではなく、暗喩などで「気づき」を促すのだ。
それに気づいて読み解くことこそ、評論家の仕事だろうと思うのだ。